報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十章 霊山りょうぜん未散みさん

地涌オリジナル風ロゴ

第708号

発行日:1993年11月20日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

国家神道の悪酒に酔いしれた特高警察は学会を弾圧したが
三世不変の師弟の絆に楔を打ち込むことはできなかった
〈仏勅シリーズ・第13回〉

牧口常三郎会長は、昭和十八年七月六日に伊豆・下田で逮捕され、翌七日に警視庁に送られて以来、九月二十五日まで警視庁に留置されていた。その間、約八十日、牧口会長は特高警察の訊問を受けた。

警視庁での取り調べは、牧口会長の寿命を縮めるのに充分なものがあったろう。食事は、“臭い飯”という言葉もあるように、粗悪な麦飯が一膳、ときにはコーリャンも混じった。

この麦飯に三食とも一杯の味噌汁がつくのだが、それはまさに味噌のスマシ汁、塩湯のようなものであった。朝飯は、それにお新香がつくのみ。あとの二食は、ヒジキなどがひと握りオカズとしてつく程度の食事であった。

当時の監房は不潔で、ノミ、南京虫が跋扈しており、睡眠も思うようにできない。加えてトイレが監房内にあり、間仕切りもない。社会において通常の生活をしてきた者は、監房に入ってからの二~三日は、食事も排便もままならない。

そのうえ、看守が罵声をあげ、取調官が精神的、肉体的にジリジリと圧迫を加えてくる。しかも、留置されている者は、いつ娑婆に出られるのか皆目、見当もつかないのである。留置されたことによる環境の激変により、肉体的、精神的な消耗は相当なものがあった。

そして、一日の長いこと。取り調べがあれば、それなりに緊張感のある時間が過ごせ、時の経つのもいくらか早いが、取り調べのない日ともなれば、一分は一日と感じられ、一時間は数日に思える。もちろん、横になることも本を読むことすらもできない。ただ、じっと座っているだけである。

牧口会長が警視庁に留置された七月、八月は、一年でもっとも暑い時期。留置場の中は蒸し風呂のように暑く、風がソヨとも通らない。停留した空気が、そのまま時間の停滞を示しているかのようであっただろう。

じっとしていても汗が流れ、まとわりつくノミや南京虫が、気分をいっそう、うっとうしくさせる。そのような中で、牧口会長は特高警察に対し、日蓮大聖人の仏法を莞爾として説いたのであった。

他方、戸田城聖会長は牧口会長が下田で逮捕された同じ七月六日、芝区白金台の自宅から高輪署に連行され、そこに十四日間、留置されて特高の取り調べを受けた。

このときの思いを、戸田会長は出獄後、「妙悟空」のペンネームで『人間革命』に記している。

「暑い七月の留置場には悪臭と悪気が漂い澱んでいて湿気が多く、なにも彼も饐えそうな気持がする。

その中で、巡査に監視されて無言の正座を強いられている苦しさ、腹の皮が背へ付きそうな空腹に堪えている辛さ……それは地獄であった。

慈悲深くて正直で親切で、世を想い国を想い、人々を想って、教育者の頃には優れた著述をされ、今は、日蓮大聖人以来、濁らないで伝わってきている日蓮正宗の正しい信仰を人々に勧めて余念のない、宛然、仏さまのような牧田城三郎先生が、この苦痛を受けていられるのは、なにゆえか……巌さんは考えつづけている」(筆者註 牧田城三郎は牧口会長のこと)

戸田会長が、高輪署から牧口会長のいる警視庁に移送されたのは、七月二十日のことであった。以降、戸田会長は十一月十一日に巣鴨の東京拘置所に移監になるまで、警視庁で特高の取り調べを受けることとなる。

ちなみに牧口、戸田会長などを取り調べたのは、警視庁にあった特高二課。この特高二課には一班から十班までの班があり、一班は十名で編成されていた。つまり、特高二課には百名の課員がいたのである。

そのうち宗教関係を担当していたのは、七班と八班。牧口会長らを取り調べたのは、どうやら七班のようである。七班の班長は木下英二(警部、のち警視)、課員には宮田某(課長代理)、斎木統一などという人物がいた。

当時の警視庁は現在と同じ場所にあったが、地上六階、地下三階の建物だった。特高一課、二課および外事課は四階にあった。取り調べは地下二階、地下三階でおこなわれ、治安維持法違反などの思想犯関係者は、地下三階で取り調べられたようである。

地下二階へ行くには、刑事であっても係の警官に誰何され、身分証明証を提示しなければならなかった。さらに、地下三階に行く場合は、再び検問を通るという厳重さで、地下三階には特高以外の刑事が入ることは許されなかった。

