報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十七章 師弟してい倶生ぐしょう

単行本「『地涌』からの通信(29)」おわりに

日顕宗らは仏法を商売道具としている
故に彼らの"仏法"は"難解"である必要がある

日蓮大聖人の仏法を信解せず、仏法を商売道具として考えている日顕らは、できるだけ仏法をむずかしいものにしようとする。仏法は、一般大衆には理解することも、信ずることもむずかしいものであるかのように説く。それを正当化するため“難信難解”との経文の一偈まで持ち出す。

仏法を知識化し、訓詁注釈の領域に押し込め、一般大衆の生活域と隔絶したところに封じ込める。権威づけのため特殊な仏法用語を多用し、あたかも出家のみが仏法の本質を極めているかのように装う。

ときには伝統仏教に自己の存在を委ね、他の宗派と変わらぬ修法も見せる。献膳の儀において箸をせわしなく動かして見せるのは、他の多くの既成仏教においてもおこなわれていることで、格別に日蓮正宗の伝統ではない。

これを日蓮正宗独特の作法と思い込んでいる坊主がおり、自慢げに話しているのは、狭隘なる知識の故の独善にほかならない。御本尊の前で、仏飯に箸を差したり抜いたりしながら、せわしなく箸を動かしてなんの意味があろうか。

去る四月二十八日に大石寺においておこなわれた立宗会で、日顕が献膳の儀を執りおこなっているとき、箸でオカズのようなものをつかみそこね、コロコロと転がしたのは、誠にもってお笑いであったが、これなどは田舎芝居の役者が大見得をきる寸前にセリフをトチッたようなものであろう。

田舎芝居で思い出したが、お会式のとき、御影堂において“法主”が回りくどい請いに応じ、不自然に高い台の上で説法するのも、あまり感心した演出ではない。これをもって上行菩薩の涌出、あるいは日蓮大聖人の出現を意義づけると言われても、まるで悪しく敬っているとしか見えないのである。

そもそも“法主”が日蓮大聖人の名代となり、高座から衆生を見下ろして説法するという感覚が、どうにも日蓮大聖人の仏法と背反するものと思えてならない。

このお会式のルーツは、第十七世日精の時代に遡るという。日精は、京都要法寺流の邪義を大石寺に持ち込んだ謗法“法主”である。その日精が考え出した儀式ならば、なるほど時代の変遷とともに、ここまで奇妙な儀式になってしまうのかと、うなずけるのである。

お会式の儀式について、法華経の重要場面に擬した“芝居”と言ってくれればいいものを、最重要な固有の儀式と位置づけ、しかも高座に登った大石寺の住職が仏法を難解にアレンジし、聞いている者にできるだけわからないように話すから、それこそ話がややこしくなるのである。

出家が得意げにおこなっている献膳の儀だとか、お会式の儀式だとかは、日顕が好んで持ち歩いている中啓(大きな扇子様のもの)程度の意味しかない。これらの儀式や道具について、それなりの意義づけをもって坊主らは語るが、所詮、出家の権威づけを目的にしたものであり、日顕が所化をブン殴るとき中啓を使うように、儀式も本当のところは信者を煙に巻く程度の役割しかなしていないのだ。

どうも日顕宗の坊主らは、日蓮大聖人の仏法の本質を隠し、信者に畏敬の念を持たせ、それらの人々を支配収奪することを目的としているようだ。これは、日蓮大聖人御在世当時の極楽寺良観らのおこなっていたことと同じ。日顕らは、良観らと共通する邪師なのである。

こう見てくるとき、日蓮大聖人の仏法を純真に信じ弘めてきた創価学会の師弟が、今日において日顕らと対峙し、徹底して破折し追撃しなければならない本源的な理由が了解できるのである。

創価学会の師弟は、七百年前の日蓮大聖人一門と不思議な縁の故に同じ戦いをしている。ただ、南無妙法蓮華経を信じ奉り、仏法中の怨を責めているのである。

日蓮大聖人曰く。

「爰を以て品品の初めにも五字を題し終りにも五字を以て結し前後・中間・南無妙法蓮華経の七字なり、末法弘通の要法唯此の一段に之れ有るなり、此等の心を失うて要法に結ばずんば末法弘通の法には不足の者なり剰え日蓮が本意を失う可し、日蓮が弟子檀那別の才覚無益なり、妙楽の釈に云く『子父の法を弘む世界の益有り』と、子とは地涌の菩薩なり父とは釈尊なり世界とは日本国なり益とは成仏なり法とは南無妙法蓮華経なり、今又以て此の如し父とは日蓮なり子とは日蓮が弟子檀那なり世界とは日本国なり益とは受持成仏なり法とは上行所伝の題目なり」(御義口伝)

いま創価学会の師弟が、題目を閻浮提に弘めんと勇んでいる。

1994年5月

家族友人葬のパイオニア報恩社