第434号
発行日:1992年6月9日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
日顕宗が脱講運動に狼狽して想定問答集を全国に配布した
支離滅裂の捨てゼリフで逃げることだけを指示している
「法華講のみなさんへ」と題する文書を、全国の日顕宗末寺で法華講員に配っている。この文書、去る五月二十八日に大石寺でおこなわれた寺族同心会で配られたものである。
日顕宗側のこの文書配布の目的は、創価学会員による脱講活動を阻止することにある。それだけ脱講者が多くて困っているのだ。だが、この文書は杜撰な内容のため、しっかり破折すれば逆に脱講の呼び水になる。したがって、ここでは面倒をいとわず紹介する。同文書の前文には、次のように書いてある。
「参議院選挙も近くなり、茲に来て創価学会による(例の不穏な動き)が目立って参りました。此の件について講員の皆さんに現況を御報告申し上げ、今後の対処の御参考にでもなればと一文を認めた次第です」
「参議院選挙も近くなり」は、まったくの「季語」で、文章の本旨とは関係がない。「茲に来て創価学会による(例の不穏な動き)が……」に、この文書の作成者の最大関心事が記されている。脱講運動の活発化をなによりも恐れているのだ。
それを率直に表現できない作者は、創価学会幹部の法華講員訪問について、次のような屈曲した表現を用いている。
「その目的は、今や全国的に押さえの利かなくなった脱会者の激増予防と選挙対策にあり、彼等の感情ムキダシの異常な姿に、今や自滅にもがく学会のタダならぬ狼狽の度合を伺う事ができます」
脱講運動の目的を「脱会者の激増予防と選挙対策」にあるとすることは、その目的意識を歪曲していることになるのではあるまいか。
脱講運動は、日顕宗の謗法を呵責する戦いであり、これは大法弘通、衆生済度を目的としたもので、御本仏・日蓮大聖人の意に適ったものである。破邪の戦いは、日蓮大聖人の弟子として当然おこなうべきことである。
さて、「法華講のみなさんへ」は、創価学会幹部の発言を勝手に作り、それに基づいて想定問答をしている。この想定問答に、現在、法華講の置かれている苦衷がよく表現されている。以下に「例えば」として記述された想定問答を紹介する。
まず、最初に記述されている創価学会幹部の発言は、
「今なら、まだ間に合う。これから私達と一緒に楽しく信心して行きましょう」
となっている。
これなど別に気にするようなことでもないのに、この言葉に対しても感情的な応答を指示している。日顕宗では、次のように答えるのが、「正しい信心」の在り方とされている。
「今頃、何をいうか。御本尊も御授戒も教義もない邪教・池田学会に戻るほど馬鹿じゃない。私達が脱会するとき、なんて言いました。裏切り者、地獄に堕ちるぞ、恩知らず、二度と学会には戻れんぞ、気が狂った……散々罵っておき挨拶もせず、今頃白々しく近寄って来るような事は、人間のする事ではない。畜生にも劣る、そんな者に話す言葉は無い。お帰り下さい」
一挙に、ここまで信徒に言わせようとしているのが、いまの日顕宗である。それこそ、この文書作成者の表現を借りれば、
「彼等の感情ムキダシの異常な姿に、今や自滅にもがく日顕宗のタダならぬ狼狽の度合いを伺う事ができます」
ということになる。
では、この日顕宗の想定問答にある「模範」回答は、どのような矛盾を孕んでいるだろうか。この文書の「模範」回答に共通することだが、まず基本的に対話を成立させないことを目的としている。ということはすなわち、日顕宗の恐れていることは、創価学会幹部と直属信徒や法華講員との対話がなされることである。仏法者を自称しながら、人間的な対話すら拒否する日顕宗側の姿勢こそ問題にすべきである。
ましてや対話の拒否を、「法華講のみなさんへ」などという文書で、全国的に周知徹底している日顕宗は、主張すべき正義がないのだ。この点を、しっかり留意しておく必要がある。