留置場は地下二階、三階にあり、独居房、雑居房、婦人房があった。独居房の数は雑居房より多かった。牧口会長はどうやら独居房、戸田会長は雑居房に留置されていたようだ。

なお、創価教育学会関係者の中には警視庁の五階で取り調べを受けた者もいるが、五階は、いつもは会議などに使う部屋があったようで、その部屋が流用されたと思われる。

警視庁に移された戸田会長が最初に牧口会長と会ったのは、九月初旬のことであった。留置場に帰る戸田会長と、留置場から出る牧口会長とが偶然、出会ったのである。だが看守がいるため、両者は顔を見合わせただけのスレ違いに終わった。およそ、二カ月ぶりの無言の対面であった。

同じ九月のことと思われるが、牧口会長が自宅から差し入れされた安全カミソリを不用意に手にしたところ、刑事がそれを見つけ牧口会長の頬を平手で打った。その様を偶然、居合わせた戸田会長が目撃する。

そのときの無念の思いを振り返り、昭和二十五年十一月十二日に東京・神田の教育会館でおこなわれた牧口初代会長の七回忌法要で戸田会長は次のように話している。

「先生といえば戸田、戸田といえば先生といわれた仲で、昭和十八年の嵐にあったときも、もうこれで、先生とお会いできないと思っておりましたのに、警視庁の調べ室でいっしょになることができました。そのとき先生は、家から送られた品物のなかに、カミソリがはいっておりました。先生は、それをいかにもなつかしそうに、裏返し、表返しして見ていたのです。なにかの思い出でもあるかのように、ほんとうに恋しそうにながめているのです。

そのときに、同志稲葉君を蹴った刑事で斎木とかいったと思う男が、ものすごい声をはりあげて、『牧口、おまえは何をもっているのか。ここをどこと思う。刃物をいじるとはなにごとだ』とどなりつけました。

先生は無念そうに、その刃物をおかれました。身は国法に従えども、心は国法に従わず。先生は創価学会の会長である。そのときの、わたくしのくやしさ……」(『戸田城聖全集』第三巻より一部抜粋)

牧口会長と戸田会長とが、今生最後の別れをすることになったのは、牧口会長が警視庁から東京都豊島区巣鴨の東京拘置所に移監になる九月二十五日のことであった。戸田会長は特高の警部に頼み込み、言葉を交わしている。

このとき、戸田会長は涙があふれ、「先生……お身体を……」と、声をかけるのがやっとであったと述懐している。

牧口会長が東京拘置所に移監されたということは、警視庁においての取り調べが一段落したことを示す。

東京拘置所に送られた牧口会長は、独居房に入れられた。独居房の入口は頑丈な鉄扉で、目の高さの所に亀甲型の監視穴がある。看守が時折そこから拘置されている者をのぞき見るのである。

鉄扉を開けると二枚の畳が敷いてあり、その向こうは横一畳くらいの板の間となっている。そこには、横向きに洗面台(横六十センチ、縦三十センチくらい)があり、そのフタを上からパッタリと閉めれば机となる。その机に向かうために座る椅子は、フタを開ければ便器となっている。

天井は妙に高く、ポツンと電球が一つあるのみ。部屋の左右は、厚いコンクリート壁。奥の壁には縦に長い窓がある。その窓には鉄格子がはまり、ガラス窓にはスリガラスがはまっている。

鉄格子の間から手を伸ばし、窓の下側を押せば二十センチばかり斜めにガラス窓が開く。そこからわずかばかりの地面が見え、上のスキ間からほんの少しばかり空が見える。

牧口会長が拘置されていたのは、四舎二階の二十五房であったと伝えられている。

その独居房に移された五日後、すなわち九月三十日、牧口会長は自宅に一枚のハガキを書いている。そのハガキで牧口会長は、

「一、金二十円。

一、着物ヲ合せ一枚(ワルイノデヨシ)

一、ざぶとん一枚(オヽヒヲカケテ)

一、御書二冊(日蓮聖人御遺文)書キ入レシナイモノ」(『牧口常三郎全集』第十巻より一部抜粋)

を、差し入れてくれるよう頼んでいる。

注目されるのは、御書二冊の差し入れをさっそく頼んでいることである。東京拘置所に移った被疑者は、留置場とは異なり本を読むことを許可されるが、その最初の差し入れに、牧口会長はまず御書二冊を頼んだのだ。

このハガキで、牧口会長は、「朝夕のお経は成るべくそろうて怠ってはいけません」(同)と信心指導をし、通信ができるようになった喜びを込めて、「十日に一度手紙出せます」(同)と記している。

