報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

九章 破門はもん空言くうげん

地涌オリジナル風ロゴ

第318号

発行日:1991年11月14日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日亨上人は『富士宗学全集』などを編纂し宗学を公開された
この「聖業」は地涌の菩薩出現を前にしての必然であった
〈法難シリーズ・第35回〉

総本山第五十九世日亨上人は昭和二年十一月、退座の意思表明として「告白」と題する一文を宗内に発表された。その第三章には、「管長辞職の素因」が明らかにされている。

そのなかで日亨上人は、退座する「外的」原因として六つの事由を挙げられている。先号までに、そのうちの「一」~「四」を解説した。今号は「五」「六」に言及したい。

それでは、「外的」原因の「五」を読んでみたい。

「五、昨年の宗制改正案について、自ら七、八の新案を参考に提出せしも、起草委員又は宗務職員又は評議員等が、其中の重大案までも殆んど黙殺せるを強制し得ざりし平凡管長の悲哀、否時期到らずと淡薄に見切りを附けた事が、却って無責任なりし苦しみに自ら堪え得ぬ事」

日亨上人は「宗制改正」をめざされていた。宗門の刷新を希望してのことであろう。ところが、それに対する宗門の反応は実に冷たいものだった。

「起草委員」「宗務職員」「評議員」のことごとくが日亨上人の意向を聞かず、あろうことか「黙殺」したというのだからひどい話だ。

「宗制改正案」を宗会にかけて否決されたというのでなく、「起草委員」や「宗務職員」が日亨上人の職務上の指示を聞かなかったのだ。「信伏随従」どころか、サボタージュによる反抗である。

日亨上人の目指された「宗制改正」がどのような内容であったのか、現在では知る術もないが、日亨上人が考えられていた案は、おそらく清新すぎて、堕落した僧侶たちから敬遠されたのだろう。

「起草委員」「宗務職員」「評議員」などに職務上の指示を「黙殺」され、ボイコットされたのでは、退座したくなるのも無理はない。

だが、それでも日亨上人は、反抗した僧侶らを責めるよりは、それを実現する方向に押し切れなかったことを、「無責任」ではなかったかと自責されているのだ。

日亨上人は、退座の「外的」原因の「六」として、次のように記されている。

「六、就任已来財物を私有せずして職員に充分の腕を揮うべき便宜を与えておる、代替虫払会の収入等の大部分をも修繕工事費に使用して、収入に対して過々分の営繕を為しておる為に、職員にも過分の辛労かけておる計りでない。自分の懐中に残るべきものなきを顧みぬ苦行をしておるが、未だ法主も職員も大に務めたりと云う善声を聞かぬのみか、却て兎角の悪評ありと聞く。此の調子では差迫る御遠忌の報恩大事業などは出来る見込は立たぬ。此不徳無能の法主は一日も永く位すべからず、寧ろ辞職勧告状の来らぬを怪しむ位である」

日亨上人は宗務財政に口出しすることをせず、宗務職員に任せておられていたようだ。そして、総本山内の建築物の修理に相当なお金を費やされ、そのために職員に大変な苦労をかけたことを記されている。日亨上人御自身も、まったくお金のない様子だったようだ。

そこまで日亨上人や職員が一生懸命やっても、宗内では悪口しか言う者がいなかったと、日亨上人は嘆かれている。

昭和六年には宗祖の第六百五十遠忌が予定されていたが、自分が管長では「報恩大事業」などができないのではないか、これもまた日亨上人退座の原因となった。

当時、宗内を二分する勢力であった阿部法運派と有元廣賀派はともに、みずからの領袖を立てて、栄えある第六百五十遠忌をおこなおうと考えていたのである。

したがって、素直に日亨上人の指示を聞くはずがない。足を引っ張れるだけ引っ張って、早期の退座を画策したのである。そのため、日亨上人は孤立され、退座を余儀なくされたのだ。

そのうえ、日亨上人の身辺に不測の事態が起きたのである。おそばに仕える僧の中で精神に異常をきたした者が出たのだ。そのことについて、日亨上人は次のように記されている。

「一時外界の大悪邪曲軽薄の風波にもまれて遂に精神に破損を来たし信仰が高慢と正直が疑惑と小心が恐怖と変じて、毎日怒り泣き恐れ笑うて日を送る狂兒を近侍に出した、何と云ふ浅間しい罪業であろうか罪は狂兒にあり焉んぞ吾徳を傷けんやと済まして居れようか法主の慈愛の下には病者も狂者も休まるべきである又斯く信ぜられておる況んや拾数年扶養の兒が俄に此の体は只事ではない、予が宿業の然らしむる處として自ら鞭うっても致し方はあるまい正しく御本仏の御教示であると深く信じて、重役共に辞職の承認も経ぬ間に御大会が済むと直に密に方丈を引き払って雪山坊に籠りて罪の兒の快復を祈っておる今日の哀れな境界である、是では予が如き小心の者でなくとも厚顔無耻にあらざる限り平然として狂兒を擁して法主の高位に安ぜられようか此が正しく辞職の近因であって御本仏の懲誡であると謹慎しておる」(「告白」)

