報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十六章 仏勅ぶっちょく顕然けんねん

地涌オリジナル風ロゴ

第887号

発行日:1995年11月3日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

「牧口先生のところが恋しい様な気持ちに襲われがちです」
急に体が衰弱するなかで戸田会長は死の淵をのぞいていた
〈仏勅シリーズ・第18回〉

日蓮大聖人曰く。

「末法には法華経の行者必ず出来すべし、但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし、火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや、大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし、諸河の水入る事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ」(椎地四郎殿御書)

【通解】末法には法華経の行者が必ず出現する。ただし大難に値あば強盛の信心でいよいよ喜んでいくべきである。火に薪を加えるに火勢が盛んにならないことがあろうか。大海には多くの河水が流れ込む。しかし、大海が河へ返すことがあるだろうか。法華経という大海、またその行者に諸河の水が大難として流れ込むけれども、押し返したりとがめたりすることはない。諸河の水が入ることがなければ大海はない。大難がなければ法華経の行者ではない。

三月十日の東京大空襲は、当然のことながら東京拘置所にいた戸田会長にとっても人ごとではなかった。

そもそも首都・東京への空襲は、前年の十一月二十四日より断続的におこなわれており、この東京大空襲前までは、昼間、B29を中心とした一万メートルの上空からの目視による軍需工場や軍施設に対する精密爆撃であった。

だが、この東京大空襲は性格が違っていた。夜間、B29が超低空で侵入しての住宅密集地に対する無差別爆撃をおこなった。

三月九日夕、三百二十五機のB29はマリアナ基地(サイパン、グアム、テニアンの三島に分散)を飛び立った。同基地には、日本への爆撃を目的に、約一千機のB29が配備されていた。

深夜零時、明けて十日は陸軍記念日であった。その八分後、東京湾上から侵入した先頭の一機が深川地区(筆者注=現在の江東区)に一発目の高性能焼夷弾を投下した。それにつづいて、東京の空を隙間もなく覆った黒い巨大な飛行機の大編隊が、焼夷弾を雨のごとく、おもに下町一帯に投じた。

空襲警報が発令されたのは、零時十五分であった。首都の闇夜にサイレンが不気味に鳴り響き、敵索するサーチライトが交錯した。地上には紅蓮の炎が燃え盛り、約二十七万戸の家が焼き尽くされ、約十万人が焼死、約百万人の人々が家を失った。

午前二時三十七分に空襲警報は解除されたが、鎮火したのは明け方八時過ぎであった。まさに、阿鼻叫喚の地獄絵が現実となったのである。

東京拘置所近くでは、豊島区、滝野川区(現在の北区、以下同表記)、王子区(北区)、板橋区、小石川区(文京区)、本郷区(文京区)、牛込区(新宿区)などが被弾した。東京拘置所の上空も何機かのB29が低空で飛んだことだろう。

外の世界の異常は、東京拘置所の獄にあっても知ることができたはずだ。雑居房はざわめき、独居房の囚人は息を殺したことだろう。

〈もしこの拘置所が爆撃されたら、逃げることもできず死ぬしかない。爆弾で一思いならともかく、火事になって時間をかけてあぶり殺されるのだけはごめんだ〉

死の恐怖が拘置されている者たちの心を凍りつかせる。獄に囚われている者が最も恐れるのが火事である。囚人間では、火事のことを「ネコ」と隠語で呼ぶ。「ネコ」の赤い舌に由来するという。

だが、幸いにも東京拘置所は爆撃されなかった。しかし、獄窓のスリガラスごしにも、赤く染まった空の異常がうかがいとれたのではあるまいか。約一千七百トンもの高性能焼夷弾によって燃え盛る首都――、その紅蓮の炎により、獄窓の外の空は赤く照らされていた。

三月二十三日、戸田会長は家族の身を案じ夫人の父宛に手紙を書いた。

「一 空襲のことで、日夜心配しどおしております。商事も秀英社も四海書房も六芸社も、全部なくなったと思います。どうか面会に来て下さい。私がいなくてはどうにもなりますまいが、せめて『生活』の相談でもうけたいと思います。

二 毎度ですみませぬが、お金を百円調達して両全会へ二十円、私のところへは八十円差し入れて下さい。

三 急に衰弱が加わってまいりました。滋養剤が手に入りませんか。牧口先生のところが恋しい様な気持ちに襲われがちです。せめて『差し入れ弁当』と、当所の滋養剤を購入したいと思います。元気になるか知らんと思ってどうか、両全会と差し入れ金いそいで下さい。