十月四日付の留守宅への封緘ハガキにも、「信仰怠るな」(同)の文言が見える。十月十一日付の封緘ハガキには、

「老人には当分こゝで修養します。安心して下さい。一個人から見れば、災難でありますが、国家から見れば、必ず『毒薬変じて薬となる』といふ経文通りと信じて、信仰一心にして居ます。二人心を協はせて朝夕のお経を怠らず、留守をたのみます」(同)

と、みずからの腹がまえを披瀝し、家族が勤行を怠ることのないよう気遣っている。牧口会長は、東京拘置所に移ってから腹を痛めていたことが、数葉のハガキなどでうかがえる。

意気軒高たるも牧口会長は七十二歳、秋深まるにつれ独居房での冷えが身にこたえたものと思われる。

だが牧口会長にとっては、読書が少々、身体の不調を補って余りあるだけの喜びであったようだ。十月二十三日に出された自宅宛の封緘ハガキに、「警視庁と異つて、三畳一人のアパート住居で、本が読めるから、楽であり、何の不足はない」(同)と書いている。

さらには、「独房で、思索が出来て、却つてよい。朝夕の勤経(ママ)、外に特別の祈願をまじめに怠らない」(同)と、信心根本に過ごす近況を綴っている。牧口会長の信仰に対する情熱は、法難の只中にあって、ますます盛んに燃えさかった。

みずからの難は、日蓮大聖人に比べれば比較にならない軽微なことであり、かならず変毒為薬するとの確信はゆるぎないものがあった。

「お互いに信仰が第一です。災難と云ふても、大聖人様の九牛の一毛です、とあきらめて益々信仰を強める事です。広大無辺の大利益に暮らす吾々に、斯くの如き事は決してうらめません。経文や御書にある通り、必ず『毒変じて薬となる』ことは今までの経験からも後で解ります」(同)

牧口会長は東京拘置所の独居房での生活を、仏道修行として真摯に送っていた。

日蓮大聖人曰く。

「一切の人はにくまばにくめ、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・乃至梵王・帝釈・日月等にだにも・ふびんと・をもはれまいらせなば・なにかくるしかるべき、法華経にだにも・ほめられたてまつりなば・なにか・くるしかるべき」(四条金吾殿女房御返事)

【通解】一切の人に憎まれても、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏や梵天・帝釈・日天・月天等に可愛いと思われるならば、何の不足があろうか。ましてや法華経(御本尊)にほめられるならば、何の不足もあるわけがない。

それでは、取り調べはどのように進んでいたのだろうか。東京拘置所に移ってからは、山口弘三検事が取り調べを担当していた。山口検事は取り調べの結果、同年十一月二十日、牧口会長を東京刑事地方裁判所に起訴し、予審を請求する。

