第435号
発行日:1992年6月10日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
「御住職が御供養の金額を口にしたことがありますか」
この日顕宗の想定問答集の強弁を覆す事例は腐るほどある
先号につづき、日顕宗が寺族同心会(五月二十八日)において全国末寺に配った「法華講のみなさんへ」と題する文書の反批判をおこなう。この文書は、創価学会幹部の発言を勝手にデッチ上げたうえでの想定問答集である。
先号の想定問答に続いて、二番目には次のような想定問答が紹介されている。まず、創価学会員の想定発言。
「お寺はお金がかかる。この前も葬儀を頼んだら五十万円請求された」
これに対する直属信徒および法華講員の「模範」回答とされるもの。
「また、そういうウソを平気で言う。一体、何処の誰の話か住所と名前を言いなさい。『正宗の葬儀ほど安上がりは無い』と、かつて宣伝して回っていたのはアンタ達でしょう。御住職が、いままで一度でも御供養の金額を口にした事がありますか。学会の財務じゃあるまいし、何なら今からお寺に行って聞こうか」
ここまでの発言をしているのだ。「一度」でも事例があれば、この「模範」回答は破折されることになる。
平成元年6月二十六日、東京都町田市にある妙声寺住職の數井慈鑑は、同市の生活保護家庭の告別式開式直前、町田圏の細野了圏指導長(妙声寺檀家総代・報恩社相談役)、伊藤照子本部指導長、そして報恩社社員・時光浩二氏、以上三名を僧侶控室にあてた一室に呼びつけた。
「子供の使いじゃあるまいし、わざわざ呼び出して、こんな御供養じゃ、袈裟のクリーニング代にもならない。金がないなら俺をわざわざ呼ぶな」と、約三十分にわたりさんざん怒鳴りつけた。數井は、生活保護家庭の創価学会員が前夜の通夜の際に捧げた御供養の額が気にくわなかったのだ。數井は、前もって組織幹部と葬儀社から生活保護家庭の葬儀だという説明を受けていたのに、この暴言である。この開式前の「説教」のため葬儀は三十分遅れで始まり、式は方便品、自我偈、唱題を五分程度で終えた。御喪家の方々は、この數井の暴言と仕打ちに泣いていた。
ちなみに、通夜と葬儀は町田市福祉事務所の支給した葬祭扶助費十二万七千四百円(当時)で、葬儀社の報恩社(本社・板橋区)が祭壇を設け、おこなった。葬祭扶助費は、柩代、寝台車代、火葬料などの荼毘に付すための実費のみが支給される。
報恩社は、生活保護家庭において希望があれば、いつも採算を度外視して葬祭扶助費内で葬儀をおこなっている。通夜、葬儀をおこなうための祭壇の設営を含め、必要な手配をおこなってくれるのだ。數井は、この葬儀社ほどの慈悲もない坊主なのだ。
數井は、この日顕狂乱事件の起きる前までは、葬儀に毎回といっていいほど遅刻した。開式予定時刻より十分も二十分も遅刻するのだ。それでいて非礼を詫びるでもなく横柄な態度に終始した。
それだけではない、數井は毎回(これは例外なく)読経、唱題の途中で居眠りをした。數井の遅刻、居眠りのため出棺は予定時刻より、いつも十分から三十分遅れた。葬儀社の社員や霊柩車の運転手は、數井の常識外の行動にいつも泣かされた。
地元の葬儀業社のあいだでは、數井のことを「ブッチャー」と蔑んで呼ぶことを常としていた。業界では、「ブッチャーほど酷い坊主は、どこの寺にもいない」と、もっぱらの評判である。また、數井の言動は邪宗の坊主以下だという声もあった。
この「ブッチャー」、常日頃、創価学会幹部に対して、口癖のように、葬儀の御供養が少ないこと、お講の参加者の御供養が少ないことを問題にした。東京都町田市の創価学会幹部は、數井の欲深さと傲慢な態度に長年、泣かされてきた。この數井が、いまも日蓮正宗東京第二布教区の副宗務支院長の要職にあるのだ。
