報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

五章 綺語きご誑惑おうわく

地涌オリジナル風ロゴ

第191号

発行日:1991年7月10日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

提婆達多・山﨑正友に屈伏し謝罪してしまった日顕上人は
悪鬼入其身であることを自覚し速やかに正信に戻るべきだ

『新雑誌21』(一九九一年八月号より『新雑誌X』から改題)に、山﨑正友の部下・梅沢唯史(本名・梅沢十四夫)へのインタビュー記事が掲載されている。梅沢は、徹底した事実暴露によって、日蓮正宗の元海外部書記・福田毅道を攻撃している。

かつて梅沢と福田毅道は、創価学会を攻撃するという一点において一致し、盟友関係にあった。ところが、福田が梅沢を「創価学会のスパイ」と疑い、それを言いふらしたために険悪な関係になってしまった。福田の猜疑心のために、盟友関係はいとも簡単に決裂し、憎しみ合うようになったのだ。

しょせん、「創価学会憎し」の思いだけで結ばれていた人間関係であり、まったくの野合である。決裂すればすぐに暴露が始まったという次第。

だが、梅沢の暴露の中には、大変な事実があった。

梅沢は『新雑誌21』のインタビューの中で、本年(平成三年)一月五日、本応寺(群馬県・高橋公純住職)の信徒として総本山大石寺に登山し、内事部で福田毅道と会ったと述べている。そのときの様子を、梅沢は次のように語っている。

「当時海外部書記の福田毅道さん、この人と約二時間話したんです。その時に、『梅沢さんは山﨑正友さんに連絡はとれますか』というもんですから、とろうと思えばとれますと言いましたら、その時に、『では山﨑正友さんに猊下さんからのおことづけをお願いしたいんだ』というわけです。『これから言うことをそのまま伝えていただきたい、〈あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい。〉このように伝えて下さい。梅沢さんは意味が分らなくてもいいんだ。こういう風に言えば山﨑正友さんは理解できるはずです。ただしこのことは絶対に口外しないでいただきたい。私と梅沢さんの間だけにして絶対マスコミには特に言わないで頂きたい』ということでした。それで帰ってきまして、たしか六日の日に山﨑正友さんに連絡をとりました。実はこれこれこういうわけでもって、その旨を伝えた。

山﨑さんはいわゆるかつての上司ですから、私のことを梅沢さんといったことは一度もない。それが『梅沢さんそれは本当かね。本当ですか』と、ていねいな言葉で二度も言った、『わかった、どうもありがとう』と、はじめて、あの人がなんていうんですか部下に対する言葉でなくて、『ありがとう』と二度も言った。『意味は分りますね』このことづけをしたのはかつて大宣寺でもって一緒に机を並べた福田毅道さんという人です。福田毅道先生の電話番号教えますからと言って教えてあげたといういきさつがあるんです」

日顕上人が、「あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい」と山﨑正友宛の伝言を頼んだというのだから、由々しきことである。日蓮正宗の僧であり、海外部書記(当時)という立場にある福田が、猊下の伝言を捏造して伝えるということは絶対にありえないことだ。

それでも念のため、日顕上人が山﨑を「ウソつき」と呼んだことがあったのかどうかを調べてみた。

そのような事実はたしかにあった。

昭和六十年三月の非教師指導会で、日顕上人は、「私は登座以来、特に昭和五十四年の九月に、山﨑正友が実にインチキ極まる悪辣な策略家であるということを見抜いて『あなたは大嘘つきである』ということをはっきりと言いました」(『大日蓮』昭和六十年五月号所収)と述べている。

日顕上人は昭和五十四年の九月、山﨑に対して面と向かって、「あなたは大嘘つきである」と述べていたのだ。その前言をひるがえして、「悪かった。かんべんして下さい」とまで言って、日顕上人は山﨑に謝罪したというのだから、最悪である。

みずから謝罪してまで、破仏法の山﨑に気脈を通じようとする日顕上人は、悪鬼入其身の姿そのままと言える。まさに「狂ってしまった」という形容でしか表現のしようがない。

以下に、昭和六十年三月に総本山大書院でおこなわれた、「非教師指導会」における日顕上人の話を掲載する。

「先般は、新聞等で君達も承知であろうと思いますが、元創価学会員で、一時は学会の大幹部の立場にあり、しかもまた、顧問弁護士としてやっておった山﨑正友という男が、創価学会から恐喝の容疑で訴えられて、その第一審の判決が下りました。いわゆる懲役三年という判決であります。

もちろん、彼はこれを不服として直ちに控訴するというように言っておるらしいのですが、やはり裁判長ともなれば、それはけっして、一日蓮正宗とか、あるいは創価学会というような立場に、よい意味での色眼鏡をかけて、それらを護ろうというような意味から公正を欠くような裁判をするということは絶対にあり得ないのであります。したがって今回の結果は、やはり色々な点を調べて、その意味があくまで山﨑正友が恐喝をしたというような、はっきりとした、具体的な内容・事実ともにそれがあったということを示しておるのであります。

