第862号
発行日:1995年6月28日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
やはり日顕は宗内を欺き山﨑正友を頼りにし密談していた
隠しに隠してきたが「六月六日に会った」と山﨑が公言した
六月二十四日午後一時三十分から午後四時三十分まで、高知県南国市のホテル・ホリデイ・イン高知において、公開シンポジウム「日本の未来・心の道しるべ」がおこなわれた。
主催は国際正法協会で、会場にあてられた会議室には約四十名が参加。山﨑正友、園頭広周(同協会会長)、頼拓司(同協会講師)の三人が話をし、その後、登壇者との質疑応答がおこなわれた。
この質疑応答の際、
「正信会と日蓮正宗はどうなっていくのか」
との参加者の質問に対し、山﨑正友が以下のような注目すべき発言をした。
「六月六日、大石寺で御法主上人猊下にお目通りし、ねんごろに話をした。今後のことも種々語り合った。猊下は、『正信会とは時間はかかるが、前向きにいける』との話だった」
これまで日顕宗は、日顕と山﨑正友との密接な関係を表立っては否定してきた。山﨑正友が日顕に出した何通もの手紙が暴露されたときにも、
「仮にも私がどなたに手紙を書いたとしても、それは私が勝手にすることであって、それをもって『結託』などと、言う方がどうかしています。その論法でいけば、私はあちこちに手紙を書いてきましたから、日本中の超大物達と結託していることになってしまうでしょう。こんな論理の飛躍ぶりは、もう、妄想としか言えません」
との山﨑のコメントを日顕宗機関紙『慧妙』(平成七年三月一日付)に掲載し、ことをモミ消そうとしてきた。
ところが今回、当事者である山﨑正友本人が、日顕との密談の事実を、公の場で話したのである。しかも、
「今後のことも種々語り合った」
というのだから尋常なことではない。その「種々語り合った」ことのひとつに、正信会との和解の問題があったことは、山﨑の話の流れからして容易に想像できる。
ともあれ、日顕が山﨑と直接会い謀議をめぐらしていること、日顕が正信会の復帰を時間をかけてでもおこなおうとしていることが判明した。
正信会問題といえば、日顕の「血脈相承」についての疑義が紛争の基にある。正信会側は、
「日顕は先師日達上人より相承を受けていないのではないか」
と疑ってきた。正信会がこのような疑念を持つに至ったのは、山﨑正友が『週刊文春』誌上などで、
「近年では、御相伝の事は、後世に疑いをのこさぬために明確かつ公然と行われている。もし、日達上人が、御在世中にその事を行われていたならば、必ず公表されておられるはずである。〈中略〉“御相伝”そのものは、なされていた形が、どこにも見当らない。見た人は、だれもいなかった」(『週刊文春』昭和五十五年十一月二十日号)
などと、あおったためである。日顕は、この正信会による自己の相承に対する批判に激怒し、正信会の坊主たちを大量に破門にした。その山﨑と日顕が密談しているのである。
かつて仇敵であった二人を結びつけているのは、創価学会なかんずく池田大作創価学会名誉会長に対する怨念である。
創価学会を恐喝した悪徳弁護士と、ゆえなく創価学会を“破門”した悪比丘が、真実の和合僧団である創価学会の隆盛を妬み嫉み手を組んだのである。
さらに、もうひとつ両者が手を組んだ大きな理由がある。
いまや、昭和五十三年四月十五日に相承を受けたとする日顕の主張を信ずる者は少ない。多くの者が日顕の相承に嫌疑をいだいている。日顕は相承の根拠が希薄であるからこそ、相承に最初に疑問符を投げかけた山﨑と手を組む必要があると判断したのだ。
日顕としては山﨑を自陣営に引き込み、自己に対する都合のよい発言をさせ、相承に対する疑いを霧散させようとはかったのである。この日顕の行動自体、日顕に相承がなかったことをなによりも雄弁に示している。
もし、正当に相承を受けている者なら、自分について、
「相伝をいつわって登座した方」(『週刊文春』昭和五十五年十一月二十七日号)
などという無礼な文章を週刊誌に書いた者を自分のそばに近づけるはずもない。日顕には、相承を受けなかったという弱みがあるがゆえに、山﨑と手を組む必要があった。
一方、山﨑は欲のために日顕ににじり寄ったのである。正信会傘下の貧乏寺にワラジをぬぐよりは、金回りのよい日顕にとりつくのが上策と考えたのである。
創価学会および池田名誉会長への怨念、相承詐称、そして欲望が、日顕と山﨑の野合の下地にある。
さて、話を高知県南国市での公開シンポジウムにおける山﨑正友の発言に戻そう。山﨑は、
「身延の坊主が大石寺に見学に来たのは謗法ではないと猊下は言っていた」
とも話した。日顕は六月六日の山﨑との密談で、このようなことまで話したのである。
ちなみに、日顕の言う「身延の坊主」とは日蓮宗池上本門寺の坊主らのことで、日顕と山﨑の密談のおこなわれた同じ六月六日に大石寺を見学にきている。このとき、大石寺側は能化の高野日海が応対し、寺内をニコニコ顔で案内した。大石寺側の歓待の陰には、日顕のこのような判断があったのである。
同じ日に、山﨑正友と身延の坊主とが大石寺を訪れていた──、現在の大石寺の荒廃を象徴する出来事である。
開祖日興上人は御遺誡置文において、
「五人の立義一一に先師の御弘通に違する事」
「謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事」
と厳しく戒められている。日顕が大石寺貫首にふさわしくないことは、この一例をもっても知れるのである。
山﨑は、この公開シンポジウムにおいて、
「園頭先生は師匠で私は弟子だ」
とも公言した。山﨑に師と仰がれる国際正法協会の園頭は、
「私は、池田大作と大川隆法が一日も早く死ぬようにと祈っている。肉体と魂は別。肉体よりも魂を救うことが大事。早く天上界に返してあげることが、彼らのためだと思うからだ」
と、まるで“ポア”発言ともとれる狂った話をしていた。
山﨑は、この公開シンポジウムにおいて、
「(創価学会では)私の名前を全国の会館の仏壇の前に張り出し、早く死ぬように祈っている」
と事実に反した被害妄想的な発言をしていたが、師と仰ぐ園頭の呪詛の姿が瞼に焼きつき、かくなる妄言が口をついて出たのだろう。
ともあれ、園頭を師と崇める山﨑を頼りにし、その悪知恵を借りようとする日顕は、いったい誰の弟子なのだろうか。
日顕を“御法主上人猊下”と奉る宗内の人々は、日顕のこの狂った現実に刮目すべきである。日顕はここまで狂い、かつ堕ちた。