報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十九章 菩薩ぼさつ涌出ゆじゅつ

地涌オリジナル風ロゴ

第692号

発行日:1993年8月30日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

同じ法華経を信ずるようでも宗門は臆病の故に法義を曲げ
創価学会は勇猛心を奮い大聖人の弟子としての道を進んだ
〈仏勅シリーズ・第6回〉

昭和三(一九二八)年は不思議な年である。

一月二日に、池田大作創価学会第三代会長(現・名誉会長)が生まれた。六月には、牧口常三郎創価学会初代会長が、三谷素啓氏の折伏で日蓮大聖人の仏法を信ずるに至り、その同じ月に牧口会長の折伏で戸田城聖創価学会第二代会長が入信した。

転じて宗門を見ると、“法滅の妖怪”といえる日開が六月二日に“法主”となった。日開は登座直後の六月二十七日、それまで“隠し子”として育てていた彦坂信夫(のぶお、現・日顕)を実子として認知する。

日顕は、日開が常泉寺で下働きをする二十四歳年下の女性に生ませた女犯の結実であり、大石寺貫首が“聖僧”ではなく、破仏法の禿人であることの証しでもある。総じて、日顕の存在自体が法滅尽の実相ともいえる。その日顕もまた、この昭和三年の八月二十八日に得度し、日蓮大聖人の法脈に巣くった。

昭和三年は、日蓮大聖人の法脈において、善と悪がその動きを活発にしはじめた年でもある。法華経においては、善悪一如、邪正一如、逆即是順となる。日蓮大聖人の法脈において、時を一つにして善悪がともに勢いをいっそう盛んにしていったことに、御本仏日蓮大聖人の大慈大悲を感ずる。

この日蓮大聖人の法脈に忍び込んだ大悪・日顕は、六十数年後に僣聖増上慢と化し、仏意仏勅の団体である創価学会の大善を際立たせる。

日蓮大聖人曰く。

「仏と提婆とは身と影のごとし生生にはなれず」(開目抄)

【通解】仏と大悪の提婆達多とは身と影のように生生世世、いつも一体となって世に出現し離れることがない。

いずれが仏か提婆かは、いずれが広宣流布を進め、法華経の故に難を受けたかによって明白となる。

いわずと知れたことだが、広宣流布の流れを根本的に阻もうとする日顕らが提婆の一門である。これから先、仏罰をこうむり業因業果の理を身をもって示す。それを現していくのは、仏子らの容赦のない破折である。

それでは、昭和三年以降における、難から逃げる宗門の“信心”の歴史と、日蓮大聖人の仏法を高らかに掲げ、いかなる迫害をも恐れず死身弘法をおこなった創価学会の信心の歴史とを、それぞれ年を追って概略を説明しておきたい。

その歴史は、次に紹介する日蓮大聖人の御金言に、そのまま収斂される。

「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり」(佐渡御書)

【通解】畜生の心は弱い者を威し強い者を恐れる。今の世の諸宗の学者等は畜生のようである。智者が弱い立場であるのを侮り、邪まな王法を恐れる。諛臣(こびへつらう家臣、臣下)というのは、こういう者をいうのである。強敵を倒して、はじめて力ある士と知ることができる。悪王が正法を滅亡させようとする時、邪法の僧等がこの悪王に味方して、智者を滅ぼそうとする時、師子王のような心を持つ者が必ず仏になることができる。たとえば、日蓮のようにである。こう言うのは傲った気持ちからではなく、正法が滅することを惜しむ心が強いからである。傲れる者は強敵にあうと必ず恐怖の心が生まれてくるものである。

国家権力の圧力に屈した宗門は畜生であり、獄中にあっても信仰を捨てず、国家諫暁をおこなった創価学会の牧口、戸田両会長は師子王である。

昭和四年九月、日開は遠忌局を設置し、供養した者に曼荼羅などを授与することを規定している。すなわち千円以上寄付した者に「賞与大漫荼羅及永代尊*号」、五十円以上寄付した者には「大漫荼羅」、二十円以上寄付した者には「尊*号」、二十円以下の者には「賞状」を授与することを、宗内に布告した。

この遠忌局は、来る昭和六年の宗祖日蓮大聖人第六百五十遠忌を執行するために設置されたものだが、その手始めに曼荼羅、尊号をもって金集めを計ったのである。

日蓮大聖人曰く。

「受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし」(松野殿御返事)

【通解】受けがたい人身を得て、たまたま出家した者でも、仏法を学び謗法の者を責めないで、いたずらに享楽にふけり遊び戯れ雑談のみして明かし暮らす者は、法師の皮を着た畜生である。法師という名を借りて、世間を渡り、身を養っていても、法師としての意義は何一つない。法師という名字を盗んだ盗人である。恥ずべきことであり、恐るべきことである。

日蓮大聖人の遠忌を口実に御本尊を売って金を集め、邪淫と遊興の糧とする日開は、法盗人にして畜生である。

同じ昭和四年の二月、創価教育学会の牧口、戸田両会長によって牧口会長の学説を「創価教育学」と名づけるなどの動きが見られた。九月には牧口会長が、小冊子『小学校長登用試験制度論』を著した。

