第255号
発行日:1991年9月12日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
いかなる困難をも物ともせず大衆は落首を詠んで笑ってる
既に宗門も法主も人々の心の中で相対化されてしまった
関西のある創価学会組織で、「宗門百人一首」がつくられた。百首の歌に、民衆のたくましい営みを感じる。
日顕上人らのたくらんだ「C作戦」が、本紙などによって伝えられたときの驚きや混乱は、もはやない。今では民衆は、宗門や僧侶を相対化して見ている。堕落した僧らは、民衆の側より“破門”されてしまったのだ。
百首の歌のうち二十二首を紹介したい。なお一部を編集部で勝手ながら手直ししたことを、あらかじめお断りさせていただく。
まず、長年にわたり真心からの御供養を捧げたのに、それを裏切られたことを歌った二首。
恩知らず 欲得のみに 身を焦がし
蔵の財のみ 求める僧等
爪に灯を 灯して捧げし 財供養
さもしき僧の 遊興に消えん
いずれも、金銭的な供養にあざとい悪僧の姿を彷彿とさせる。これを読めば、宗門批判が創価学会首脳の煽動によっておこなわれているなどといった、いい加減な言い訳を宗門の側がするわけにはいかない。僧の側に大いに反省すべきことがあるのだ。
創価学会員をここまで失望させたのは、ほかならぬ日蓮正宗の僧自身である。とりわけ日顕上人の罪は重い。バカなことをしたものだ。いくらでも対応の選択肢はあったろうに。
みずからを顧みることなく、創価学会員に対しては口うるさく干渉するだけの僧侶の傲慢さを憤って。
おのれらは 遊びほうける 宗門が
第九を謗法 ちゃんちゃらおかし
日蓮正宗僧侶の、出家の目的を忘れた姿を客観的に捉えて歌う一首。
我が辞書に あるはずも無き 四文字は
広宣流布と 少欲知足
僧侶の目的意識の低さを、創価学会員の純真な菩薩行と比較しているものもある。
我が服は 汚き汗に まみれしも
君の法衣より 貴き輝き
衣には 作業着ほどの 値打ちもなし
エゴにまみれた 薄墨の装い
創価学会員には、長年にわたり無償で広宣流布を推し進めてきたことに対する自信がある。創価学会員それぞれが日蓮大聖人の弟子としての自覚に立ち、生涯を懸けてきたのだ。
純真な信心をしている学会員に比べ、僧侶たちの傲れる姿に、日蓮大聖人の教えの行く末を案じて。
僧宝と おごる姿や あさましき
いまやほのゆらぐ 富士の法灯
創価学会員が、一番、侮蔑と怒りを露わにしているのは、ほかならぬ日顕上人に対してである。
C作戦「野郎の首をカットする」
叫びし君は 平左衛門
高僧と いばりちらして おかしくも
超豪邸は 泡と消えなん
御法主と 同じ日生まれと 喜んだ
我が家の息子の むくれ顔かな
末寺住職の横暴にも、持ち前の正義感で敏感に反応している。大阪の本教寺住職・佐藤慈暢の所化に対する暴行事件についても一首歌われている。
殴る蹴る 佐藤住職 所化いじめ
法師の皮着る 畜生のまま
仏意仏勅の和合僧団である創価学会に対する僧侶の画策に対しても、怒りを隠さない。破和合僧に血道をあげる僧を、魔と断じている。
大聖の 教えを忘れて 悪侶らは
法衣の下に 魔の手ぞ隠さん
禿人は 久遠の誓い 忘れたか
魔王の姿 いまやあらわに
かけがえのない仏子の集まりを、画策によって崩そうとする悪侶らに、大阪人のストレートな表現が炸裂する。
薄墨の 衣の下は 化けの皮
おどすだますも 修行のひとつ
アホなのか バカなんやろか 宿業か
魔に操られ 踊る悪侶ら
創価学会員にとって我慢のできないのが、日蓮正宗僧侶による檀徒づくりだ。僧侶らは折伏もせず、学会員を脱会させ直属信徒にする檀徒づくりを、泥棒猫のように進めている。その卑劣さを歌って。
実態を 暴かれ急いで 慈悲顔しても
その手は桑名の 焼ハマグリよ
今日もまた 脱会すすめん 悪比丘の
変わりし形相 地獄の使いか
信徒盗り 折伏行とは あわれなり
宗祖も嘆く おろか宗門
檀徒作り 足で稼げと 大号令
猫の爪では 獅子は獲れぬぞ
檀徒づくりを進める僧侶らは、厳粛であるべき葬儀の場をも、脱会を勧める恰好の場と心得違いをしている。であるならば、葬儀に僧侶はいらぬということになる。
悪侶ぬき 故人の遺徳 さわやかに
真心こもる 友人葬かな
創価学会員は、宗門の卑劣さにあきれ驚き怒りながらも、民衆の側の勝利を信じている。創価学会の勝利を確信しているのだ。
十年後 新世紀来て 思い知れ
我が学会の 民衆の力を
二十一世紀までには勝負がつく。一大宗教革命をしているのだから、時間もかかる。追い詰められた宗門は、いずれ血迷って、創価学会首脳を「破門」してくるだろうが、笑い飛ばして前進すればよい。庶民は強い。
信者らと 対話できぬか タコ坊主
権威ボケした お山の大将
いやはや庶民の口に、戸は立てられぬものだ。
六章 両舌破法 終