報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二章 持者能忍じしゃのうにん

地涌オリジナル風ロゴ

第71号

発行日:1991年3月12日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日顕上人に20億円のプールつき豪邸の建築計画あり
権威、権力をカサに着てやはりどこかが狂ってきた

日顕猊下にきわめて近い筋の情報によれば、猊下の東京での私邸として、およそ二十億円の豪邸建築計画が進行している。所在地は目黒区八雲と伝えられている。

この豪邸は、表向きは寺院とされているが、一室が仏間とされているだけで、ほとんど猊下の私的生活のための間取りとなっているということだ。

また、地下にはプールやトレーニングルームもあり、これではまるで宗教貴族の館であると情報提供者は憤慨している。

近年、日蓮正宗の僧侶の生活が金満化の一途をたどっているが、日蓮正宗の法主が、少欲知足を旨とする本宗の宗風をないがしろにする贅沢三昧の超豪邸の建築を計画しているとは驚愕すべきことである。

この情報を伝えてきた者は、日顕猊下の成り金的な生活感覚を慨嘆し、猊下の生活ぶりは日蓮大聖人の仏法を奉ずる者として、とうてい許されるものではないとしている。

また、日顕猊下の夫人の浪費癖はとどまるところを知らない。東京の三越デパートで、一度に億を超える買い物を見積りもとらないでするなど、そのありさまは空恐ろしいほどだとも伝えてきている。

もちろんそれだけの金額となれば、その買い物には、私的なものだけではなく日蓮正宗としての買い物も含まれているのだが、それを夫人が見積りもとらないでおこなうのは社会的にもあってはならないことだ。情報筋によれば、数百万円単位のものを、「ハイ、これをください」「ハイ、それもください」と、どんどん買ってしまうということだ。

日蓮大聖人は身延の草庵にあって清貧の生活をされた。御供養をした信者には、真心からの信心指導をされている。

「十字五十まい・くしがき一れん・あめをけ一・送り給い了んぬ」(窪尼御前御返事)

「かたびら一つ・しをいちだ・あぶら五そう・給び候い了んぬ」(南条殿御返事)

これらの御手紙にうかがわれる日蓮大聖人の生活と、現猊下の生活は無縁のものである。

昨年八月末、日蓮正宗の中枢は宗内に対して綱紀自粛を申し渡し、創価学会に対する強硬措置を前にして内部の引き締めをはかったが、その一方で猊下みずからが二十億円の私邸を造ろうとしている。これでは、宗内にうっ積してきた不満を爆発させることになりかねない。と同時に、猊下に対する信頼感はいっそう失われることとなった。

この二十億円の豪邸は、宗教法人日蓮正宗の建築計画として進められておりながら、事実上は日顕猊下の私邸にすぎないということであれば、法律上もかなり問題がある。公的な法人格を持つ宗教法人の代表役員が、法人の運営にあたり財産を私物化しているとの見方もできるのである。

一般の会社法人でも、社長が二十億円もの豪邸を社宅として造れば問題となる。まして日蓮正宗は宗教法人である。信徒の御供養の精神により支えられているのだ。つつましやかな生活の中から捻出された御供養であることを忘れてはならない。また母子家庭や生活保護を受けている家庭からの御供養もあるのだ。この建築計画は、即刻、中止されるべきものである。

今回の創価学会との関係において、その根底に横たわっているのが僧侶の金満化の問題である。宗門の僧で、この猊下と同じような贅沢三昧の生活を志向する者があるならば、それは日蓮大聖人の末流としては間違っているのだと反省しなければならない。

少欲知足の聖僧たるべき日蓮正宗の僧侶の範を示さなければならない猊下にしてからが、地下プールつきの二十億円の豪邸に住もうとする。この思い上がりを創価学会側は問題にしてきたのだ。僧形をなしていれば人の上に位置する、果ては人に数十倍する生活をして当たり前といった感覚は、差別意識以外のなにものでもない。日蓮大聖人の仏法とは、ほど遠い感覚である。その金満化した生活を正当化するために、僧は信徒より上に位置すると主張しているとしか思えない。

