報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十三章 権威けんい瓦解がかい

地涌オリジナル風ロゴ

第766号

発行日:1994年5月29日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日顕狂って曰く「供養する信徒は僧を堕落させる悪い奴」
自分の堕落した罪を信徒になすりつけるこの幼児性を見よ

五月二十六日午後二時から四時八分まで、大石寺大講堂で全国教師寺族指導会がおこなわれた。式次第は次のとおり。

一、挨拶            総監・藤本日潤

一、法人会計事務について    財務部長・長倉教明

一、大石寺第四課の実務について

                大石寺理事・小川只道

一、クロウ事件について     海外部長・尾林広徳

一、末寺活動状況報告      法海寺住職・影山広道

                持妙寺住職・松藤欣道

一、日顕の話

今号では、式次第のなかで最後の日顕の話の一部を紹介する。日顕の話は、創価学会に対する中傷ばかりであった。日顕は、話の冒頭から創価学会を攻撃するよう参加者を煽った。

「あの今日、日本最大の邪宗教、日本最大の邪宗教はなんだと言えば、まさしく創価学会であります! これをハッキリ腹に入れてください! それであるならば、みなさん方も、一部の人の中には、考え方が、なまぬるい風呂の湯に入ったようなグズグズした考え方は一挙に捨てて、本当に、創価学会を慈悲のうえから、徹底して破折しなければいけないんだという気持ちを、ハッキリ持っていくことこそ大切だと思うのであります」

日顕は、懸命に創価学会攻撃を煽動するのだが、聞く者の反応は極めて弱い。日顕は、創価学会が「邪宗教」であるという論拠として、戸田城聖会長の指導を引いた。

「まっ、戸田氏が言っている言葉の中にも、ようするに、このー、『お札も似ておるほどだまされやすい。ハッキリ、一目見てニセ札だとわかるようなものは、誰もだまされやしない。身延と日蓮正宗は同じ南無妙法蓮華経を唱えている。いかにも同じようなことを言っておるようなふうをしてもニセものである。これを本当に破折することが、目下の、最大の邪宗教の身延を破折することが大事である』ということを述べておるのであります」

日顕は、自分が人を説得する論理を持たないから、戸田会長の指導を我田引水のごとく孫引きして、創価学会が「邪宗教」だという唐突な話に説得力を持たせようとしている。

だが、日顕の話には正邪を判ずる規範がない。法華経を信ずるとしながら、信徒蔑視の差別観(邪義)をもって信徒支配を企み、信徒からの収奪のみに腐心している。

日蓮大聖人の弟子を自称しながら、狂乱した“法主”の己義を御本仏日蓮大聖人の説かれた法義の上に置き、仏法を破壊している。この日顕宗の実情は、悪であり、邪である。

日顕宗は、創価学会が世界に日蓮大聖人の仏法を流布することを妨害している。この行為は、日蓮大聖人の仏意に反するおこないであり、紛れもなく大悪である。

日顕は、創価学会と日蓮正宗が似ているとし、創価学会が邪宗教と言っているが、似ているということだけで、「日本最大の邪宗教」と決めつけることは不当であり、戸田会長の指導を悪しく利用しているにすぎない。

問題にされているのは、いま日顕ら一党が日蓮大聖人の仏法に反することを口走り、仏法破壊に血道をあげていることである。

結局のところ、問題にすべきは、いまの「日蓮正宗」が日顕宗と化し、本来あるべき日蓮正宗の教学とも相容れないものとなっていることなのだ。日蓮大聖人の仏法と似ても似つかぬ邪義を掲げている自宗の姿を、心ある教師、寺族は恥ずべきである。

なお、今後のためもあるので日顕に伝えておくが、日顕宗の坊主らに戸田会長の指導を引く資格はないことを知るべきだ。

戦中にあっては弾圧を恐れ、牧口会長、戸田理事長(当時)を登山止めはおろか信徒除名とし、戦後にあっては神本仏迹論の邪義を破す創価学会を恐れ、戸田会長を故なき罪に陥れた。これら宗門の犯した戸田会長に対する非道な行為を謝罪してから、戸田会長の指導を口にすべきである。

