第249号
発行日:1991年9月6日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
日顕上人が「破門」「解散」を命じてきても恐れることはない
権威権力で民衆支配を策す悪比丘たちは既に孤立している
去る八月二十九日、総本山大石寺でおこなわれた全国教師指導会において、日顕上人は、創価学会解体のプログラムに「奥の手」があることをほのめかした。
日蓮正宗の教師資格を持つ僧侶の中に、「創価学会員の折伏した者への御本尊下附をやめたい」「創価学会への処分をおこなってほしい」との強硬論を述べる者がいたが、その質問への回答の中で、創価学会に対する処分について触れたものだ。
まず、創価学会員が折伏した人に対する御本尊下附については、次のような質疑応答があった。
質問者 ともかく、お寺が少々、学会員を引き抜いても、それ以上の折伏をして御本尊様をお寺からいただくと、このように八尾(大阪府)では言っているそうです。そういう状況ですので、学会員に対して御本尊様を下附しなくてもいいということになりましたら、本当にありがたいことだと思います。(場内大拍手)
猊下 いやいや、それは言っているだけであって、そういうことを副会長が言ったということだけで、実際問題としては、(入信者は)ほとんどないだろうが。
質問者 このあいだも、二、三日前に、新しい入信者が一人おりました。それは副会長が言ったというのではありません。
猊下 いや、だからね、そういうことを言っているということのうえで、ひっかかったというけれども、そういうことは言っただけであって、実際には、どんどん昔みたいに折伏しているかといえば、そんなことしてやしないんだろうがと言ってんだよ。
質問者 今はまだしておりません。
猊下 「今は」だって。ずっとそうだよ。もうできやしないよ。ああいうふうになったら。
質問者 現実に、二、三日前にも新入信者が一人おりましたし……。
猊下 まあ、少しはいるだろうけれども、一人ぐらい、ウフフ。
日顕上人を筆頭に、日蓮正宗の僧侶の問題意識のなかに、折伏をして人々を救っていこうなどといった気持ちがまったくないことが、会話の流れのなかで確認される。あるのは、和合僧団である創価学会を、どんなことがあっても破壊しようとする、異様な情熱だけである。
それだけに、創価学会の破壊に執念を燃やす日顕上人は、遅々として進まない脱会者づくりにはいらだちを覚えているようだ。日顕上人が脱会者づくりの停滞に、いかにいらだっているかは、先号(第248号)に紹介したとおりである。
日顕上人はいま、創価学会に処分を下すことによって、脱会者を大量につくることを画策している。日顕上人は、変容しながらも実行される「C作戦」の最終段階にあたって、創価学会に対する処分を考えているのだ。
いずれにしても、信徒の幸福を第一に考えなければならない一宗のトップが、信徒団体を切り崩し、隷属する檀徒を作ることに腐心するとは、まったくもって卑しいことである。
創価学会破壊を目的にした策謀だけを生きがいにしている日顕上人の「奥の手」とは、いったいなんだろうか。以下、全国教師指導会における日顕上人の、創価学会処分に関する発言を紹介する。日顕上人の「奥の手」を、ともに予測してもらいたい。
「今まで(創価学会に)ずっと、本尊、下げてきたでしょうが。んじゃ、どこのケジメをもってこれから下げないと言う。
だから、そこは、このあいだも前向きに検討したうえでもって、仮にある筋道に基づいてだね、きちっとやることがあったら、それをきちんとやることによって、今度はその処置をしたことからの筋において、これ、これ、これ、今度は御本尊は下げませんよということが、きちんと、この、確定してくるという意味なんだ。
あのぉ、あれだなあ。これ、さっきも、あの、広圓房の、あれかなんかで処分をすると言ったけど、逆に私は聞きたいんだけど、君たちはいったい『処分する、処分する』ってことをよく言う。これ、信者もよく言ってくるんだ。向こうの、その幹部や、向こうの幹部なんていうのも、おかしいが。まあ、それは言わないけれども(このあたり、かなり興奮してまくし立てる)。とにかくいろんな人が私のもとへ手紙で言ってくる中に、『処分をしろ、処分をしろ』どういうことなんだって、逆にこっちが聞くと。
