報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十六章 宝珠ほうじゅ亡失ぼうしつ

地涌オリジナル風ロゴ

第543号

発行日:1992年11月7日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

江戸時代の常泉寺は幕府の庇護で栄耀栄華を極めていた
本寺が本寺なら末寺も末寺、本末ともに謗施で潤ったのだ

東京向島の常泉寺は現在、総監の藤本日潤が住職をしている寺である。

この常泉寺は、これまでに幾度となく恥辱にまみれた日蓮正宗の歴史に登場してきた。歴史に秘められた真実が露見した現在では、この寺の名前を聞いてよいイメージを抱く者は少ない。

大正時代から昭和の初めにかけて常泉寺の住職をしたのは、阿部法運(のちの第六十世日開)である。阿部法運は、猊座に登りたいがために権謀術数の限りを尽くした。

よく知られているところでは、第五十八世日柱上人に対しクーデターを起こし、同上人を猊座から引きずり降ろした。後に登座した第五十九世日亨上人に対しても、法運は陰に陽に画策し、日亨上人がおこなう宗政を妨害し退座を余儀なくした。

また法運は、自身の淫欲を満たすため女犯し、当時、常泉寺に下働きに来ていた二十三歳も年下の彦坂スマに子供を産ませた。しかも、法運はその子が五歳になるまで認知しなかった。この子供が後の日顕である。

法運は、こうした悪行だけでなく、謗法の限りを尽くした男でもある。

みずから発行人となって発行した宗門の機関誌『白蓮華』に、「達磨」「祈禱呪術本」「織物御本尊」などの謗法広告を掲載したり、稚拙な論文を『大日蓮』に書いて日蓮宗身延派の学者を批判したのはいいが、相手に反撃された挙げ句、反論に窮して世の笑い者になったりもした。法運は登座後、日開を名乗ったが、日開は「漫然と」御本尊を誤写するなど、まさに“法滅の妖怪”そのままに振る舞った。

また、日開は文部省提出の公式文書で、身延に日蓮大聖人の墓があることを認めた。日開は猊座にありながら、身延離山をもって日蓮大聖人の正義を護り抜かれた日興上人に唾する行為をしたのである。

現在の常泉寺をみても、すでに本紙『地涌』が報じたとおり、住職の藤本は昭和五十八年の税務調査に際し、五千万円超の脱税をし、その金を着服横領していた。執事の原道準は、大願寺の執事の能勢壽生などと頻繁に賭け麻雀に興じ、また常泉寺から目と鼻の先にある吉原のソープランド「重役室」に足繁く通っていた。

常泉寺に巣くうものは、いずれも僧侶の行躰とはかけ離れた所業をなしているのだ。近代において、まぎれもなく常泉寺は“法滅の妖怪”たちの巣窟だったのだ。

それでは、江戸時代の常泉寺はどうだったのだろうか。『日蓮正宗富士年表』によると、常泉寺の開創は、「一五九六(慶長元)年二月七日、天台僧仙樹院日是 江戸本庄牛島に常泉寺を創す」とある。

常泉寺は当初、大石寺の末寺ではなかったのである。これを富士門流に改宗させたのは第十七世日精上人で、「一六三八(寛永十五)年十二月 日精 本行院日優を化し、江戸常泉寺・同塔中真光坊大石寺末となる」と『富士年表』に記されている。

江戸時代の「新編武蔵風土記稿」(『本所区史』=編集兼発行者・東京市本所区 昭和六年六月二十五日発行=に収録)という書物に「常泉寺」についての記述がある。

「常泉寺法華宗駿河国富士郡上篠村大石寺末久遠山と号す。本尊は本山二十五世日宥の筆せし三宝の板本尊を安ず。開山は六老僧日興上人にて、開基は仙樹院日是と称す」(「新編武蔵風土記稿」より引用)

この記述は、おもに江戸中期の常泉寺七代住職大信阿闍梨“日顕”(西暦一七〇三年没)に関わるものと、当時の常泉寺の宝物についてである。もちろん、当時の常泉寺は邪宗から改宗した後で富士大石寺の末寺だった。

「新編武蔵風土記稿」には、次のようなことが書かれている。常泉寺七代住職の“日顕”という僧が京都にいたころ、御水尾院第一の皇女・無品内親王の贔屓になり、祈禱などをおこなった。