もちろんこれは、単なる創価学会に対する恐喝容疑であり、彼の経営していた『シーホース』とかいう会社の資金繰りのための恐喝ならびに恐喝未遂であったらしいのですが、しかし山﨑の行為の基本はやはり、当時から色々と、当時の問題としての宗門問題──宗門と創価学会との色々な問題に、非常に深くかかわっておるのであります。

しかし、今は、その表面上は恐喝容疑でありますから、新聞等においても、多少は宗門問題ということが出ておりますが、詳しくは触れておりません。しかし、山﨑正友という男が宗門の内部に食い込んできて、要するに自分が中心人物になり、その上から、あらゆることを自分の裁量で、宗門をも牛耳り、創価学会をも牛耳り、一切を自分の手に収めて、しかもやりたいことをやり、しかもそれが欲望にかられた、汚らわしい欲望そのものの人間が、智慧だけでもってそういうことをしようとしていた姿が、実はまだその奥に深く潜んでおるのであります。この山﨑正友の行ったすべての考え方なり、その行為・行動というものは、仏様の眼からみれば絶対に許されるべきでない、もっと大きな罪が──地獄へ何回堕ちても足りないほどの罪が存するのであります。

しかし、今回のことは世法の問題で、特にただ表面上の創価学会に対する恐喝ということだけでありますから、その点がはっきりしておらない意味がありますけれども、もちろんそれは仏法者の眼から見なければそういう本当の意味は解らないのであります。

私は登座以来、特に昭和五十四年の九月に、山﨑正友が実にインチキ極まる悪辣な策略家であるということを見抜いて『あなたは大嘘つきである』ということをはっきりと言いました。それから、特に私に対して色々と策を講じ、罠をかけてきたことが全部だめになったために、今度は正面きって、私などに対して実に有る事、無いこと──というよりも、むしろ無いことばかりを主体にして悪口を言い、週刊誌に様々なことを書かせ、そして、しかもそのなかからさらにまた、活動家と称する馬鹿な僧侶どもを煽り立てて、そして宗門と学会の争いをさらに助長させ──もちろん、それ以上に宗門をも覆滅して、自分勝手に宗門を操ろうとしたのであります。

ですから私は、その有様をじっと見ておりながら、当時の活動家と称する僧侶の者どもに何回も注意したのであります。『こういう者が、色々な情報を流し、君達の学会を正しくしようという考え方に便乗して、実に間違った行為を犯しておるのであるから、そういう者の言うことにうっかり乗ったならば大変なことになる』ということを私は二回、三回にわたって注意しました。しかし、彼等は無我夢中になっておりまして、少しもその前後、左右を正しく見極める考えもなく、まして、私が自ら何回にわたっても注意したことすら深く考える余裕もなく──それはまあ謗法の気持ちが充満していたためでありますが、そのためにとうとう突っ走ってしまって、最後は宗門から処断を受け、僧籍を剥奪されるということになっております。今日、遺憾ながらそういう者が百八十数名おるのであります。まあ当分、これらの者は、その心がけからも正しい立場で救われることはないでありましょう。これはまあ、一つのやむを得ない姿ではありますが、宗門広宣流布の急激な発展に伴い、信徒の増加に伴う、様々な在り方であったと思うのであります。

それが、一部分の形だけを見て『これがよい』とか『あれがよい』とかということは言えないのです。もっと大きく、全体の姿を見つつ、その根本は大聖人様の正法・三大秘法を広宣流布していくというところの在り方に存するのであり、それは今日以降の姿にも関連があるわけであります。そこに我々は、さらに慎重に、また自らの信心修行によるところの深い洞察力をもって、正しくこの問題を見、今後の資糧としなければならないと思うのであります。

こういうことは前からもよく、このような集まりのときに、当時は当時なりに、所化達までも粉動される状況が相当多かったために、私は常に言ってきましたが、最近はあまり言わなくなりました。けれども、先般の山﨑正友という悪徳弁護士の第一審の判決において懲役三年という実刑が確定したということに関連して、まず最初に触れた次第であります」(『大日蓮』昭和六十年五月号所収)

昭和六十年三月、山﨑正友をここまで徹底的に批判していた者が、六年後の本年、謝罪までしていたのだ。百八十度の転換である。ではその間、山﨑正友のおこないが正されたのか。

とんでもない。山﨑はいまも、あいも変わらず陰に陽に創価学会攻撃をしている。ただ単に、日顕上人の見方が変わっただけなのだ。じつに無節操な転換である。

この日顕上人の変節の動機は、ただ一つ。池田大作名誉会長への怨嫉である。とてもではないが、一宗のトップに立つ器ではない。

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