君たちはどう思っているんだ。処分ってことは、いったいどういうことなんだ。どこと、どうして、どうするっていうことが処分なんだ。
一人なのか、偶数なのか、奇数なのか、奇数じゃないや単数なのか(ここで日顕上人が話しすぎるので、ストップをかけようとするが、日顕上人はもう止まらない)。
まあ待て、待て、待ってろ。おい、少し、しゃべらせろ、俺にも。
それから、あの、なんだな。人を処分する、さっき総監は、人を処分するって意味だけで返事をしたけど、まあ、そのほかにだね、どういう具体的な問題があるのか。そういったことは、やっぱり、非常に大事な問題であると同時に、高等戦術でもある。
ねぇ、だからさあ、そんなことを考えないで、見きわめないで、ただ信者と一緒になって、『処分だ、処分だ、処分しなきゃ』『しないのか、んー、そうだなあ、処分まだしないのかなあ』なんて坊さんがそんな信者に引きずられて、そんなこと言ってるようじゃ困るよ。
逆に、『お前さん、処分ってどういうこと言ってんだ』って、その人に聞いてみろよ。私は、あー、こりゃ言っちゃまずいなー、ちょっと、へへへ。ある人間に逆に質問したことがある。そんなこと言うから。
そしたら向こうが、『へぇ、へぇ、へへー』なんちって返事ができない。本当だよ。いいかげんなことばっかり言ってんだよ、みんな。もっと具体的に、やる以上は責任もって、やることはやんなきゃなんないからね。
まあ、たとえば、ほかにもいろんなやり方がないっていうことはないな。まあそりゃ、言わないでおこう。みんな、あー、奥の手を出しちゃうと困るからな、フフフ。まあ、とにかく、いろんな、とにかく処置としてはありますよ。これから宗門が学会に対しても、どういう処置を取っていったらいいかってことはね」
日顕上人はこのように話した後、創価学会解体のためじっくりと作戦を立てて、今日までやってきていることを、次のように二度に及んで明言した。
「去年の十二月からでも、筋道をきちんと正して、その筋に従ってやってるんです」
「去年の十二月から、さっきも言ったとおり、宗門は本当にきちんとした筋道を立てて、その下に一つひとつきちんとやってきてるんですから、ね。その成果はずいぶん上がっているんですよ。これで。フフフ……」
日顕上人は、創価学会側が宗門批判を強め、いつでも「破門」「絶縁」できるだけの諸条件が整うのを待っているのだ。もう一つ、日顕上人が満を持して待っていることがある。それは、脱会者すなわち檀徒づくりが、ある一定の人数に達することである。
「奥の手」ともいえる最終処分を下し、最後の勝負に出たいのはヤマヤマだが、現状のような脱会者の少なさではどうしようもない。勝負に出ても勝算がないのだ。
これまで段階を踏んでおこなってきた策の、ことごとくが思い描いた成果を出していない。それだけに、「破門」「絶縁」の最終的な処分を打ち出す時期が先送りになってきている。
だが、最終的な処分の実施を、いたずらに先送りすることは、日顕上人にとって不利だ。創価学会側の内部固めが進み、信仰的にも僧侶の影響力が減じられてきているからである。このままだと、時の経過とともにいっそう不利な状況となる。
追い詰められたとはいえ、「奥の手」によって死中に活を求めることができると、日顕上人は踏んでいる。ソ連のクーデターの例をあげるまでもないが、暴挙は己の力の過信と状況認識のズレから起こされる。そして孤立し、敗北する。日顕上人も同じだ。
戦車の前に立ちはだかる民衆がソ連のクーデターを阻んだ。権威、権力がどのように猛り狂おうとも、正義の旗のもとに結集した民衆の熱き血潮を凍りつかせることはできない。
いま世界の動向は、人間主義に向かって流れている。日蓮正宗中枢の抱く宗教的ドグマが、人間主義の滔々たる流れにのみ込まれ流されていくのは、歴史の必定である。日顕上人──実に小さな男である。