この數井、私生活においては贅沢の限りを尽くしていた。創価学会婦人部証言集 『婦人ルネサンス』(第三文明社刊)は、數井の贅沢ぶりを次のように伝えている。
「その一方で自分たちのためには豪勢なお金の使い方をしていました。車を買い替えるのでテーブルの上に四百万の札束を積んでいるのを見たことがあります。また、白いゴリラのぬいぐるみがあったのですが、これはフランスで二つだけ作られ、その一つを日本の有名デパートが買い、それを娘のために買ったというのです。一つ六十万円だ、と夫人が自慢していました。
娘はまた、住職と夫人が帽子の形や木の切り株の形をしたケーキを買ってきて、『めったに食べられるしろものじゃないから、みんなで一口ずつ食べな』と言われて食べたことがあるそうです。住職が言うには、有名政治家が買いに行くので有名な赤坂のケーキ屋さんのものだそうで、一つ何万円もするそうです。そのケーキも全部は食べきれず、翌朝、捨ててしまったのです」(婦人部証言集 『婦人ルネサンス』東京 妙声寺についての証言者=町田市・関根登美子さん)
日顕宗坊主の金に対する執着ぶりは異常なものがある。想定問答集の「御住職が、いままで一度でも御供養の金額を口にした事がありますか」との開き直りに反論するために、全国各地の婦人部証言集に収録された、その他の証言の一部を拾い上げて紹介する。
「寺での葬儀の御供養についてこんなことがありました。今から八年前、当時、男子部員だったYさんのお父さんが亡くなって、住職に相談に行った折、『御供養は?』と尋ねると、『最低五十万円です』と言われたのです。Yさんはあまりの高い金額に驚き、たいへんに困りましたが、親孝行と思い、言われた通り御供養したのです」(婦人部証言集 『虹の世紀へ』中部 妙道寺についての証言者=愛知県・二村すみ江さん)
「菊池節子さんは、平成二年三月、お母さんの葬儀の御供養のことで、ご主人がお寺に行って相談したところ、『最低七万円から十万円を。僧侶も霞を食って生きてるわけではないから……』とはっきり言われ、御供養を高額でと要求されたそうです。
小池よね子さんは、同志の告別式を終え、住職を送る車中で、御供養が三万円だったことについて、『みっともなくて、経理士にも見せられない』『正宗だから安いと、だれが決めた。世間の相場を勉強してみろ』と言われ、怒りと同時に開いた口がふさがらなかったそうです。
また、住職から『葬式の際の御供養は祭壇の一割が常識だ』と言われたとか。夫人から『初七日、四十九日法要(の御供養)は告別式の時と同額』と言われたとか、枚挙にいとまがありません」(婦人部証言集 『婦人ルネサンス』関東 正興寺についての証言者=埼玉県・竹入伊登子さん)
「応対に出た受付の女性は『福祉の葬儀は、通夜、告別式とも、御供養を包むことができないし、包んでも少額でしょう。身寄りのない葬儀なら、お骨にしてお寺へ持参したらいかがですか。その時にお経をあげてさしあげます』と言うのです。
はじめて聞く内容にびっくりし、また信じられない思いで、喪主は葬儀責任者の支部指導長がつとめてくれること、地域の人たちの御香典を供養する旨話しましたが、やはり『お骨にして持って来なさい』と言われたのです」(婦人部証言集 『婦人ルネサンス』神奈川 正継寺についての証言集=神奈川県・小林由紀子さん)
「翌日、息子さんと一緒に本立寺に御供養を持参しました。住職から『葬式の御供養が最低十万』と言われていましたので、腹はたっておりましたが、御供養に添えて菓子折りもつけました。住職はこちらがていねいに挨拶しているのに、突っ立ったまま菓子折りを受けとり、その上にのっていた御供養をワシづかみにして受けとりました」(婦人部証言集 『希望の山河』信越 本立寺についての証言者=長野県・石田千代子さん)
