第889号
発行日:1995年11月7日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
七月三日一人の如説修行の行者が出獄し焦土日本に立った
この日より民衆救済のための師子奮迅之力の戦いが始まる
〈仏勅シリーズ・第20回〉
日蓮大聖人曰く。
「されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有る可しと知り給へ、されば釈尊御入滅の後二千余年が間に如説修行の行者は釈尊・天台・伝教の三人は・さてをき候ぬ、末法に入つては日蓮並びに弟子檀那等是なり、我等を如説修行の者といはずば釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず」(如説修行抄)
【通解】したがって如説修行の法華経の行者には三類の強敵が必ず競い起こると知って覚悟を決めることである。ゆえに釈尊の滅後から二千余年のあいだに如説修行の行者は、釈尊・天台・伝教の三人はさておいて、末法に入ってからは日蓮とその門下の弟子檀那がその行者である。われらを如説修行の者であるといわなければ、釈尊・天台・伝教の三人も如説修行の行者ではなくなってしまう。
七月三日、戸田城聖会長は豊多摩刑務所より保釈された。この七月三日の様子を記す前に、戸田会長出獄前後の戦況を記述しておきたい。
五月二十五日の空襲を最後に、首都・東京へのB29の攻撃はやんだ。そのかわり、地方都市への徹底した空襲がおこなわれる。
少しさかのぼるが、五月十四日には、五百機のB29が名古屋を空襲。十九日には三百機のB29が静岡、浜松、豊橋を攻撃。そして二十九日には横浜(五百機)、六月に入ってからは、一日、大阪(四百機)、五日、神戸、西宮、芦屋、七日、大阪、尼崎、九日、名古屋、明野、各務原、十日、千葉、日立、十五日、大阪、尼崎、十七日、鹿児島、十八日、浜松、四日市、大牟田、十九日、福岡、静岡、豊橋、二十二日、岡山、呉、二十六日、名古屋、二十八日、佐世保、門司、二十九日、岡山、延岡と戦略的プランに基づき、B29を中心とした空襲が続けられた。
戸田会長の出獄の日である七月三日には、佐世保、高松、高知、姫路、淡路、徳島、五日には下館、東金、勝浦、六日には千葉、明石、清水、甲府、九日には岐阜、仙台、堺、和歌山、四日市、新潟、富山、十日には熊本、八代、十二日には宇都宮、一宮、敦賀、宇和島、川崎、十四日には函館、釧路、帯広、根室、釜石、十六日には沼津、大分、桑名、平塚、十九日には福井、銚子、岡崎、尼崎、二十日には大津、二十四日には大阪、名古屋、津、桑名、和歌山、二十五日には川崎、津久見、二十六日には松山、徳山、大牟田、磐城、二十七日には郡山、鹿児島、二十八日には青森、一宮、津、宇治山田、大垣、二十九日には浜松、三十日には舞鶴、三十一日には鹿児島、八月一日には八王子、長岡、富山、水戸、五日には前橋、高崎、八王子、芦屋などが爆撃された。
このように日本全土にわたり徹底した空襲が昼夜の別なくおこなわれた。
この攻撃により、地方都市は潰滅的打撃を受け、何十万人もの市民が死んだ。地方都市のなかには、防空体制の充分でないところもあり、B29はまるで破壊と殺人を楽しむかのように一方的で無差別な絨緞爆撃を繰り返した。
米軍による空襲、海上封鎖により、日本国民が生活するための食料および物資は決定的に不足していた。爆撃された地方都市では、道端の草もなかった。食べられると思われる草はことごとくむしり取られ、食料にされたのである。作れば盗まれるだけなので、もはやネコの額のような空き地に畑を作る者もいなくなった。
配給通帳は、あるにはあったが、ときどき大豆カス、大根、鰯の配給があっただけで、米はまったく一般国民には回ってこなかった。その配給の大根も二人家族の場合、五センチメートルほどしかもらえなかったと語る人もいる。
自由販売もあったが、二~三時間並んでわずかなものを手に入れることしかできなかった。国民は、芋のツルからカボチャの葉、茎など、なんでも食べた。
このような国民総じて欠乏のときであっても、高級将校の家はなぜか物資の豊富なところが多かった。
この日本全国の都市のありさまを見れば、天皇臨席の最高戦争指導会議が今後の作戦として決定していた「本土決戦」「一億玉砕」が、どれほど愚かなことであるかは一目瞭然であった。だが軍部は婦女子を駆り立て、竹ヤリを持たせ軍事訓練をさせた。また焼夷弾攻撃に対抗させるために、敵弾に濡れた蒲団をかぶせる、あるいはバケツリレーをするなどの訓練を課した。