延宝七(一六七九)年、内親王の息女・天英院が六代将軍徳川家宣へ輿入れしたときに、“日顕”もいっしょに関東に下り、常泉寺に入った。

その縁故で、朝廷にも徳川家にも重んじられ、宝永七(一七一〇)年には幕府から三千四百坪の寺地を、あるいは「御仏供料」として三十石の「御朱印」をもらった、なお、この「御朱印」をもらうことには大変な意味がある。幕府から「御朱印」を下された寺院は、いってみれば幕府から本山並の寺格を認められたに等しいからだ。正徳元(一七一一)年六月には、城内本丸客殿を常泉寺の書院として賜りもした。同四(一七一四)年には、天英院から本堂造営費千五百両および仏具一切の寄進があった。

それらのことを、「新編武蔵風土記稿」は次のように綴っている。

「其後当寺第七世日顯は京都の産にて、後水尾院第一の皇女無品内親王の御取立にあづかり、屡御祈禱など命ぜられ、延宝七年内親王の御女天英院殿文昭院殿へ御入輿の時供奉して関東に下り、当寺に住しけるが御由緒をもて若君姫君及び御部屋齋宮御方等寺内に送葬し奉りしかば、宝永七年三千四百坪余の寺地を賜はり。同年西葛西領小谷野村にて本乗院殿御仏供料三十石の御朱印を附せらる。正徳元年六月御本丸御客御殿を賜て書院とし、同き四年天英院殿思召を以て本堂御造営及び客殿経仏具等一色寄付したまひ、同年又本堂建立のためとして金千五百両を下し賜はり」

この文からうかがえることは、常泉寺が天英院の帰依を背景に、徳川幕府から並々ならぬ庇護を受けていたということである。下賜された「寺地」「御仏供料」「御本丸御客御殿」は幕府からの謗施である。

なお、ここで天英院からの供養も問題にしておきたい。なぜなら、詳しくは次号で触れるが、天英院は観音、毘沙門、鬼子母神などにも信をとっていたようだからだ。したがって、天英院からの供養も謗施ではないかと、あえてここで問題を提起しておきたい。

読者の方々は、次号に綴る天英院の信心の実態を見て、天英院からの供養が謗施であるかどうかを判断していただきたい。

ともかく、常泉寺が幕府から「寺地」「御仏供料」「御本丸御客御殿」などの下賜を受けたことが謗施であることに、誰も異論はないだろう。常泉寺は幕府から財を分かたれ、その威を借りて栄華を極めたのである。

江戸時代、常泉寺の本堂、客殿、書院の釘隠しや屋根瓦には、徳川家の紋所である葵の御紋が使われていた。教説を曲げず、民衆救済のために不惜身命の姿で鎌倉幕府を諫暁された御本仏日蓮大聖人──。その末流が、将軍家の紋所を建物の随所に飾り、権勢を欲しいままにする。これにすぎた腐敗はない。していることは、御本仏に対する違背である。

謗法の者からの供養を受けてはならないとの日蓮大聖人の教えに背き、常泉寺“日顕”は、権勢に媚び富貴になびいたのだった。

ここで想起されるのは、総本山大石寺の三門である。この三門が造営されたのは、正徳二(一七一二)年。幕府の権力におもねり、日蓮大聖人の国家諫暁の精神を忘失することにより造営された。

この三門の造営された時代と、常泉寺が謗施に潤った時代は同じである。本山も末寺も、ごく当たり前のように幕府権力から謗施を受けることで繁栄した。

名刹といわれてきた常泉寺の歴史は、日蓮正宗が幕府権力に癒着し、謗施を受け、繁栄してきたことを教えてくれる。これが、日蓮正宗の実態なのである。ということは、“富士の清流”などという言葉が、歴史的裏づけのない偽りの言葉だということでもある。

宗開両祖の教えに背いて邪宗化し、戒壇の大御本尊様を謗法の中に埋もれさせていた日蓮正宗を浄化したのは、創価学会である。創価学会は、内には日蓮正宗の浄化を進め、外には慈悲の大折伏をおこなってきた。

今回、期せずして起こった“日顕狂乱事件”は、日蓮正宗の法脈に忍び込んでいた邪義邪法が、池田大作名誉会長の妥協を許さぬ折伏精神に触れ、表に出てきたものであると解することができる。

七百年間の長きにわたり、溜まりに溜まってきた膿血が噴出したのだ。

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