なお、戸田会長の指導を口にする場合、

「さて、いま柏原君の話のなかに『破和合僧』とあったが、僧とは、社会を指導し、人を救う資格をもつのが僧である。心中ではたがいに憎しみ、猫がねずみをうかがうようなのは、形は法衣をまとっても僧ではなく、いまの学会の組長、班長が、一生懸命でいっさいの人々のために働いている姿こそ、真の僧といえるのである。この結合を破るものには、かならず罰がある。

うそだと思ったら、やってみたまえ。和合僧とは、仏法上の哲理をもってすれば、学会のことである」(『戸田城聖全集』第四巻所収の昭和二十八年十一月二十二日、東京・中央大学講堂における指導)

「広宣流布をなすのは、学会以外にない。これにそむけば五逆罪になる。学会を離れてしあわせなものはいない」(『同』第四巻所収の昭和二十九年二月二十七日、東京・豊島公会堂における指導)

などの指導の紹介も忘れぬことだ。

さて日顕、話の中で第十七世日精について、「日精上人を謗法だとか、調べてみれば日精上人の謗法なんかないんだ」と、歴史を感情論で歪めて話した。

日精が邪義を用いたが故に大石寺内に邪義が浸透し、第二十六世日寛上人が『末法相応抄』などを示され、宗内の邪義一掃をはかられたのである。これは、史実の確固たる流れ。また、近代の碩学・第五十九世日亨上人の著された『富士宗学要集』にも、日精の邪義は明らかだ。

それを日顕は、「御相承、血脈を受けたのちに、日精上人が厳然として、富士の正しい正法正義をハッキリとたてられておるということは、これは明らかなのであります」と、あくまで“法主”は間違いを犯さないと強調するから話がおかしくなる。

“法主”が「血脈」を相承しているが故に無謬であるというなら、第六十二世日恭は、なぜ無惨な焼死をしたのだろうか。無謬の者が無惨な焼死では、法が間違っていることにすらなる。

もっと素直に、日恭は大謗法を犯したから無惨な焼死をしたと理解すればいいのである。すなわち、“法主”であっても過ちを犯せば、現罰・別罰、覿面ということになる。

それが、仏法の厳しいところである。日顕は、仏法を、恣意的に解釈している。すなわち、語っているところは我見なのだ。

日顕は、謗法“法主”として同類の日精を庇ってみせたあと、話をますます脱線させる。「一心欲見仏 不自惜身命」の寿量品の文言を引き、堕落坊主の開き直りぶりを見せる。

「だから、私がみなさん方に申し上げたいのは、暴露だとか脅し記事なんかに恐れなさんな! そんなものに、いま、私がチョット昔、チョット、まっ、ある若い頃、まー、うー、なんだ、まー、人間だからね、まっ、いろいろ多少はあるよ。若いうちは、とくに。いーじゃないか、人は! なにも、それを暴露されたことが、堂々と、『あー、私は若いときにチャントあそこへ遊びにいきましたよ』と。(笑い)堂々と言い切るくらいの覚悟をもちなさい!

また学会のね、誹謗なんてね、ウソもあれば本当もあるだろう。少しは本当も。(笑い)大勢の中には。けれどね、どれひとつ取り上げたからったってね、じゃ、それでもって我々が手を、警察でもって、あの、手に手錠をかけられるというようなことありますか? まったくありゃしない!」

ワッパが手に嵌まらなければなにをしてもいいというのが、日顕宗の宗旨のようである。このようなバカげたことを“法主”の地位にある者が、感情的になって吠えるようにまくしたてる。

日蓮正宗は、もうおしまいである。御本仏を恐れない者が、“法主”となってしまったのだから。

挙句は、

「彼らは、ジーッと御供養して、信仰やって、坊さんが堕落するのを待ってたんです! これは、そう言えるんです。そうして、最後に堕落しきったところで、我々が宗門全部を利用して適当に料理しよう。うん。いこう。これが、いままでの彼らの本心ですよ」

と、仏前に供えられた御供養を掠め盗って放蕩三昧をした我が身の罪を篤信の信徒になすりつける。

供養した信徒が悪いのか、供養を広宣流布とは無縁の放蕩に使って堕落した坊主が悪いのか、誰が考えてもわかる善悪である。自称「僧」も、こんな論理を言い出してはおしまいだ。

