報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十六章 仏勅ぶっちょく顕然けんねん

地涌オリジナル風ロゴ

第888号

発行日:1995年11月5日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

“法主”日恭が無惨な焼死をし仏法滅尽を示したことは
真の法華経の行者が全人類救済に立ち上がる予兆であった
〈仏勅シリーズ・第19回〉

日蓮大聖人曰く。

「経文には或いは不惜身命とも或は寧喪身命とも説く、何故にかやうには説かるるやと存ずるに只人をはばからず経文のままに法理を弘通せば謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有つて命にも及ぶべしと見えたり、其の仏法の違目を見ながら我もせめず国主にも訴へずば教へに背いて仏弟子にはあらずと説かれたり」(聖愚問答抄)

【通解】経文には、あるいは「身命を惜しまず」(法華経譬喩品第三等)とも、あるいは「寧ろ身命を喪うとも」(涅槃経巻九)とも説かれている。なぜこのように説かれるのかというと、他人を恐れず、経文のとおりに法理を弘通すれば、謗法の者の多い世には、かならず三類の敵人が現れて、身命も危険になると書かれているのである。彼らの仏法の誤りを見ながら、自らも責めず、また国主にも訴えないならば、仏の教えに背いて仏弟子ではないと説かれている。

戸田城聖創価学会第二代会長が巣鴨(現・東京都豊島区東池袋)の東京拘置所の独居房で法悦にひたり、故・牧口会長を偲び、生きて出獄して広宣流布の戦いをすることを決意していた昭和二十年六月、静岡県上野村の大石寺の坊主らは、法を曲げながら生き延びることに汲々としていた。

なかんずく“法主”の地位にあった鈴木日恭は、官憲の弾圧に脅え、法難を真っ向から受けた創価教育学会幹部を信徒除名にし、同じく特別高等警察の毒牙にかかった僧・藤本蓮城をも擯斥処分にしていた。

藤本は、昭和十九年一月十日に極寒の長野刑務所で獄死したが、この如説修行の僧に対しても、日恭ら宗門は我が身かわいさで、藤本の死後も僧籍復帰を認めず、「蓮城日秀居士」との墓檀家なみの戒名を与えただけであった。

戸田会長は、日蓮大聖人の仏法をただ生業の手段とし、法に殉じようとしない日恭ら臆病者たちについて、出獄後、つぎのように記している。

「あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が国家に迎合」(論文「創価学会の歴史と確信」『戸田城聖全集』第三巻所収)

「腰抜け坊主が国家に迎合せんとした」(昭和二十六年七月二十二日の東京・家政学院講堂における臨時総会での講演『同』第三巻所収)

日恭は日本軍国主義の猛威に恐怖し、昭和十二年十一月三日の登座以来、数々の謗法を犯した。ちなみに、主なものを列記すると以下のようになる。

○昭和十六年八月二十二日付の「院達」で、国家神道におもねり御観念文を改竄し僧俗に徹底した。

○昭和十六年八月二十四日付で御書発刊禁止の「院達」を出した。

○昭和十六年九月二十九日付で大聖人の御書の字句を十四カ所にわたり削除せよとの通達を出した。

○昭和十六年十二月八日付で軍部に迎合し信徒を戦争に駆り立てるため戦争翼賛の「訓諭」を出した。

○昭和十七年十月十日付で「院達」を出し、伊勢神宮を遥拝するよう各末寺に命じた。

○昭和十八年六月、創価教育学会幹部を本山に呼び、神礼甘受を申し渡した。

○昭和十八年夏、法難の只中にいた創価教育学会幹部を信徒除名処分し、同様に藤本蓮城を擯斥処分にした。

○昭和十八年八月二十一日と二十二日、二十五日と二十六日の二回に分けて「教師錬成講習会」を開催し、寺院の庫裡に神礼を祀るよう徹底した。

○軍部により大石寺書院に伊勢皇大神宮の神礼を祀りこまれたが黙認した。

日蓮大聖人の大慈悲を踏みにじり、仏法を曲げ、御本仏を辱めた日恭の罪は、あまりにも重かった。昭和二十年六月十七日、日恭は堕獄の現証を示して死んだ。

このとき、大石寺書院には伊勢皇大神宮の神礼が祀り込まれていた。この神礼は駐屯する軍が祀ったものだが、大石寺の僧らはそれを黙認し、謗法厳戒の宗祖日蓮大聖人の教えに背いたのである。

日恭ら大石寺の僧には、もはや護法の念は認められず、大石寺は謗法の山と化していた。

神礼の祀り込まれた書院には、三百名とも伝えられる朝鮮農耕隊がザコ寝していた。朝鮮農耕隊の人々は、いずれも故国よりなかば強制的に連れてこられた者ばかりであった。彼らは大石寺周辺の開墾や農耕に従事させられていた。

この頃の大石寺には、年老いた僧と数名の所化が残っている程度であったようだ。ことは、このような状況下で起きた。

同日午後九時半ごろ、大石寺の所化・増田壌允は同じく所化であった河辺慈篤(当時十五歳、現参議・北海道大布教区宗務大支院長)のところを訪ね、

「押し入れのなかでタバコを吸っていてボヤを出した」

と話した。

「火は消したのか、大丈夫か」

と尋ねた河辺に対し増田は、

「小便で消した」

と答えた。それからおよそ一時間後の午後十時半、増田が隠れてタバコを吸っていた大奥に隣接する小部屋より出火した。その小部屋は、大奥と対面所のあいだにあった奥番部屋である。

火はたちまち燃え盛り、将校の寝ていた対面所と日恭の寝ていた大奥にほぼ同時に燃え移った。対面所、大奥とも火の回りは恐ろしく速かったようで、対面所に寝ていた将校は、軍服も着ず、袴下姿で飛び出し、軍刀も火中に残したままであった。