そのうえ、折伏行をなさず、瞋恚の思いから破和合僧を策する。日蓮正宗の清流ここにきわまれりといった感すらする。

「受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮らさん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし、迹門には『我身命を愛せず但だ無上道を惜しむ』ととき・本門には『自ら身命を惜まず』ととき・涅槃経には『身は軽く法は重し身を死して法を弘む』と見えたり、本迹両門・涅槃経共に身命を捨てて法を弘むべしと見えたり、此等の禁を背く重罪は目には見えざれども積りて地獄に堕つる事・譬ば寒熱の姿形もなく眼には見えざれども、冬は寒来りて草木・人畜をせめ夏は熱来たりて人畜を熱悩せしむるが如くなるべし」(松野殿御返事)

【通解】受けがたい人身を得て、たまたま出家した者でも、仏法を学び謗法の者を責めないで、いたずらに遊びたわむれて雑談のみに明かし暮らす者は、僧侶の皮を着た畜生である。僧侶という名を借りて世を渡り、身を養っていても、僧侶としての意義は何一つない。僧侶という名字を盗んだ盗人である。恥ずべきことであり、恐るべきことである。法華経迹門勧持品第十三に「我身命を愛せず但だ無上道を惜しむ」と説かれ、本門の寿量品第十六には「自ら身命を惜しまず」と説かれ、涅槃経には「身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」と説かれている。法華経の本迹両門も、涅槃経もともに身命を捨てて法を弘むべきであると説かれているのである。これらの禁に背く重罪は目には見えないけれども、積もって地獄に落ちることは、たとえば寒さや熱さは姿形もなく、眼には見えないけれども、冬には寒さがやってきて、草木や人畜をせめ、夏には熱さがやってきて、人畜を熱さで悩ませるようなものである。

深くこの御書をわが身にあてはめ、戒壇の大御本尊様の前で懺悔すべきである。

日顕猊下は、本年一月六日の総本山における教師指導会で、創価学会との諸問題に臨むにあたり、その決意のほどを、

「これからいろいろと非常に厳しいこと、大変なこと、そういうようなことが起こって来ると思います。私はもう覚悟している。大聖人様のですね、こういうお言葉がありましたね。『所詮日蓮一人にて、日本国を流浪すべき身にて候』。私はもうこの御文を拝した時に涙がですね……(嗚咽)……しかし、私もまた、その覚悟をもっております……(嗚咽)……のでよろしく……(嗚咽)……私一人になっても、守ってまいります」

と涙を流して語った。高橋公純はこのありさまを美化して、

「最後に御法主上人猊下が御指南に立たれ組織の中心者が悪なら、全ての人々が悪に染まってしまう、ということから数多くの純粋な学会員を正しい信仰に導かねば一山の法主として、日蓮大聖人様に申し訳がないとされ御指南の最後として、『結句は一人になりて日本国に流浪すべき身にて候』との富木抄を拝されるに及んで猊下は一筋の涙をながされたのである。『猊下が泣かれている』

大客殿のなかにいる約千名近くの僧俗は一瞬水を打ったように静かになりました。

猊下のその尊きお姿に多くの僧俗が又涙した。何という絶妙な御説得であろう。一千万語は一筋の涙に、及ばないのである」

と述べている。これも計算ずくの文だ。一緒に泣いたのは前のほうの能化の僧が中心であった。猊下の感情が突然に激していくのを見て、精神的な不安定さを心配した者も多数いた。

それにしてもここまで美化された話の裏に、このような真実があったとは……。「流浪」どころか、その行く先は目黒の地下プールつき二十億円の豪邸だったのだ。

猊下は昨年の夏頃より、折にふれて末寺の住職に、「鋤や鍬を持ってもしのぐように」とまで話しておきながら、このような豪邸の建築計画を進めていたのである。末寺の住職の猊下に対する不信も強まるものと思われる。

なお、この豪邸については追跡取材をおこなう。

家族友人葬のパイオニア報恩社