四 お金の不自由は、大変困ります。

五 少しの人情にも涙もろくなりました。

六 週刊朝日、毎日なりとせめて入りませぬか」(青娥書房発行『若き日の手記・獄中記』)

このころ、夫人をはじめ夫人の父、弟が差し入れを持って毎日のように芝区白金台より現在の東京都豊島区東池袋に所在していた東京拘置所に向かったが、空襲のため目的を達することができなかったという。

なお、文中にある「両全会」とは、金を預かり家族に代わり当局の許可を得たものを買ってくれる扶助組織。

五月二日付の夫人の弟宛の手紙には、以下のように書かれている。

「面会に来て下さい。お父さんでもI子(夫人)でも。君でも。生活のことの相談に応じたい。空襲の関係、会社の被害も聞いて、家庭、生活を考えたい。

日小の金庫に、国庫債券を二千円入れておいたが被害がなかったら、E君に出してもらってこれを売って、使って下さい。あるか無いか、わからぬが。

二 宅下げは、保護会からできなくなりました。是非、面会に来て、その節、宅下げものをもって行って下さい。先日、判事には私からも願っておきました。滝沢大助判事殿にお願いして、その節、綿入れ、セル、足袋を返しておきます。単衣二枚入れて下さい。

三 1 三銭の切手十枚、五銭五枚。2 ちり紙。3 敷布。以上至急たのみます。

四 時勢の一大事の為、皆いないと見えて、だれからも差し入れがない。君の手元の金なり、また、君が都合悪かったら、手持ちの債券なり“日小”の債券なりを売って、これも至急差し入れて下さい。三月末、一銭なしで困っております。いくらでもよろしい。

五 滋養剤を是非さがしてくれ給え。疲労しきっている。

六 本 1、“日小”の二階の義信のいた部屋に高等数学講義がある。そのうち、微分、積分学、数学史の二冊。2、台町に世界大衆文芸集がある。三銃士、水滸伝その他一度読んだもので結構、差し入れて下さい」(同)

読者のなかには、どうして獄の中でそれほどに金が要るのだろうと考える人もいるのではあるまいか。

この当時、日本社会は劣悪な経済情勢の下にあり物資は欠乏していた。無論のことながら食糧も枯渇していた。一般社会でそうなのだから、獄に囚われている者にまともに食糧が届くはずもない。

未決囚の食事は、もともとタクワン一切れに味噌汁、麦飯であったが、昭和二十年ともなると麦飯に大豆アワが麦以上に混じり、味噌汁も薄い塩湯のようになり、おかずとして茶ガラが出ることもあった。

ともなれば地獄の沙汰も金次第、金があれば看守に頼み買い物もできれば融通も効く。生命を永らえるために、金は絶対に必要であった。

日蓮大聖人曰く。

「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり、されば・いのちは・ともしびのごとし・食はあぶらのごとし、あぶらつくれば・ともしびきへぬ・食なければ・いのちたへぬ」(白米一俵御書)

【通解】生命というもの一切の財の中で第一の財である。「三千界に遍満するも、身命に直いするもの有ること無し」と説かれて、三千大千世界に満ちた財であっても、生命に代えることはできない。それゆえ生命は灯火のごとく、食物は油のようなものである。油が尽きれば灯火は消える。食物がなけれ生命は絶えてしまうのである。

戸田会長が飢えにより生死の境をさまよっているときも、B29による首都・東京に対する空襲は昼夜の別なくつづけられていた。

四月二日には五十機、四日は百七十機、七日は百三機、十三日は三百三十機、十五日は三百四十機、五月二十四日は五百二十五機、二十五日は四百七十機のB29が飛来した。

この間、ほかにも少数機が幾度となく飛来している。これらの空襲により、首都・東京は灰燼に帰し、五月二十五日の空襲をもって焼夷弾による攻撃は終了した。

米軍は、戦略爆撃調査団の報告に基づき、攻撃リストから充分に破壊し尽くされた首都・東京をはずしたのである。

その東京の拘置所のなかで、恩師に報いるために生きて獄を出ることを決意した一人の法華経の行者が、ひたすら唱題に励んでいた。獄の外では救われるべき日本の民衆が、大量殺戮兵器の恐怖におびえ逃げまどっていたのである。

家族友人葬のパイオニア報恩社