三月十日の東京大空襲では、これらの対抗策を講じたため国民が逃げ遅れ、累々たる屍を重ねることになったのに、それを反省せず、軍部は連合軍の圧倒的な物量に対するに、偏狂な精神主義ばかりを国民に押しつけたのであった。
日本国はすでに滅んでいた。
日蓮大聖人曰く。
「罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり」(聖人御難事)
【通解】罰には総罰(社会全体が受ける罰)・別罰(個別的に受ける罰)・顕罰(表面に顕れる罰)・冥罰(表面には顕われず、知らず識らずのうちに受ける罰)の四種がある。日本国に大疫病が起こり、大飢饉におそわれ、北条一門に同士討ちが起こり、また他国から責められているのは総罰である。
七月三日は梅雨時独特の厚い雲が東京の空を覆っていた。時折、雨も降った。東京気象台の記録によれば、この日の気温は二〇・五度から二五・四度、湿度九〇・四パーセント、雨量一ミリメートル以上一〇ミリメートル未満。このデータからすれば、戸田会長の出獄の日は、ときどき雨の降る、かなり蒸し暑い日であったといえる。
戸田会長が豊多摩刑務所から出獄したのは、夕刻のことであった。戸田会長は浴衣姿で手には大きな風呂敷包みを持って、同刑務所の鉄門の脇のくぐり戸から出てきた。
身体には肉というものがなく、腕も脚も棒のようであったという。戸田会長は持病の肺患、喘息、心臓病、糖尿病、リューマチ、片眼は失明寸前、末期の栄養失調のため慢性下痢を病み、腹のみ膨れていた。
その戸田会長を迎えたのは、妻、姉、姉の息子の三人であった。丸二年にわたり獄に囚われ、すっかり足腰の弱った戸田会長、おまけに栄養失調状態となれば、この蒸し暑い宵の刻に歩くことは、はなはだ困難なことであったろう。
事実、豊多摩刑務所と省電・中野駅との距離は、道のりにして約千百メートルに過ぎないのに、戸田会長は途中、一休みしている。
中野駅から新宿駅に出、同駅で山の手線に乗り目黒駅下車。目黒駅の階段を昇りきり、改札を出たところでも小休止したということである。目黒駅を出て、同駅そばの時習学館の焼け跡を訪ね、そこで煙草を吸った。都電にて白金台到着。
戸田会長は、昭和二十年八月に夫人の弟に出した手紙のなかに、次のように書いている。
「二年間の独房の生活。ついに核心取った。弟子本来の本当の生活意識をとりもどした。その日のくるまで、御本尊様からお許しはいただけなかった。七月三日午後八時、ついにお許しを得て、七二九日目で台町の家に帰った」(青娥書房発行『若き日の手記・獄中記』)
昭和十八年七月六日に官憲に同行を求められ逮捕されて以来、実に二年ぶりのわが家であった。戸田会長は着替えをし勤行をした。
この七月三日の出獄を期に、戸田会長はそれまで名乗っていた戸田城外を改め戸田城聖とした。心中、期すべきものがあったのであろう。
戸田会長は極度に衰弱した身体ではあったが、翌四日には依頼していた渋谷の弁護士のところを訪ね、傘下にあった十七の会社の実態を掌握。入獄前、隆盛していた企業群も、二百五十万円の借金をかかえ疲弊していた。
翌五日には、中野にあった歓喜寮に堀米泰榮住職(のちの日淳上人)を訪ねている。戸田会長の衰弱した身体と気候を考えれば、出獄後、猛烈な精神力をもって行動し始めたことがわかる。
七月十一日、戸田会長はみずからのノートに記していた「心影余滴」と題する短文のなかに、
「永劫の命に染みし我が罪垢 浄むる今のつらく嬉しき」(同)
と歌を残している。
出獄直後、戸田会長は妹の主人宛に獄中の悟達に触れ、次のような手紙を書いている。
「K雄さん、城聖は(城外改め)三日の夜拘置所を出所しました。思えば、二年以来、恩師牧口先生のお伴をして、法華経の難に連らなり、独房に修業すること、言語に絶する苦労を経てまいりました。おかげをもちまして、身『法華経を読む』という境涯を体験し、仏教典の深奥をさぐり遂に仏を見、法を知り、現代科学と日蓮聖者の発見せる法の奥義とが相一致し、日本を救い、東洋を救う一代秘策を体得いたしました」(同)
戸田城聖会長は、「日本を救い、東洋を救う一代秘策」を胸に、焦土・東京の一角で大情熱をたぎらしていたのである。
日蓮大聖人曰く。
「只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ 即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(諫暁八幡抄)
【通解】ただ、南無妙法蓮華経の七字五字を、日本国の一切衆生の口に入れよう(信じさせよう)と励むだけである。これは、すなわち、母親が赤ん坊の口に乳を与えようと励む、慈悲なのである。
戸田会長が出獄した豊多摩刑務所(写真は昭和57年当時)