報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十七章 師弟してい倶生ぐしょう

単行本「『地涌』からの通信(19)」おわりに

創価学会は金剛不壊の生命の結晶体
邪悪なるものがいかに策しても壊すことはできない

師を間違っては、いかなる成仏もかなわない。求めるべきは師である。

一切の迷妄から生命を解き放ち、あらゆる艱難に立ち向かう生命力を与えてくれる。やさしくわかりやすく仏法の哲理を語り、世界の人々の胸に希望の明かりを灯す。生涯にわたり障魔と戦い、仏の子供たちを守る。不思議なほどに間断なく妙法広布の波動を起こし続ける。そのような示同凡夫の師を求めなければならない。

我ら地涌の菩薩が仏法に縁したのは、今生だけのことではない。釈迦仏が法華経を説いたときは上首上行菩薩と倶に会座に連なり、本源的には久遠元初に三世不変の師弟の契りをなした。以来、あらゆる娑婆世界という仏土に師と俱に生まれ、師が衆生を教化する戦陣に加わり、師弟不二の厳粛なる事実を悟り、己が生命を感動に震えさせてきた。三世にわたる師弟という生命の結合体は、幾世にも及ぶ障魔との戦いを経て、あくまで強く美しく結晶化した。究極にまで結合した生命の結晶体は無数にして無限、時間も空間も超えて実在する。もちろん、結晶体の核は師である。核たる師の波動は、無量無辺の結晶体全体を共振させる。

金剛不壊の生命の結晶体を壊そうとして、邪悪なるものが大きな力で結晶体を叩くとき、結晶体は果てしなく熱くなり、そして輝く。結晶体を形づくる生命一つひとつより、無尽蔵のエネルギーが迸り出てくるのだ。そのために、結晶体に紛れ込んだ不純なるものは、気化し霧散する。結晶体は純化し、より強く固く美しく輝き、三世十方を照らす。

日顕に師たる資格があろうか。日顕が人々に与えるものは、虚無であり不信であり絶望である。人を悲嘆させるために、末法の御本仏・日蓮大聖人の正嫡を装いながら、傲慢、放蕩、奢侈の限りを尽くす。仏法を衆生のものにさせまいと、眠気をもよおすまでにわざと難解な用語を使い仏を衆生より遠ざけ、生命よりあらゆる感動を奪う。従う者ことごとくは、不幸になる。

日顕は仏の法を口にしながら、身は仏の法を破る。謗法厳戒を説きながら、みずからは謗法を犯す。“法主”でありながら、禅寺墓地に行き先祖の墓を建立し、追善法要をする。信徒には“歓喜の歌”が謗法であると度を超した訓戒を垂れながら、みずからは謗法になれ親しむ。仏法における善悪の峻別を混乱させ、衆生を欺き誑惑する。

御本仏日蓮大聖人を恋慕渇仰する世界一千万人信徒を破門する。慈悲深い“法主”であるはずなのに、破門処分はしても教導はせず、破門状にも仏語は一言も書かれていない。日顕が発するのは、地獄の獄卒のような仮借のない処分だけである。日顕にあるのは信心ではなく、三毒強盛であるが故に涌き出ずる邪智だけである。邪智は策謀となって世に顕れる。和合僧団を破壊し、衆生を地獄に転落させ、支配し収奪したいのだ。獄卒に魂を抜かれ地獄を彷徨する衆生を騙すのはたやすい。血涙を流し肉が裂け哀切に呻いている者が握りしめているわずかばかりの金が欲しいのだ。みずからは高きにあって高価な衣装を着てふんぞり返り、偉ぶり、衆生を見下げ、跪ずいて金を差し出すのを卑しき薄ら笑いを浮かべ待っている。

腐敗した出家にとって衆生の苦しみ悩みは、我が喜びである。病んでいれば供養をせよと言い、悩んでいても供養をせよと言い、苦しんでいても供養をせよと言う。身内の死に悲しんでいる者がいれば回向のために供養せよと言い、戒名がなければ成仏しないと脅して供養をせしめようとし、僧侶抜きの葬儀では堕地獄疑いないと、これまた詐りの法を説き、衆生が悲しみの極限にある葬儀の場では鼻息荒く威張り、仏の使いのような仕草をして供養を懐にして去る。日顕はこれら売僧を司り、衆生を仏法不信に陥れ、衆生より仏を隠し歓喜を奪う。

悪比丘らは慈悲をすべての口実にして、悪行をおこなう。衆生を成仏しないなどと脅すのも慈悲であれば、衆生に供養を強要するのも慈悲、果ては破門した者の供養を返さないのも慈悲であるという。悪比丘らは供養を返せば、破門した衆生が本当に地獄に堕ちるなどとうそぶく。騙すのも脅すのも掠め盗るのも、すべて悪徳は慈悲という便利な言葉で善と化す。これらの悪比丘を束ねる日顕に、地涌の菩薩の師となる資格はない。日顕は邪師悪師にして仏法破壊の第六天の魔王の手下である。仏法を学し成仏を志す者は、決して親しみ近づいてはならない。

仏子らは邪悪な師を容赦なく責め、正しき師の下に結束すべきである。心を清らかに素直な気持ちで師を見いださなければならない。我らは誰に仏法を習い、誰に御本仏の名を教えられ、誰に信心の歓喜を与えられたか。澄みきった心で当たり前に事実を見れば、師を見つけるのは簡単なことである。仏法は道理である。事実を無視した奇想天外な論理に仏も師も実在はしない。もっとも折伏をおこない、広く法を弘め、多くの人々に仏の偉大さを教え、歓喜を与えている者が師である。

我らは創価学会に入会し仏法に縁し、池田大作名誉会長に仏法を教わった。一生を通してその原点を忘れず、報恩の一念を持ち続けることが重要である。その一念が具象化し、黄金の一生となる。

眼前に展開する事実を見据え、未来にわたる確信としよう。創価学会三代を貫く師弟の光輝は遍満たる広がりを見せ、仏子を糾合し、歓喜の坩堝に浸らせている。光源に集まった仏子らの生命は歓喜している。この実相は未来世までも、なお続く。

「経に云く『在在諸の仏土に常に師と俱に生ぜん』又云く『若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん』釈に云く『本此の仏に従つて初めて道心を発し亦此の仏に従つて不退地に住す』又云く『初め此の仏菩薩に従つて結縁し還此の仏菩薩に於て成就す』云云、返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給うべし」(曾谷殿御返事)

師を核に団結し、障魔を挫き、生命の世紀を拓かん。

1992年11月

家族友人葬のパイオニア報恩社