火は、書院、六壺、客殿と延焼していき、明けて十八日午前四時ごろにすべてを灰にし鎮火した。

鎮火後、“法主”日恭の姿が見当たらないので探していたところ、大奥の焼け跡から無惨な死骸が見つかった。その死体は竈にはまり込み、上半身は黒焦げであったが、下半身と腸は生身のままであった。その眼もおおいたくなるような恐ろしい焼死体は、まぎれもなく“法主”日恭その人であった。

日恭がはまり込んだ竈は、日恭が寝所として使っていた二階建ての建物に接する平屋の奥台所(対面所とは三尺の廊下を隔て、向かい合う)の竈と思われる。おそらくは寝所二階より奥台所の屋根づたいに逃げようとして、屋根を踏み抜き、竈にはまり込み逃げるに逃げられず、生きながら焼かれ死んだものと推測される。

日蓮大聖人曰く。

「我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し」(顕立正意抄)

【通解】わが弟子等のなかでも、信心の薄い(弱い)者は、臨終のときに阿鼻獄(無間地獄)の相を現すであろう。

所化時代、この焼死体を現場で目撃した河辺は近年、瞼に焼きついた衝撃のもようを、

「アレ(日恭)は二度、焼いたんじゃ……」

と、改めて半焼けの死体を荼毘に付したことを述べ、前記した日恭の死体のもようを知人に語っていたということである。

大石寺の大火および日恭の“法主”にあるまじき無惨な死については、当然のことながらその当時宗内で大変な話題となった。

ここに、日恭亡きあとの宗務を統括した管長代務者・中島廣政が、大火三カ月後の九月に品川・妙光寺で話した話の記録がある。この記録は、中島の話を直に聞いた信徒の竹尾清澄が「数日後」にまとめたものである。それによれば、中島は、

「皆様も御承知の大石寺の対面所、大書院及客殿が炎上し日恭上人が御焼死なさったことについて一言申上げます」

と前置きし、出火の原因が、

「一所化の失火」

であったとし、大火になったのは、以下の不幸が重なったためであったと公言した。

「書院には三百名の農耕兵が居りましたが或事情のため消火に協力出来ず門前にあった消防自動車は故障のため使へず上井出から来た戰車学校の自動車はガソリンを忘れたため是亦役に立たず富士宮では消防自動車が大石寺出火と聞き逸早く出動準備を整へたのでありますが署長不在のため命令を受けられず、空しく時を過ごし上野署よりの応援要請で馳著けた時は火は既*に客殿に移り手の下しやうもないと云ふ此上ない悪條件揃ひであって洵に宿命と申す外はないのであります」

そのうえで、

「然し金口嫡々の法主上人が此くの如き御最期を御遂げになったと云ふことは僧俗共に深く考へなければならぬことで是は大聖人大慈の御誡であります」

と結論しており、その後の話のなかでも、

「大聖人様の大慈の嚴誡でありませう 私共は深く省み奮然と起って行学の本道に邁進し廣宣流布の大願成就を期せなければなりません」

と強調している。

この中島の話の限りにおいては、終戦間もない九月時点では、宗門のトップは敗戦のショックもあり素直に自分たちの謗法を認めていたようである。

ところが、昭和三十一年九月三十日付で「日蓮正宗布教会」が出した「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」においては、出火の原因を朝鮮農耕隊の放火としている。

「丁度静岡市空襲の晩に此れ等の兵隊がガソリンを撒布して、将校室となっていた其の対面所の裏側の羽目に火を付けたのである」

日蓮正宗は日恭焼死の十一年後には、所化の出火を朝鮮農耕隊の放火と歪曲するまでになっていた。なお静岡市へのB29による大規模な空襲は、六月十九日深夜から二十日にかけておこなわれたもので、百二十三機が飛来した。

大石寺に大火があったのは、同月十七日夜から十八日未明にかけてであるから、日蓮正宗布教会の記述はこの点でもデタラメ。

このような事実隠蔽のために人を冤罪に陥れる有様であったのだから、日恭の焼死が謗法の故であるとした敗戦直後の深刻な懺悔など、宗門はもうすっかり忘れ去ってしまっていたのである。そのあとは日恭の無惨な死について語ることは、タブーとされる風潮が宗門に残った。

しかし、日蓮大聖人の弟子であるなら、日恭の死を時間の経過のなかで風化させてはならない。仏法に違背すれば、“法主”たりとも厳罰が下るのである。

だが日蓮大聖人の法脈のなかに、これほどの大謗法の“法主”が生じたということは、それだけ広宣流布の暁が近いということでもある。

東京拘置所の独居房にいた戸田会長は、この静岡県上野村の大惨事を知る由もなかった。しかし国家神道に狂った軍部の脅威を前にして、日蓮大聖人の仏法を歪め、真の法華経の行者を見捨てた“法主”日恭の無惨な焼死は、仏の威光が分明となり、新たなる時の予兆であることを示していた。

末法濁悪の世にあって、国家権力の弾圧により死の淵に立たされた法華経の行者・戸田会長の保釈の日が近づいていたのである。

戸田会長は六月二十九日、東京拘置所より豊多摩刑務所(現・東京都中野区)に移監された。それは保釈の前段階としての移監であった。

日蓮大聖人曰く。

「仏法の中には仏いましめて云く法華経のかたきを見て世をはばかり恐れて申さずば、釈迦仏の御敵いかなる智人・善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」(妙法比丘尼御返事)

【通解】仏法のなかで、「法華経の敵を見ながら世をはばかり恐れて言わないのは、釈迦仏の敵である。どのような智人・善人であっても必ず無間地獄に堕ちるであろう」と仏は戒められている。

家族友人葬のパイオニア報恩社