報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十六章 仏勅ぶっちょく顕然けんねん

地涌オリジナル風ロゴ

第886号

発行日:1995年11月1日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

法華経を行ずる者に大難が出来することは御金言に明らか
戸田会長は獄にあって死に直面しながらも法悦にむせんだ
〈仏勅シリーズ・第17回〉

日蓮大聖人曰く。

「既に法華経の為に御勘気を蒙れば幸の中の幸なり瓦礫を以て金銀に易ゆるとは是なり」(波木井三郎殿御返事)

【通解】すでに法華経のために、御勘気をこうむったことは、それこそ幸いの中の幸いである。瓦礫をもって金銀にかえるというのは、このことである。

昭和二十年の正月が明けた。戸田会長は、東京拘置所の独居房に拘置され予審判事の取調下にあった。とはいっても、実際のところ予審判事は、戸田会長への取り調べをすることができないでいた。

戸田会長を取り調べていた数馬伊三郎判事は、神経衰弱になってしまったのである。戸田会長は、次のように書いている。

「毎日、唱題と祈念と法悦の日はつづけられるとともに、不思議や、数馬判事の私を憎むこと山より高く、海よりも深き実情であった。法罰は厳然として、彼は天台の一念三千の法門の取り調べになるや、重大な神経衰弱におちいり、十二月十八日より三月八日まで一行の調書もできず、裁判官を廃業してしまったのである。

牧口先生をいじめ、軽蔑し、私を憎み、あなどり、同志をうらぎらせた彼は、裁判官として死刑の宣告をうけたのである」(論文「創価学会の歴史と確信」『戸田城聖全集』第三巻所収)

戸田会長が法華経の行者として、予審判事と堂々と戦ったさまが眼に浮かぶ。取り調べ室に戸田会長の確信に満ちた声が響いたことだろう。

だが、この昭和二十年の一月八日、獄中にあって法悦にひたる戸田会長は、衝撃の事実を知る。師たる牧口会長の死である。

「私は牧口会長の死を知らなかった。昭和十八年の秋、警視庁で別れを告げたきり、たがいに三畳一間の独房に別れ別れの生活であったからである。二十歳の年より師弟の縁を結び、親子もすぎた深い仲である。

毎日、独房のなかで、『私はまだ若い、先生は七十五歳でいらせられる。どうか、罪は私一人に集まって、先生は一日も早く帰られますように』と大御本尊に祈ったのである。

牧口先生の先業の法華経誹謗の罪は深く、仏勅のほどはきびしかったのでありましょう。昭和二十年一月八日、投獄以来一年有半に『牧口は死んだよ』と、ただ一声を聞いたのであった。独房へ帰った私は、ただ泣きぬれたのであった」(同)

この一月八日の夜を戸田会長は、どのような思いで過ごしたのであろうか。牧口会長との不思議な出会い、思い出の数々が脳裏に去来したことだろう。間歇的に感情が高ぶり、そのたびに滂沱の涙が枕を濡らす……。

そして、必ず生きて獄を出て牧口会長に代わり広宣流布の大願を果たさんことを、仏に誓ったのではあるまいか。それが師たる牧口会長を宣揚することであり、真実の報恩であると。

戸田会長は出獄後、小説『人間革命』を書いているが、戸田会長に擬した登場人物の氏名は「巌九十翁」であった。「巌九十翁」つまり「巌窟王」を意味する。

牧口会長の死を知った夜、妙法の巌窟王の闘志は獄窓を突き破り、天空を貫いたことだろう。

獄中にあって唱題を重ね、仏法に逢い奉った悦びにひたる戸田会長であったが、現実の生活は逼迫していた。戸田会長が逮捕されたことにより、経営していた会社は行き詰まり、家族ともども困窮の最中にあった。

一月十一日、戸田会長は夫人の弟に宛て、次のような手紙を書いている。

「金の差し入れたのみます。

一銭もなくなって、非常に不自由をしています。Cさんに、社に、また、台町へ二本もたのんだが差し入れがない。きっとI子(夫人)が留守か、何か大変があるだろうと心配している。

この手紙つき次第、君の手元の金何程でも至急差し入れたのむ」(筆者註 原文はカタカナ表記であるが、ひらがな使いに改めた。以下、同様。青娥書房発行『若き日の手記・獄中記』より一部引用)

戸田会長は、このように金の無心をし、その後に種々の品物の差し入れを頼んでいる。

「一 シャツ冬のもの今一枚たのむ。(今一枚きりである)

二 ズボン差し入れ屋に準備したら、取りかえのはがき下さい。

三 ちり紙たのむ。

四 奥川書房の三階に、一冊五円の本で売れなくなったのが二、三百冊があったはず、Q君に話して差し入れて下さい。

五 滋養剤と読む物手に入ったらたのむ」(同)

最後に書かれている滋養剤の差し入れ依頼が目を引く。戸田会長の身体は、長い獄中生活で相当に衰弱していたと思われる。

牧口会長の死が栄養失調に原因すること、併せて生存中の前年の冬は指が凍傷になっていたことを考え合わせると、戸田会長においてもやはり寒い冬を乗り切ることは大変なことであったろう。戸田会長は氷を割ってタオルを濡らし、身を切る冷たさに耐え、身体を拭く辛さを出獄後に懐古している。おそらく夜は寒さと蠢く虱で眠れず、昼まどろむことが多かったのではあるまいか。ただし、横になることは規則で許されなかった。

二月十四日にも、戸田会長は夫人宛に金の差し入れを頼んでいる。

「一 お金をすまぬが三十円だけ差し入れたのみます。

二 親子なぐさめ合って、私のものを売るなりして暮らして下さい。

三 身がら保証金の支度も、べんご士に渡しておいて下さい」(同)

獄にいても娑婆の様子はなにかと聞こえてくるもの。

新しく入獄してきた者が、娑婆の空気を伝えてくる。その話は、独居房であろうとも看守のパトロールの間隙をぬい、中庭に面した窓から窓へと口づてに伝えられていく。聞けば、外の世界もまた地獄であった。

戸田会長は鉄窓の向こうに広がる空の下で妻子が非国民扱いされ、どのように寂しい思いをし、どれほど生活に困っているかと思うと、胸が張り裂ける思いであったろう。

だが、囚われの身であるために、妻子に手を差し伸べるどころか、逆に妻子に無心しなければならない。そのやるせなさ情けなさは、いかばかりであったろう。

日蓮大聖人曰く。

「今夜のかんずるにつけて・いよいよ我が身より心くるしさ申すばかりなし、ろうをいでさせ給いなば明年のはるかならずきたり給えみみへ・まいらすべし」(五人土籠御書)

【通解】今夜の寒さにつけて、ますますわが身よりも牢中のあなた方のことが思いやられて、心の苦しさは申しつくせない。牢を出られたならば明年の春かならず佐渡へおいでなさい。お会いしましょう。

身不自由なればこそ、慈しみの心ますます大きく、出獄を期す思いは強固なものとなった。民衆救済を目指す法華経の行者の旅程ほど厳しいものはない。戸田会長は師を失った悲しみと飢えと寒さのなかで、ひたすら耐えていた。

家族友人葬のパイオニア報恩社