以下、山口検事の書いた起訴状全文を紹介する。この起訴状は『特高月報』(昭和十八年十二月分)に掲載されたものである。

「創價教育學會々長牧口常三郎に對する起訴状

被告人 東京都神田區錦町一ノ九
牧口常三郎 當七十三年

被疑者は明治二十六年北海道師範學校を卒業し、爾來小學校訓導、師範學校教、文部屬、小學校長等を歴任し、昭和六年東京市立麻布新堀尋常小學校長を退職したるものなるところ、昭和四年頃従來教育學に慊らず、自己創案に係る生活の科學と稱する創價學説に基き、人類をして最大の幸福を得しむる爲の最良の方法を考究することこそ真の教育學なりと做して、創價教育學なる獨特の學説を提唱するに至り、更に其の頃日蓮宗の一派なる日蓮正宗の研究者三谷素啓より同宗に關する法話を聽くや、之を右創價教育學の學理に照合理解して痛く共鳴し、同宗の教理こそ末法時に於ける一切衆生の歸依すべき唯一無二の正法なるのみならず、創價教育學の極致なれば人間をして最大の幸福を得しむるには同宗に歸依せしむるの外なしと思惟し、昭和五年頃同宗の教理に特異なる解釈を施したる教説を宣布する爲、創價教育學會なるものを創設したるが右教説たるや、妙法蓮華經を以て佛法の根本宇宙の大法なりとして弘安二年日蓮圖顯に係る中央に法本たる南無妙法蓮華經及人本たる日蓮を顯し、其の四方に十界の諸衆及妙法の守護神を配したる人法一箇十界互具の曼荼羅を以て本とし、一切衆生は此の本を信仰禮拜し、同本の題目たる南無妙法蓮華經を口唱することに依りてのみ成佛を遂げ得べしと做す日蓮正宗本來の教理を創價教育學の見地より解釋したるものにして、日蓮正宗の法門こそ無上最大の善にして、該法門に歸依し其の信仰に精進するに於ては、最大の善因を施すことゝなり、因果の理に依り最大の善果を得、最も幸福なる生涯を送り得べく、爾餘の神佛を信仰禮拜するは該法門に對する冒涜にして、所謂謗法の罪を犯すことと爲り、法罰として大なる不幸を招くべしと説き右本以外の神佛に対する信仰禮拜を極度に排撃し、畏くも皇大神宮を信禮拜し奉ることも又謗法にして、不幸の因なれば信禮拜すべからずと做す神宮の嚴を冒涜するものなるに拘らず、實驗證明と稱し入信者が忽ち幸福を得たる反面謗法の罪を犯したる者が怖るべき不幸に陥りたる實例を擧げて該教説を證明する等の手段を用ひ、未信者を硬に説伏入信せしむる所謂折伏を行ひ、該教説の流布に努め來りたるものにして、昭和十五年十月に至り同會組織の整備を企圖し約二百名の信者を糾合して之を會員とし、綱領規約を決定し自ら會長に就任すると共に理事長以下各役員を任命し、本部を同市神田區綿町一丁目十九番地に設けて前記教説を流布することを目的とする結社創價教育學會の組織を遂げ、爾來同會擴大の爲活溌なる活動を續け、現在會員千數百名を擁するに至るのが其の間昭和十六年五月十五日改正治安維持法施行後も前記目的を有する同會の會長の地位に止まりたる上、同會の目的達成の爲

第一 昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年七月六日頃迄の間前記同會本部に於て同會の運営竝活動を統轄主宰したるが

 (一) 昭和十六年六月一日頃より昭和十八年七月一日頃迄の間、毎月約一囘前記同會本部等に於て幹部會を開催し、之を主宰して同會の運営竝活動に關する方針を決定し

 (二) 昭和十六年十一月二日頃より、昭和十八年五月二日頃迄の間四囘に亘り同市神田區一橋教育會館に於て總會を開催し、其の都度講演、實驗證明等の方法に依り參會者數百名に對し折伏又は信仰の化に努め

 (三) 昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年六月三十日頃迄の間、二百四十餘囘に亘り、同市中野區小瀧町十番地陣野忠夫方等に於て座談會を開催し、其の都度説話、實驗證明等の方法に依り參會者數名乃至數十名に對し折伏又は信仰の化に努め

 (四) 昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年六月三十日頃迄の間毎週一囘面會日を定め、其の都度同市豐島區目白町二丁目千六百六十六番地自宅に於て、説話、實驗證明等の方法に依り身上相談の爲の來訪者數名乃至數十名に對し折伏又は信仰の化に努め

 (五) 昭和十六年十一月五日頃より昭和十八年七月五日頃迄の間十囘に亘り地方支部又は地方に在住する信徒の招聘に應じ福岡縣其の他の地方に赴き、約十五囘に亘り福岡市二日市町武藏屋旅館其の他に於て座談會又は講演會を開催し、其の都度講演、説話、實驗證明等の方法に依り參會者數名乃至數十名に對し折伏又は信仰の化に努め

 (六) 昭和十七年九月前記同會本部に同會員三十數名を委員とする退轉防止委員會を設け、昭和十八年七月六日頃迄の間、全委員を七班に分ち、信仰を失ひ脱會せんとする同會々員の再折伏に努めしめ、且其の間六囘に亘り同本部に其の報告會を開催し、委員より再折伏の實際に關する報告を徴し、爾後の方策を考究指示する等同委員會の指導に任し

第二 昭和五年頃より昭和十八年七月六日頃迄の間、東京市内其の他に於て同市王子區神谷町三丁目千三百六十四番地岩本他見雄外約五百名を折伏入信せしむるに當り、其の都度謗法罪を免れんが爲には皇大神宮の大麻を始め家庭に奉祀する一切の神符を廢棄する要ある旨調指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を燒却するに至らしめ、以て神宮の嚴を冒涜し奉る所爲を爲したる等の諸般の活動を爲し、以て神宮の嚴を冒涜すべき事項を流布することを目的とする前記結社の指導者たる任務に從事したると共に、神宮に對し不敬の行爲を爲したるものなり

檢事 山口 弘三」

(『特高月報』昭和十八年十二月分より引用)

『特高月報』に起訴状全文が掲載されたことは、実に稀なことである。「予審訊問調書抜萃」の掲載と併せて考えると、創価教育学会の弾圧を特高がいかに重要視していたかを認識することができる。