「模範」回答の内容も、お粗末である。なかでも問題にされるべきは、「御本尊も御授戒も教義もない邪教・池田学会」という記述である。創価学会には御本尊はないのか。
日蓮大聖人曰く。
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(日女御前御返事)
「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」(観心本尊抄)
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るを当体蓮華の仏と云うなり」(御義口伝)
「御本尊」は、正しき信仰心をもって南無妙法蓮華経と唱える者の胸中にあるのだ。日顕宗流の言い方であれば、御本尊を下附されず内得信仰をする者をも否定することになる。
まして夥しい海外信徒には、これまで国情等により御本尊は下附されなかった。これら純真な海外信徒の信仰は空しかったというのだろうか。決してそうではない。
御本仏・日蓮大聖人の教法を信じ、南無妙法蓮華経と唱える人々を、御本仏の慈悲は温かく包んできた。御本尊を有しない海外信徒の功徳に満ちた体験は、数限りなくある。
想定問答に記された「御本尊」とは、日顕が書写して下附する「御本尊」を言うのだろうが、それを所持するかしないかということは、功徳の有無に直接、影響しない。「御本尊」は、神札のような魔除けの札ではない。御本仏・日蓮大聖人の教えに随い、純真なる信心を貫くことが、なによりも肝要である。信心がなくて「御本尊」のみあっても功徳はない。日蓮大聖人の御真筆の御本尊が日蓮宗の他派にあっても、功徳がないのと同じだ。もちろん、信心なくして成仏はおぼつかない。
御本仏・日蓮大聖人は御本尊について、
「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(経王殿御返事)
と認められている。この御本仏の民衆救済の心を殺し、御本尊を道具に仏子の集まりである創価学会を破壊しようとし(「破門」による御本尊下附の停止、添書登山の一方的実施など)、創価学会員を苦しめる日顕こそ、御本仏・日蓮大聖人の心を殺す魔にほかならない。
日興上人が余命いくばくもないときまで、御本尊書写、下附を続けられたことは、お筆止め御本尊の書写の事実をもっても判明する(本紙『地涌』第339号詳述)。御本尊下附をしない日顕や日顕宗の者たちは、開祖日興上人にも背いているのである。
その日顕宗の罪悪を、仏法破壊の大罪と認識せず、創価学会には御本尊がないと謗ることは、それ自体、日顕宗が狂っている証左である。
この文書は、創価学会には御授戒もないとも謗っている。これこそ、御授戒の由来も歴史も知らぬ者の言うことである。
南無妙法蓮華経を信じ奉り、日々精進することが肝要である。南無妙法蓮華経を持ち奉ることは、あらゆる「戒」を持つのと同じ功徳があり、受持することこそが成仏の根源である。
「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(教行証御書)
【通解】この法華経の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字としたものであるから、この五字の内にどうして万戒の功徳を納めていないことがあろうか。この万行万善の妙戒は、一度持てば後に行者が破ろうとしても破ることができないのである。これを金剛宝器戒と言うがよい。三世の諸仏は、この妙戒を持って法身・報身・応身ともに無始無終の仏になられたのである。
本来、日蓮大聖人の仏法に特別な戒などない。受持即観心なのだ。したがって、御授戒という儀式もなかった。
日亨上人は末法の本門戒について、
「あるいは、日什の古記に関係のなき広き富士でも、受戒の定規はなかったろうと思う。それが、近古に至って、にわかにその式が新設せられたのではなかろうか」(『富士日興上人詳伝』創価学会発行)
と述べられている。
御授戒は、大法弘通の時を感じた牧口常三郎創価学会初代会長が、昭和十二年頃、入信の儀式として宗門側に提案し、おこなわれ始めたものである。
