報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十七章 師弟してい倶生ぐしょう

単行本「『地涌』からの通信(22)」おわりに

一閻浮提第一の合戦が起こる時
必ず民衆救済のため聖人が出現する

御本仏日蓮大聖人曰く。

「聖人の出ずるしるしには一閻浮提第一の合戦をこるべし」(四条金吾殿御返事)

戦争と聖人出現には、深い関係がある。

日本における創価学会の発足と発展も、まさに戦争との相関において見るべきである。

創価学会の牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長が日蓮大聖人の仏法に縁した昭和三(一九二八)年は、第一次世界大戦の終結後、十年目であった。この翌年(昭和四年)、世界は大恐慌に見舞われる。

東洋において、労少なくして第一次世界大戦戦勝の潤い(山東省に関する利権)を得た日本も、世界不況の例外ではなく、貧困が人々を苦しめた。その貧困を癒すために日本は、東洋への武力侵略を進める。

西洋列強の植民地主義に遅れをとるまいとする、この日本の侵略政策を、思想的にバックアップしたのは国家神道であった。天皇を“現人神”と崇め、御稜威を世界に遍くするという国家神道の宗教目的が、日本軍国主義の野望である東洋の植民地化と軌を一にしたのである。

このため日本は、「一閻浮提第一の合戦」たる第二次世界大戦の主役を演ずることになる。戒壇の大御本尊様を格護し、日蓮大聖人の仏法を謗法にまみれながらも現代に伝えてきた日蓮正宗も、大政翼賛会に組み込まれ、国家神道が国民を「聖戦」に駆り立てるにあたり、そのお先棒を担ぐに至った。日蓮正宗は、日蓮大聖人の御書を削り、信徒に伊勢神宮を遙拝し神札を受けることを命じた。

この日蓮正宗のなかにあって、ただ創価教育学会のみが死を賭して日蓮大聖人の仏法を護持した。その創価教育学会も、昭和十八年に牧口初代会長、戸田第二代会長(当時、理事長)ら幹部二十一名が逮捕され国家権力により弾圧されたことにより、組織は壊滅的打撃を受けた。

昭和十九年十一月十八日、牧口常三郎初代会長は獄中において殉教。昭和二十年七月三日、戸田第二代会長の出獄により創価学会の再建がおこなわれる。

一方、日蓮正宗はといえば、昭和二十年六月十七日、総本山第六十二世日恭上人が大石寺大火とともに焼死。その死にざまも、竈にスッポリ下半身が嵌まり込み、身動きができないまま上半身のみ黒焦げになるという無残な死に方であった。このとき日恭上人は、おそらく大奥寝所の二階に寝ていたが、身体が不自由なうえに火のまわりが早かったため逃げることができず、なんらかの事情から、竈に嵌まり込んだものと思われる。“法主”でありながら数々の謗法を犯したことにより、現罰が厳然と下ったのである。

創価学会戸田第二代会長は、焦土に一人立ち、日蓮大聖人御遺命の仏国土実現に向け弘教の戦いを始めた。

戦後まもない昭和二十二年八月二十四日、当時十九歳の池田大作名誉会長が入信。戸田第二代会長と池田名誉会長の三世にわたる師弟の絆が、今日の世界に広がる創価学会の基盤を築いた。戸田第二代会長亡き後、昭和三十五年五月三日、池田名誉会長は三十二歳で第三代会長に就任。それ以降、世界広布実現へ向け、創価学会の驚異的な戦いが続いている。

日蓮大聖人曰く。

「今こそ仏の記しをき給いし後五百歳・末法の初・況滅度後の時に当りて候へば仏語むなしからずば一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん、聖人の出ずるしるしには一閻浮提第一の合戦をこるべしと説かれて候にすでに合戦も起りて候にすでに聖人や一閻浮提の内に出でさせ給いて候らん、〈中略〉末代の法華経の聖人をば何を用つてかしるべき、経に云く『能説此経・能持此経の人・則如来の使なり』八巻・一巻・一品・一偈の人乃至題目を唱うる人・如来の使なり、始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり」(四条金吾殿御返事)

このたびの僣聖増上慢との戦いにあたり創価学会員は、創価学会出現の不思議、そして師とともに戦場にある不思議を感じている。

1993年3月

家族友人葬のパイオニア報恩社