単行本「『地涌』からの通信(26)」おわりに
創価学会三代は法華経の行者である
霊山の一会は厳然として未だ散らない
仏意仏勅の和合僧団である創価学会が御本尊を授与することは、むしろ当然であり、仏法に適ったことである。創価学会の歴史をひもといてみれば、創価学会三代にわたる歴代会長が、一点の曇りもなく偉大なる“法華経の行者”であることがわかる。
宗開両祖は、御本尊流布の時を待つように遺弟に教えられたが、その待望の時はまぎれもなく今時である。
池田大作名誉会長を中心に世界一千万人の同志が、日蓮大聖人の仏法を信受し、果敢に折伏行に励む姿は、“地涌の菩薩”雲集の広宣流布の実相を示すものである。まさにこの和合僧団は、「霊山一会儼然未散」の文を現実のものにしたといえる。創価学会の実在こそが、霊山会そのものなのである。
その創価学会が、日蓮大聖人の示された閻浮提広宣流布という大目的のために、総本山第二十六世日寛上人の御形木御本尊を受持即観心の理に従い仏弟子たちに授与していくのである。これほど喜ばしいことはないし、仏法上、意義深いことはない。
創価学会が御本尊を授与することは、単に日顕が狂乱し御本尊を下附しなくなったから、その対抗上おこなうのではない。創価学会の御本尊授与は緊急避難措置としておこなわれるのではなく、仏意仏勅の和合僧団として当然の資格を有する者としておこなうのである。
日蓮大聖人が御図顕された御本尊は、久遠元初の自受用報身如来の一念の心法に具備する十界三千であり、御本仏日蓮大聖人の御生命そのものである。
したがって、霊鷲山の儀式も虚空会の儀式も、ことごとく御本尊に包摂されており、一つも余すところはない。「霊山一会儼然未散」と天台大師が述べたところの御姿それ自体である。
さらに述べれば、「霊山一会儼然未散」とは、御本尊に向かい唱題する創価学会員一人ひとりの姿である。向仏合掌する仏弟子の胸中に厳然と宝塔が涌現し、わが生命それ自体が虚空会を現ずる。
御本尊も仏弟子も創価学会そのものも「霊山一会儼然未散」の姿と現ずる。仏法に説かれた究極の生命の実在をそこに認めることができる。
創価学会が御本尊を授与し和合僧団としての権能を確固たるものとして、師とともに世界広宣流布の船出をしようとする現時において、なおさらその仏法上の意義をかみしめざるを得ない。
我らは今まさに師とともに霊山浄土に列出しているのである。
「第十四時我及衆僧俱出霊鷲山の事
御義口伝に云く霊山一会儼然未散の文なり、時とは感応末法の時なり我とは釈尊・及とは菩薩・聖衆を衆僧と説かれたり俱とは十界なり霊鷲山とは寂光土なり、時に我も及も衆僧も俱に霊鷲山に出ずるなり秘す可し秘す可し、本門事の一念三千の明文なり御本尊は此の文を顕し出だし給うなり、されば俱とは不変真如の理なり出とは随縁真如の智なり俱とは一念なり出とは三千なり云云。
又云く時とは本時娑婆世界の時なり下は十界宛然の曼陀羅を顕す文なり、其の故は時とは末法第五時の時なり、我とは釈尊・及は菩薩・衆僧は二乗・俱とは六道なり・出とは霊山浄土に列出するなり霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり云云」(御義口伝)
御本尊を核とし師に連なる我らは、三世にわたり「霊山一会儼然未散」なのである。
1993年10月