このとき、宗門の大勢は御授戒に反対であった。牧口会長の発案を諒とされ、用いられたのは、当初、歓喜寮(中野区)と砂町教会(江東区)に過ぎず、あとから常在寺(豊島区)が追っておこなった経過がある。
このことについて、和泉覚創価学会最高指導会議議長は、
「当時の新入信者は、いくつもの邪宗を遍歴したうえで入信するケースが多かったので、正しい信心への“けじめ”をつけさせ、信心のくさびを打って退転させないために、授戒の儀式をうけさせたのである」(『聖教新聞』平成三年十二月二十五日付より引用)
と懐古されている。
この御授戒発足の経過からいっても、御授戒の儀式の有無が成仏不成仏を左右するものではないことがわかるだろう。生涯を通じ南無妙法蓮華経を護持することが、なによりも大事なのである。
そのことは、『続 日蓮正宗の行事』(日蓮正宗宗務院発行)に、
「大聖人の下種仏法においては、釈尊の法華経の最も深い意義の上から、一心に妙法蓮華経の五字、すなわち三大秘法の御本尊を受持し、一生涯信仰を貫いて行くことが、一切の戒や道徳の根本であると教えています。ゆえにこれを受持即持戒というのです」
と記されていることからも明白である。ちなみに、現在のような御授戒文に統一されたのは、昭和四十一年二月九日付の「院達」によってである。制定の理由書には、
「授戒文に関する現状は、各寺約十指に余る夫々の様式により実施しており、その中には、二、三意義に於て、過不足と思われるものも認められる。従って宗門的見地より統一する必要があると思われる」
と記されている。このとき、現在の授戒文である、
「一、今身より仏身に至るまで、爾前迹門の邪法邪師の邪義を捨てて、法華本門の正法正師の正義を持ち奉るや否や(持ち奉るべし)
一、今身より仏身に至るまで、爾前迹門の謗法を捨てて、法華本門の本尊と戒壇と題目を持ち奉るや否や(持ち奉るべし)
一、今身より仏身に至るまで、爾前迹門の不妄語戒を捨てて、法華本門の不妄語戒を持ち奉るや否や(持ち奉るべし)」
が定められた。御授戒の歴史は意外にも浅いのだ。御授戒をしなければ「邪教」ということなら、昭和十二年より前の日蓮正宗は、「邪教」ということになる。
御授戒の本来の意義が、御本仏・日蓮大聖人の教法に殉じ生涯をまっとうしようとする人の発心を固め、その発心を称える場であるならば、現在、創価学会でおこなわれている入会式こそ、その意義に添うものである。
御授戒における日顕宗坊主の無慈悲な言動は、婦人部証言集『婦人ルネサンス』にいくつも紹介されている。これなどは、日顕宗の御授戒が本来の趣旨からはずれてしまっていることを示している。
この「法華講のみなさんへ」という文書は、創価学会に教義がないとも言っている。教義がないのは、日顕宗である。日顕宗では謗法厳戒という、宗開両祖の基本的な教えさえも忘れ去っている。
日顕が禅寺に先祖の墓を建立し(墓石には「為先祖代々菩提 建立之 日顯 花押」と刻まれている)、その墓に日顕の父・日開を追善回向して「志主 阿部日顕」「志主 大村寿顕」と書いた塔婆を建て、墓前で読経、唱題した。禅寺墓地で日蓮正宗のかつての「法主」の追善回向をすることが、「法主」を名乗る者の行為として実にふさわしくないことであることは、誰の眼にも明らかだ。
さらに日顕宗では、日顕が先祖の墓を建てた墓地を「共同墓地」であると言い繕っているが、墓地台帳にも、この墓地が禅寺である「白山寺」のものとして記載されており、現在の法務局にも、「宗教法人白山寺」所有の土地として登記されている。これだけの事実があるのに「共同墓地」と言い張れば、世間にその非常識を笑われることになろう。
日顕宗に教義があるとするならば、あるのは狂義である。
日顕を「現代における大聖人様」と宗門機関誌『大日蓮』(平成三年六月号)で呼ばせていることは、末法の御本仏・日蓮大聖人を冒涜するものである。