「すると石井住職は『それは間違いだよ。お葬式が安くできるということは謗法だよ。今時、一万や二万の御供養は受け取らないよ。正宗のお葬式がみじめだったら、創価学会が笑われるでしょう。そうすることによって、法を下げることになるんだよ。今、赤ちゃんが生まれるとどのくらいお金がかかるの?』と聞きますので、『だいたい三十万円前後です』と答えますと、『そうでしょう。生まれる時も死ぬ時も、その人にとって同じであります。大事な葬式であります。だから正宗の葬式が安くできてよかったなどと、会員の皆さんには言わないでください』というのです」(婦人部証言集 『婦人ルネサンス』神奈川 法照寺についての証言者=神奈川県・大久保千恵さん)
「また松井住職は、気分にムラの多い人で、特に葬式の時には気をつかいました。わたしは住職から御供養について『常識的に言って十万円ぐらいはつつんでもらいたい』と言われ、その後、葬式のたびに遺族の方にその旨を伝え、その通りにしてきました」(婦人部証言集 『婦人ルネサンス』関東 本証寺についての証言者=茨城県・堤みね子さん)
「ところが、斎場から帰ってきたKさんのお宅に電話が入りました。電話の声は住職夫人でした。『(寺の)借り料を払っていただくことをご存知ですか? 三十万円支払っていただきます』というものだったそうです。葬儀の時に、すでに御供養も出していたので、もうこれですべて終わったと思っていたKさんはびっくり仰天、わが家に相談に来ました。
そんな話は事前に何も聞いておりませんし、三十万とはあまりにひどすぎます。すぐに、寺へ電話を入れました。すると夫人は『だいたい、一晩お寺に預けて三十万は当たり前よ』というのです」(婦人部証言集 『平和の讃歌』中国 本浄寺についての証言者=広島県・吉岡少子さん)
このほかにも、「御供養が少ない」と口に出してきた悪侶はいくらでもいる。創価学会員は、日顕宗の坊主の欲深さ、傲慢さに泣かされてきた。それだけに、組織幹部に怨嫉をしている者、宗教を葬式仏教の枠内でしか考えることができない者ぐらいしか、脱会して日顕宗にいかないのだ。
それを創価学会員は創価学会幹部に“洗脳”されていると言い、みずからを正当化しようとする日顕宗の悪侶は、哀れで愚かですらある。言っていることは、乞食坊主の負け惜しみに過ぎない。
想定問答は、「正宗の葬式ほど安上がりは無い」と創価学会員がかつて話していたとしている。たしかに「戒名料」などもなく、数年前までの日蓮正宗の葬儀は割安の感はあった。
だが、日顕ら宗門高僧の堕落につれて、末寺住職も贅に慣れ奢侈に流されてきた。そのため、近年では御供養を法外に要求したり、塔婆供養を強要する住職が多くなった。
折伏のために「正宗の葬式ほど安上がりは無い」と話してきた創価学会員を、大いに裏切ったのが日顕宗の欲深い悪侶らである。「一体、何処の誰の話か住所と名前を言いなさい」と「模範」回答にあるが、意地になって事例の場所、日時などを追及する戦法をとる法華講幹部がいる。
あるいはやたらと「証拠」を要求する者もいる。具体的な場所、日時を即答できない場合、あるいは「証拠」を即時に提示できない場合、それを“ウソだ”と決めつけ逃げる手口もある。
この場合、具体例や証拠を示したら脱講するのかどうか、よくよく念押しして、具体例や証拠などを示したほうがよい。だが、仮にそれらを示しても、本来“逃げ口上”なのだから、またしても詭弁を弄して逃げるだけのことである。
大石寺理境坊(住職・小川只道)に所属する妙観講の第五支部支部長の佐々木、五十一支区支区部長の東川、同支区幹事の佐藤らも、同様な逃げの手口を使う。
平成四年四月二十七日、上記の者らと野村創価班書記長、佐藤杉並区男子部長および綾瀬区の男子部幹部らが、個人会館の佐藤会館において法論をおこなった。法論は四時間に及び、同日夜九時から翌日の午前一時までつづけられた。
