報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十七章 師弟してい倶生ぐしょう

単行本「『地涌』からの通信(31)」おわりに

正法正義である故に大難にあう
顚倒の輩は大難にあうのはおかしいという

日蓮大聖人が末法の御本仏として正法をもって一切衆生を救わんがために、二度にわたり流罪され、竜ノ口で斬首されようとしたことは、弟子である私たちのよく知るところである。

法華経を信じる者が、かくのごとく難を受けるのは必定である。その受難については、法華経勧持品に明記されており、法華経の行者を志向する者は、自明の理として常日頃、肝に銘じているはず。

ところが、難の真っ只中に入ってしまうと、世間の咎はなにもなくて法華経を行ずる大導師が責められているのに、これまでその大導師に教えを乞うていた者のなかにも、あたかも世間の咎があって大導師が責められているかのように錯覚する者が出る。日蓮大聖人が佐渡に流罪されているとき、多くの弟子が日蓮大聖人に懐疑的になり、退転した。退転者らは、ことごとく自己正当化の論を述べ、日蓮大聖人が世間的な常識、倫理、法に反しているかのように論を立てたことは想像に難くない。

退転者らは難が怖くて退転したとも言わないし、あるいは、世間的栄誉を失いたくないから信仰を捨てたとも告白しない。昨日までの師を悪し様に批判し、ちっぽけな料簡で自分の面子を守ろうとする。果ては、みずからの卑しさは誰よりも自分がよく知っているのに、外に詭弁を弄し、人々を幻惑し、衆を頼んで尊き心を持つ人を傷つけることを企てる。ひとえに、みずからの卑しさを隠さんがためである。

多くの場合、この卑劣な主張が世を撹乱する。このとき、悪が正義を破ったかのような印象を、同時代人は往々にして受けるようだ。ところが、時は必ず悪を風化させ、正義を顕す。時の底流にある尊き人々の信念と行動が悪を駆逐し、埋もれていた正義を顕在化するのである。

戦中、牧口常三郎創価学会初代会長、戸田城聖第二代会長(当時・理事長)は、民衆圧殺の大悪法である治安維持法違反、不敬罪の罪で獄に囚われた。同じ宗教弾圧に遭遇し逮捕された他十九名の同志は、ことごとく退転した。その一人である副理事長の野島辰次は、逮捕された直後に芽生えた“退転の論理”を手記に記している。

「法華経をこの国から追放しようとでもいうのか、日蓮聖人を史上から抹殺しようとでもいうのか、いや、そんな大それたことは誰にも、どうにもしようのないことである。では、日蓮正宗という宗教を弾圧しようとするのか、若しこういうことなら私達は場合によっては命をかけても闘うであろう。しかし問題はどうやらこういう第一義的なことではないらしい。検挙の覗いは皇大神宮の大麻の取扱いであり、これは信仰の上からいえば、そうたいしたことではない。第一番目の大事でもなく、第二、第三の大事でもない。もし学会のやっていたことがわるいというなら、幹部を警視庁へでも呼び出して、一応懇談的に話をしても、結構らちが明く程度のことではないだろうか。だから仮に皇大神宮の大麻についても、私達には一つの理念と信念とがあるとしても、それが国法に触れるというなら、私達は何も国法を冒してまでも、それを敢てしようなどと思ってはいないのである」(『我が心の遍歴』より)

野島は、仏法を国法に対し、二義的なものとして捉えている。末法の御本仏である日蓮大聖人の教えを、有為転変の国家体制に従属させることが正しいと判断したのである。国家神道が隆盛を誇る時代の流れに呑み込まれてしまい、日蓮大聖人の御書を読んでいたにもかかわらず、仏法の核心に迫ることができないでいたのだ。ついに野島は、自分が獄に繋がれたのは、民衆が幸福になるべく説かれた日蓮大聖人の仏法を牧口会長が間違って教えたためであると結論し、牧口会長を深く恨む。野島(文中・健助)は、牧口会長(真木)の獄死を知ったときの心情を以下のように赤裸々に綴っている。

「そのもう一つの真実があったればこそ健助は真木の獄死をきいても少しも動じた色も見せず、そしてまた真木の弔問にも出かけて行かなかったのだ。それは真木大三郎に対して大きな反感を抱いていたからだった。これを反感という二字の言葉に現してしまうと、それがどんなに大きなものだとしても結局それは一つの感情に過ぎないようだが。実はそんな生やさしいものではなかった」(『我が心の遍歴』より)

野島はこの文の後、牧口、戸田両会長を個人攻撃している。挙句は、創価教育学会についても、

「もっと純粋な、きれいな団体でなければいけない、ちょっとゆすぶるとまるで泥溝を掻き廻したように汚い不純な慾の塊りのような集まりである」(同)

などと批判している。野島は刑事や検事に脅されて捜査に積極的に協力し、会員名簿をみずからすすんで提出するなどして同志を裏切り、創価教育学会壊滅の引き金を引いていながら、あくまで自己を正当化しようとしているのである。

今日においても、同様の光景を目にする。去る十一月七日、退転者である龍年光らが「創価学会による被害者の会」を結成し、記者会見した。退転者らが、いよいよあからさまな創価学会攻撃を始めたのである。龍らは、自民党国会議員に操られた霊友会などによって構成される邪宗野合組織「四月会」とも連動しながら、創価学会を包囲殲滅しようと画策している。この策動の裏には山﨑正友がおり、それらを日顕が承認して、けしかけている。

自民党は臨時国会の冒頭(十月三日)、池田大作名誉会長を証人喚問申請した。議員証言法を悪用しての露骨な創価学会に対する脅迫行為である。いま創価学会に対する弾圧の包囲網が、徐々にしぼられてきている。いよいよもって、仏の軍勢と魔の軍勢の決戦の時は近い。日蓮大聖人御入滅後、これほどの戦を仏弟子の誰が喚起し得たであろうか。これをもっても、創価学会の正義は自明のものとなるのである。

「爰に日蓮彼の依経に無きの由を責むる間・弥よ瞋恚を懐いて是非を糺明せず唯大妄語を構えて国主・国人等を誑惑し日蓮を損ぜんと欲す衆千の難を蒙らしむるのみに非ず両度の流罪剰え頸の座に及ぶ是なり、此等の大難忍び難き事・不軽の杖木にも過ぎ将又勧持の刀杖にも越えたり、又法師品の如きは『末代に法華経を弘通せん者は如来の使なり・此の人を軽賤するの輩の罪は教主釈尊を一中劫蔑如するに過ぎたり』」(曾谷二郎入道殿御返事)

いかに閉塞した状況に見えても、仏法から見れば勝敗は明らか。その明らかなる勝敗を現実の世界に示すことは、すなわち師の正義を証明することである。弟子を自認する者は、信仰の利剣をもって包囲網を寸断し、謀略の糸を断ち切るべきである。

1994年12月

家族友人葬のパイオニア報恩社