自省もなく、すべての責任を人に転嫁する──日顕の幼児性がここにも顕著に現れている。このような幼児的な思考しかできない男が、宗門を創価学会攻撃にけしかけるのだから、無謀の謗りは免れない。

次に日顕は、創価学会側の破折を前に分がないと考える宗内の良識派の台頭を恐れて、次のように話しはじめたが、腰砕け気味に終わった。

「『長期戦だ、もう百年戦争だな、こりゃ。いやもう、とにかく、とっても、あんな連中とケンカするなんてかなわない』というようなことを、時々、聞くんだ、そういうこと。これは、とんでもないよ。厭戦気分っていうのかな。『もう、いいかげんにやめてくんないか。元のとおり仲良くしたらどうだ』。とんでもないことなんです、そりゃ。(笑い)フッ。笑ってる人は、なんか考えておったな。まー、ないと思うけどな。あのー、ない、ないだろう。笑った人は、こんなことは考えていないから笑うんだな。(笑い)ハッ。そういうことだと思います。うーん」

日顕は、自分で話しながら疑心暗鬼になってしまったのである。これではまずいと思った日顕は、話を転じ、やみくもに虚勢を張り始める。

「我々の彼らに対する破折は、大聖人様の御仏智を拝しての、仏菩薩の立場からの大慈悲の破折である、折伏であるということですね。彼らの姿はどうかといえば、あれは地獄、餓鬼、畜生、修羅、まず三悪四趣だね。そこから、だからもー、ありとあらゆる、ないことあること、捏造、中傷、誹謗、悪口が、次から次へと出てきてるわけであります。

こりゃもう、まったくあれだ、あのー、うん、なんですよ、もっ、だいたい土台が違うんだ。赤ん坊に、三歳、四歳の子供にぶたれたって大の大人が怒らないでしょう。我々も怒る必要はないけれども、ちっとも、ああいうものに対して。怒るほどの値打ちもない! そういう程度の低い者どもですから、これに対しては、ただ大慈悲において、常に常住にその気持ちをもって、破折し救っていくという心が大事であります。

池田大作は将来、千劫阿鼻地獄に堕ちた、あの不軽軽毀の衆より、さらに何百億劫も長く無間地獄に堕ちてもだ、それをまた救っていくのが我々なんだ。常に我々は救う立場であります。

だからね、いわゆるその、なんて言いますか、境界も違うし、立場が違うんですから。どう、だから、その百年戦争だとか厭戦気分なんてのはね、あくまで、あー、相手がこう、いろんなこと言ってることに対して、こっちも同じようなところまで引き下がってね、同列の立場になってケンカをするなんて考えがあるから、それだから、その百年戦争だとか、だからとても大変だなんていうような考え方も出てくるんじゃないかと思う。

ぜんぜん、この、もう、土台、彼らの境界と我々の立場とは、まったくこの異なっておるということですね。これをひとつ、ぜひ、まず申し上げたいと思います」

日顕の論理は、未来永劫に出家のほうが在家より「立場」が上だから、いつも救う側にあるのだということなのである。日顕の話すことには、仏法の片鱗もない。あるのは、ただ坊主の慢心である。狂って堕落した者に人を救うことができようはずがない。

懸命になって坊主の優位を説く日顕だが、創価学会を前にしての形勢の悪さは認めざるを得ないようで、次のように現状認識を吐露した。

「やっぱり、この組織ぐるみでの、えー、日蓮正宗に対する誹謗やなんかは、やっぱり、かなりまとまってるものが、一応、あるとは言えます。

それに対して、こちらがですね、せっかくの尊い法華講が、せっかく作りながら、なんだか知らないけども、この、もやもやとわけのわからない方向性に、一定しないような形があるのは、やはりこれは、あのー、充分、この、将来の正しい、いー、正法を破邪顕正のために、えー、不充分な姿が、いつまでたっても折伏もできないような形があると思うのであります」

要は日顕、現状を敗北と認識しているのである。それでいて宗内に突撃を命ずるのだから、惨めな結果となるのは衆目の一致するところ。あとは破滅しかない。

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