このときの佐々木ら妙観講幹部たちの対応が、「証拠を出せ」の一点ばりで、証拠を出すと逃げの一手であった。その典型が、総本山第五十七世日正上人が天皇よりの“立正大師”号宣下にあたり、日正上人が日蓮宗身延派の管長の導師で勤行をしたという歴史的事実への対応であった。
日正上人は日蓮宗身延派管長・磯野日筵、本門法華宗管長の尾崎日暲、顕本法華宗管長の本多日生らと、大正十一年十月十三日に宮内省において宣下書をもらい受け、同日東京・築地水交社において日蓮宗身延派管長・磯野日筵の導師で勤行をした。このことについては、当時刊行された本や新聞にはっきりと記録されている(『田中智学自伝第八巻』師子王文庫刊、『本多日生上人』統一発刊所刊、『立正大師諡號奉戴記事』日蓮聖人大師號追賜奉祝事務所刊など)。
だが妙観講幹部は、本紙『地涌』(第386号)などが、日正上人、磯野日筵、本多日生などが並んで立っての記念撮影の写真しか公表していなかったことをよいことに、一緒に勤行をしたという証拠写真を出せと執拗に述べた。
佐々木ら妙観講幹部は、「ただ一緒に写真に写っているだけでは謗法ではない。邪宗の僧の導師で一緒に読経・唱題して、はじめて同座だ」と主張したのだ。
御本仏・日蓮大聖人に天皇から下された“立正大師”という号の宣下書を邪宗の坊主とともに、宮内省まで一緒にもらいに行き、ともどもに記念写真に納まる。これは立派な謗法であり、「同座」よりも罪は深い。しかも、史実によれば、邪宗の管長の導師で勤行までおこなっているのだ。
ところが、妙観講幹部は史実に眼をつむり、「証拠」を求めた。そこで創価学会青年部幹部らは、水交社内で勤行をしている写真を示した。妙観講幹部は、「この写真ではよくわからない」と言い逃れに終始。
よほど反論に窮したのか、後日、法論の際に撮影していたビデオをもとに写真をおこし、わざわざ人物にフチ取りを入れ、「日正上人は、合掌・礼拝していなかった、従って謗法同座ではない」と愚にもつかない反論を機関紙『妙観』(平成四年五月十五日付)に掲載している。
総本山第十七世日精上人の造仏・一部読誦についても(本紙『地涌』第126号、第127号参照)、妙観講側は登座されてからはそのようなことはなかったとして、猊座にある者は特別の「血脈」があるのだから間違いを犯さないとの姿勢をとり続けた。
創価学会青年部幹部は、日精上人の造仏と法華経一部読誦が、日精上人登座後の七十一歳までつづいていたことを文献的に立証。妙観講・佐々木は、「初めて聞いたことなので、何とも言いようがない」と逃げた。
この法論において、それまで創価学会側が、「法主」(貫首)であっても過ちは犯すという主張に基づき、その事例として日精上人を挙げていることに対し、妙観講側は「証拠を早く出せ」と迫っていた。
ところが、文献を示されると立ち往生し、創価学会青年部幹部に、非を認めないまでも、「知りませんでした。勉強不足でした」と書くように詰められると、「ビデオに撮っているのだから、それでいいだろう。書く意味はない」と、度重なる逃げ口上。
このように法華講幹部の「具体例を示せ。証拠を出せ」等のセリフは、逃げ口上の一つであると理解し、もし具体例を示し証拠を出した場合はどうするのかということについて、しっかり言質をとっておく必要がある。
日蓮大聖人御在世当時は、法論に負けた者は勝った者に帰伏することを常とした。それは無上道を求める仏法者として、至極当然の行為であった。
しかし、いまの日顕なる僣聖増上慢率いる日顕宗の法華講幹部は、法論に負けてまず恥をかき、拙論に固執し、性根の卑しさ、我慢偏執の強さをさらけ出して、さらに重ねて恥をかくのである。
なかには、論理を理解する能力もなく、法論の負けを負けと理解できない、無知蒙昧を一枚看板とする法華講幹部もいる。
十三章 法主女犯 終