牧口会長が起訴(十一月二十日)される少し前、十一月十一日に戸田会長が警視庁の留置場から東京拘置所に移監された。

検察としては、牧口会長の取り調べにメドが立ったので、創価教育学会ナンバー2の戸田会長を拘置所に移し、本格的な取り調べに入ったものと思われる。

戸田会長は、警視庁ではほかの被疑者たちといっしょに雑居房に留置されていたが、東京拘置所では牧口会長同様、独居房に入れられた。東京拘置所は、中央管理棟に連絡する廊下から櫛の歯状に六つの獄舎が配置されており、入口のある中央管理棟から見て右(東南)側から一舎~六舎と獄舎が並んでいた。そのうち二舎、四舎、六舎が独居房で、一舎、三舎、五舎が雑居房であった。

戸田会長は二舎の独居房に拘置されていた(筆者註 戦後、戸田会長みずから戦犯で東京拘置所に拘置されていた者に対し、「僕は二舎だったんだよ」と話された事実あり)。

なお、独居房のある獄舎は、いずれも三階建、各階とも左右に三十室ずつあり、一つの獄舎に百八十の独居房、拘置所全体では五百四十の独居房があった。各独居房とも房には数字がふられていたが、四房、九房の呼称は省かれていたようである。

戸田会長は、はじめの十日間は北向きの陽当たりの悪い房に入れられた。これは二階のとっかかりの独居房ということだから、二舎の二階六十二房に入れられたと思われる。その後、出獄までは二階東南向きの三十二房に移され拘置された。これは中央棟と連絡する廊下から見て、右側の一番奥の房である。戸田会長は出獄までの二年弱、そこで暮らすこととなる。

戸田会長が陽当たりのいい部屋に移されたのは、北海道・厚田村の同郷の士である、文豪・子母沢寛氏が東京拘置所の看守長を知っていて、口をきいてくれたことによる。

この頃、戸田会長は子母沢氏に手紙を書いているが、その手紙には、

「煩悩も真如の月も宿らせて

   独房のふーど夢の円らか」(『若き日の手記・獄中記』より一部抜粋)

という歌が添えられている。

昭和十八年十二月、戸田会長は経営していた出版社・日本正学館の幹部に手紙を書いている。その中に戸田会長は、

「静けさに生命みつめてくらしけり

    独房住まいの朝な夕なは」(同)

と近況を歌っている。

戸田会長は、大晦日の十二月三十一日に東京刑事地方裁判所に起訴された。これによって、戸田会長も牧口会長に続き、予審判事の取り調べを受けることとなる。

当時の公判に至るまでのシステムは、まず警察での取り調べがあり、つぎに送検されて検事の取り調べがあり、その結果、起訴(予審請求)されると刑事地方裁判所で予審判事による再度の取り調べがおこなわれ、予審判決の判断により被告として公判に送られるのである。

昭和十八年七月に始まった警察・検察による創価教育学会首脳に対する捜査は、半年経たその年の暮れにほぼ終わり、昭和十九年からは予審判事による取り調べが始まる。

日蓮大聖人曰く。

「経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし」(開目抄)

【通解】経文に予言されたことと、自身の行動とがぴったりと一致している。幕府の迫害を受ければ、いよいよ悦びを増すのである。

牧口・戸田会長が拘置された東京拘置所(正面側から写したもの)

牧口・戸田会長が拘置された東京拘置所(正面側から写したもの)

東京拘置所の独居房の扉(『巣鴨プリズン記念写真』より)

東京拘置所の独居房の扉(『巣鴨プリズン記念写真』より)

東京拘置所の階段の窓(『巣鴨プリズン記念写真』より)

東京拘置所の階段の窓(『巣鴨プリズン記念写真』より)

東京拘置所の共同風呂(『巣鴨プリズン記念写真』より)

東京拘置所の共同風呂(『巣鴨プリズン記念写真』より)

東京拘置所(裏側から写したもの)右より六舎、五舎・・・と続く戸田会長は二舎、牧口会長は四舎に拘置された

東京拘置所(裏側から写したもの)右より六舎、五舎・・・と続く戸田会長は二舎、牧口会長は四舎に拘置された

東京拘置所の見取図。牧口会長は昭和20年11月17日、四舎の独居房より自力で病監まで歩き、翌朝亡くなられた

東京拘置所の見取図。牧口会長は昭和20年11月17日、四舎の独居房より自力で病監まで歩き、翌朝、亡くなられた

東京拘置所の病監中央廊下

東京拘置所の病監中央廊下

東京拘置所の二階大廊下

東京拘置所の二階大廊下

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