第43号
発行日:1991年2月12日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
信徒を罰するためにはどんな捏造もする
こんな堕落した僧侶は糾さなければならない
〈逢難シリーズ・第3回〉
昭和二十七年四月三十日付で発行された『大日蓮』四月号は、小笠原の僧籍復帰について、宗内に次のように伝えている。
令第三十一號
岐阜縣武儀郡美濃町
本玄寺内 旧大僧都小笠原慈聞
右者宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條二項に依り昭和廿七年四月附特赦復級せしめる
但し住職を認めその他の利権は保留する
昭和二十七年四月五日
日蓮正宗管長 水谷日昇
宗務総監 高野日深
特赦理由書
岐阜縣武儀郡美濃町
本玄寺内 小笠原慈聞
右者昭和十七年九月十四日附に擯斥処分を受けたるものであるが其の後改悛の情も認められ同本人も老齢のこと故関係信徒の特別なる懇願等もあるので情状を酌量し且つ本年は宗旨建立七百年の佳年に当り慶祝すべき時であるから特別なる計らいを以て宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條に依り特赦復級せしめ住職権のみ認める
昭和二十七年四月五日
日蓮正宗管長 水谷日昇
これは、創価学会側にとって寝耳に水のことであった。一年前の会長推戴式の前後に小笠原が僧籍にないことを重々、確認していたのに、四月二十七日に小笠原を糾弾した後になって、その前の四月五日に僧籍復帰を赦されていたことが公にされたのだ。
創価学会側から見れば、立宗七百年大法要の日に、僧籍にない者が僧衣を着て臆面もなく登山していることは、公然と小笠原を糾す一つの理由でもあったのだった。だがこの『大日蓮』の発表によって、その根拠はくつがえされることになった。
戸田会長は、後に宗務院に出した昭和二十七年六月二十七日付の「始末書」の中で、その意外さについて述べている。
「尚小笠原慈聞氏は事件直後に聞きました所では、慶祝記念に当り特赦され僧籍に復帰を許されたとの事でありますので、宗務院よりの発令の有無と理由の示達を糾して居りました所、四月三十日附印刷発行になる大日蓮紙第七十四号に発表されたものが、五月中旬に配布されましたが、今尚かかる主張をなす僧侶として本山に居る事は了解に苦しむのであります」
小笠原復帰の意外さと、その処置を平然とおこなった宗門に対する無念さがうかがわれる。この『大日蓮』の発表は、まさに攻守ところを変えるほどの衝撃的なものであった。
しかしここに、ある疑惑が浮かんでくる。それは、小笠原の復帰を公表する作業が四月二十七日の狸祭事件後に、急きょ、おこなわれたのではないかという疑惑である。この頃の『大日蓮』は毎月七日に印刷発行されている。奥付も、この昭和二十七年四月号以外は皆それぞれの月の七日で、この四月号のみ四月三十日発行となっている。従って、この四月三十日という日付は、明らかに遅れて作られたことを示している。
この日付は、『大日蓮』が月一回、必ず出している月刊誌という体裁を取るために付けられたものだと判断できる。そのためには四月三十日はギリギリの日付である。実際はそれより何日か遅れていたのではあるまいか。四月末に発行したとなれば、最もあわただしい大法要の直前に編集作業をしたことになる。『大日蓮』の発行が遅れたのはこの号が特例であるので、大法要があったために遅れたと判断するのが自然だ。となれば、大法要後、おそらく五月七日発行の五月号と同時併行で編集、制作がなされたと思われる。このことは戸田会長の「始末書」に「五月中旬に配布」と記されていることからもうかがえる。
この『大日蓮』四月号の五月印刷発行の疑惑を確認し、そのうえで、小笠原の復帰が「狸祭事件」(四月二十七日)後、戸田会長が「宗務院よりの発令の有無と理由の示達を糾し」(前出「始末書」)てから急きょ、日付をさかのぼっておこなわれたのではないかと思われる節を指摘しておこう。
四月五日付で小笠原以外にもう一人、特赦を受けた者がいる。権大僧都の井口琳道である。井口は昭和二十二年四月の総本山所有山林売却に際し不正の行為があったとして、同二十三年十月に僧階を六級降ろされていた。それを小笠原と同じ日の四月五日付で、「復級復権」させたとされている。これが「令第三十号」として先に出されている。その後に「令第三十一号」として小笠原の「復級」が出されている。
この順序に疑問を持つ。
僧侶の世界において僧階は絶対の序列である。それは通常の行動においても厳正に守られている。にもかかわらず、同じ四月五日の特赦であるのに、僧階の低い「権大僧都」の特赦を「大僧都」より先に出すのは明らかにおかしい。小笠原の特赦は、井口の四月五日より実際は遅く発令されたことを意味している。
後で詳述することになるが、小笠原は昭和二十一年三月に、既に特赦で復級している。その事実を考え合わせると、この小笠原の「復級」の決定および『大日蓮』への公告は、戸田会長を罰するために管長の名で捏造されたことが明々白々である。あまりに破廉恥な行為である。
ただただ僧の権威のみを守ろうとする、堕落した出家の奸智をそこに見る。堕落した者にとって、仏法の正邪は二の次なのである。表だっては高邁なことを述べているが、自分たちの立場が脅かされるのではないかと、戦々兢々としているだけなのである。最も恐れるべきものは、宗祖日蓮大聖人のお怒りであることを忘れているのだ。