「法主」日顕にしても、御本仏・日蓮大聖人に相対すれば、言うまでもないが修行の身である。その基本すら忘れ、猊座に登れば特別の「血脈」が流れると主張し、信徒に盲従を強いることは、とても教義とは呼べず、正確には狂義ということになろう。
日顕宗の主張していることは、本来の日蓮大聖人の教えとは似ても似つかないものになっている。導師本尊は、その好例である。日顕宗では日蓮大聖人の御在世当時にはなかったニセ曼荼羅の導師本尊がなくては、信徒は成仏できないとまで言っている。
「そもそも本宗における葬儀とは、故人の臨終の一念を扶助し、臨終に正念を遂げた者も遂げられなかった者も、ことごとく、本有の寂光へと導き、本因妙の即身成仏の本懐を遂げしめる重要な儀式であります。すなわち、臨終の正念が各自の信心の厚薄によるのに対し、葬儀は、故人の即身成仏を願う遺族親族等の志によって執行され、下種三宝の当体たる御本尊の徳用によって、その願いが成就するのであります。
この葬儀の式は、他の一切の化儀と同様、正式にせよ略式にせよ、総本山の山法山規に準拠することが宗是ですから、必ず本宗伝統の化儀・化法に則って厳修されなければならないのであります。
葬儀において大切なことは、御本尊と引導師、及び戒名等であります。まず、申すまでもなく、葬儀における御本尊は、古来、御法主上人の特別な御指示による場合以外は、導師御本尊を奉掲するのであります」(日蓮正宗総監・藤本日潤名で創価学会秋谷栄之助会長に宛てた「通告文」より一部抜粋)
この導師本尊には「五道冥官」「閻魔法皇」が書き込まれている。この二つの名が導師本尊に書き込まれていることからみても、この導師本尊が日蓮大聖人の仏法とは異質な思想をもとにつくられたことは明白である。
すなわち、この導師本尊は室町時代ににわかに台頭した「十王信仰」「地獄信仰」を背景に作られたものである。導師本尊は、迷信の産物なのだ。
その導師本尊が迷信に基づくニセ曼荼羅であるとする本紙『地涌』の主張に、これまで日顕宗はまともな反論すらできないでいる。あるときは、導師本尊がなければ成仏できないと脅し、その後、導師本尊が迷信に基づくニセ曼荼羅であると指摘されると沈黙する。自らの本尊の由来についてさえ説明できなくて、これでも日顕宗に教義があると言えるのだろうか。
創価学会に代表される日蓮正宗の良識ある僧俗はこれまで日蓮正宗の化儀化法に随順してきたが、日顕の狂乱を機会に、「法主」がここまで狂う原因を追及し、法脈に潜む邪義を次々と発見した。
日顕宗の者たちが仏意仏勅の団体である創価学会に集う仏子を謗れば謗るほど、法脈に潜む邪義が、いよいよその姿を確かに現してくる。ということは、裏を返せば正しき日蓮大聖人の仏法が、浮き彫りになってくるということでもある。
「時の貫首」である日顕が狂乱したことは、日蓮大聖人の教法をよりいっそう純粋に現代に蘇らせるために、不可欠のことであったと思える。日顕の狂乱により「富士の清流」にまぎれこんだ邪法邪義が洗い出され、正法正義が定かに現れたのだ。邪法邪義に対する徹底した呵責があってこそ、末法万年に及ぶ令法久住も可能となる。
もし日顕の狂乱がなく、日顕宗悪侶の主張する信徒への差別意識を根幹にする邪法邪義を世界に弘めるようなことがあったならば、世界の教線は致命的打撃をこうむることとなったろう。世界広布のためには、今回の僣聖増上慢台頭の法難が、かならずやプラスとなる。
日顕のような僣聖増上慢が、広宣流布の戦いにおいて登場することは、日蓮大聖人の御書にも釈迦の法華経にも説かれている。
僣聖増上慢は一往は広宣流布に障りをなすものだが、より本源的には衆生済度、大法弘通、令法久住という、仏意に基づく広宣流布の戦いに不可欠なものであり、世界広宣流布達成の瑞相ともいえる。
「法華講のみなさんへ」という日顕宗の脱講防止文書の教えることは、徹底した対話が脱講運動の推進力になるということだ。それ故に、日顕宗は檀徒に創価学会員と対話されることをもっとも恐れているのだ。
対話以外にも『地涌』『婦人ルネサンス』『創価新報』などを法華講員にしっかりと読ませる必要がある。