生真面目な日亨上人にしてみれば、「罪は狂兒にあり」といった我関せずとの姿勢は、とてもとれなかったのである。その狂兒を抱いて「雪山坊に籠りて罪の兒の快復を祈ってをる」ということになった。

日亨上人は「狂兒を擁して法主の高位に安ぜられようか」との結論に達したのであった。このことが日亨上人退座の近因となったのである。日亨上人は、宗内刷新に英断を振るえない自分の「優柔不断の態度は遂に仏天の激怒に触れしものか」と総括されている。

だがここで念を押しておくが、日亨上人が「外的」原因として六項目を挙げられていること、近侍に狂兒を出したことなどは、あくまで日亨上人退座の「助縁」にすぎない。

退座の「主因」は、あくまで「内的」なものにあった。どんなことがあっても、日亨上人は御書編纂、『富士宗学全集』発刊などの聖業を成し遂げられたかったのである。

重複するようだが、その点に触れられた日亨上人の記述を再び紹介する。

まず退座の原因について日亨上人は、「即ち此が素因となるものは内的方面が主因で外的境遇が助縁である事は申すまでもない」と明言され、その退座の「内的」な動機の結論として、「二三十年必死と念願せし編纂著作の聖業も泡沫と散り失する如何にも死んでも死にきれぬ残念さである、此が先大々主因である」と力説されている。

日亨上人は、自分の今生の使命は『富士宗学全集』の発行、御書編纂などの「聖業」にあると定められていたのだ。末世の悪比丘たちの葛藤に翻弄され、本来の願業を中途で終わらせることなどあってはならないという切実な思いから退座を決意されたのだった。

戸田城聖創価学会第二代会長は、昭和二十八年五月十七日におこなわれた第二回足立支部総会で、次のように講演されている。

「増上慢のように聞こえるかもしらんが、畑毛の猊下(堀日亨上人)は、私にこんなことを申された。『あなたが、四百年前に生まれてきていたら、日蓮正宗はこれほど滅びはしませんでしたろう』と。

このおことばに対して、私はお答え申しあげた。

『猊下が、いまお生まれになったから、私も、猊下に三十年おくれて生まれてまいりました』と。

事実、猊下は、学会の力をつけるために、もったいなくも、生まれてきておられるのである。猊下は、五十年かかって、日蓮大聖人様の仏法をまとめられ、猊下の頭にはすでに御書が一冊きちんとはいっている。それだからこそ、御書編纂に、身延でも三年前からかかっているというのに、われわれは一昨年九月に決心し、昨年四月にできた。しかも、りっぱなものができあがった。これは、猊下たったおひとりの力である。そして、いままでにない御書を編纂できた。これは、まったく猊下のおかげである。学会がこれほどに教学の力があるのは、猊下がいらっしゃればこそである。このように猊下は、学会出現のためにご出現になられたのである」(『戸田城聖全集』所収)

日亨上人の聖業あったればこそ、日蓮大聖人の仏法を多くの大衆が学び、今日の創価学会の発展がある。日亨上人が人生をかけて宗学を研究され、それを整理・発表して、広く大衆のために開かれなければ、今日のような金剛不壊の和合僧団を建設することは困難だったかもしれない。

日蓮大聖人の教法が、一部の祭祀特権階級(僧侶)の独占とされ、信徒は「知らしむべからず依らしむべし」との統治方針によって、長らく隷属を強いられていたことは容易に想像がつく。

日亨上人は、本来秘伝であるはずの「産湯相承書」「御本尊七箇相承」「本尊三度相伝」といった相承書の内容まで、『富士宗学全集』に掲載され公開された。

それは、法主の相承が神秘化され、相承を受ければなにやら特別な力がそなわり、宗内僧俗を従わせることができるとの宗内の風潮を破すためではなかっただろうか。

また、猊座に妄執をみせていた阿部法運などの浅ましい姿を、長年にわたり目の当たりにされて、将来、相承が曲げられずに伝えられるかどうか不安を覚えられていたのではないだろうか。

あるいは、さかのぼって血脈相承の内容を在家の者二名に聞かなければならなかった自身の恥辱を、のちのち猊座に登った者に味わわせたくなかったからだろうか。はたまた、相承の内容すら公開すべきときにきていると感得されたのだろうか。

いずれにせよ、日亨上人の「聖業」がなければ、今回の法難においても、法脈に忍び込んだ天魔らを仏子らが粉砕することは、非常に困難なことだったかもしれない。

『新編日蓮大聖人御書全集』『富士宗学全集』などがなければ、悪比丘らは、宝蔵などから自分たちに都合のいい文証を次々と切り文にして出してきて、仏子らをさんざんに脅していたことだろう。そうなると、仏子らは反論の依文にも困ったに違いない。

こう見てくると、日亨上人の「聖業」は、今回の法難で仏子らが凱歌をあげるために不可欠であったことを、改めて感じないわけにはいかない。

これで、日亨上人の「告白」をめぐっての記述を終了します。なお、〈法難シリーズ〉は、しばらくお休みさせていただきます。

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