社会的には、同年十月二十四日、ニューヨークの株式市場において大暴落が起こり、これより世界恐慌が始まる。

昭和五年五月、戸田会長は『推理式指導算術』を発刊、ベストセラーとなった。同年十一月十八日、『創価教育学体系』第一巻を発刊。発行元は創価教育学会。後に創価学会は、この日をもって創価学会創立の日と定めた。

昭和六年、この年は日蓮正宗が邪宗教との詐親を、さらに深めた年である。その責任は、ひとえに“法主”である日開に帰する。

十月九日から十七日までは、日蓮大聖人第六百五十遠忌大法会が大石寺でおこなわれた。これより先、日開は身延山に“立正大師”の勅額が天皇より降賜されることについて同意の旨を、文部省に文書で提出した。

日開の提出した文は、他の邪宗の者らと同様で以下のとおり。

「     念  書

宗祖*立正大師六百五十遠忌ニ際シ御廟所在地山梨縣身延山久遠寺住職岡田日歸ヨリ及請願候立正大師勅額御下賜ノ件ハ本宗(派)ニ於テモ異議無之候條速ニ御下賜有之候樣取計相成度候也

 昭和六年 月 日
宗(派)管長      印

  文部大臣 田中隆三殿」

日開は邪宗日蓮宗に与同し身延より離山された日興上人の謗法厳戒の精神を踏みにじった。この日開という“法主”、日興上人がいかなる思いをもって離山されたかについて、思いを致すことができない無信心者なのである。

日興上人曰く。

「身延沢を罷り出で候事、面目なさ、本意なさ申し尽し難く候へども、打還し案じ候へば、いづくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候へ。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候へば、本意忘るること無く候」(原殿御返事)

【通解】師匠の付属を受けた身延の沢を退出することは恥ずかしいことであり、私の本望でなく万感が胸に去来して忍び難いところであるが、繰り返し繰り返しいろいろと考えてみると、いずれの場所においても大聖人の仏法を正しく承継して、天下に正法を樹立することこそ肝心である。しかし、現状を考えてみると、五老僧たちは皆、師匠の大聖人に敵対している。そのため、私(日興)一人大聖人の正義(法)を深く承知して、広宣流布に挺身する覚悟であり、大聖人の正意を忘れることは少しもない。

しかし、日蓮正宗が謗法に染まっていく中で、新しい僧俗の関係もでき始めた。七月頃から歓喜寮の堀米泰榮住職(後の第六十五世日淳上人)と牧口会長の親交が始まる。

同年九月十八日、満州事変勃発。翌七年一月二十八日には上海事変が勃発した。

昭和七年三月三十一日、牧口会長は教職を離れた。離職の背景には、信心を貫く牧口会長に対する当局の迫害があった。五月、牧口会長を折伏した直達講講頭の三谷素啓氏、死去。同講世話人であった牧口会長、山峰淳氏、奥音吉氏などが牧口宅にて直達講の今後について相談し、解散を決定した。

同月十五日には五・一五事件が起き、六月には特別高等警察部が警視庁に設置された。軍部が中国大陸への侵略を進めるに従い、国家権力は国民に対する統制をいよいよ厳しくする。

昭和八年二月四日には長野県の教員が赤化事件で一斉検挙され、三月二十七日には日本は国際連盟を脱退した。この脱退にあたり日開は、

「本宗々徒タルモノ宜シク 聖旨ヲ奉戴シ 佛祖*遺訓ノ宗義ニ基キ堅實ナル信念ヲ振作シ奉公ノ赤誠ヲ抽ンデ勇往邁進 不撓不屈専ラ時艱ノ匡救ニ努メ進ミテ國運ノ進展ニ貢献シ以テ聖恩ニ奉酬センコトヲ旃レ勉メラルベシ」(昭和八年四月八日付「訓第貮拾號」より一部抜粋)

と訓諭した。

十一月一日、小笠原慈聞が日蓮正宗同心倶楽部結成。同月十日には同倶楽部の開場式がおこなわれた。この倶楽部が、日蓮正宗を内部攪乱する拠点となるのである。

この昭和八年における創価教育学会の活動は、時習学館で月一回、堀米住職を迎え法華経講義を開催するなど、地道な展開を見せている。

昭和九年二月十一日、小笠原は月刊誌『世界之日蓮』を発行。小笠原は同誌を武器に、日蓮正宗の正義を根絶し、みずからの野望を達成しようとする。いよいよ、師子身中の虫が露骨な動きを見せ始めたのである。

だが、日蓮正宗の僧らは小笠原の奸策と毒舌を恐れ、小笠原の行動に対し、当たらずさわらずの対応をした。その優柔不断さが、先々において日蓮正宗総体を窮地におとしいれることとなる。

日蓮大聖人曰く。

「涅槃経に云く『若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり』云云、此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(曾谷殿御返事)

【通解】涅槃経には「もし善比丘がいて、仏法を破る者を見て、それを放置して、非を厳しく追及(呵責)もせず、追い払い(駈遣)もせず、はっきりと罪過をあげて糾明し処断(挙処)しなければ、まさにこの人は仏法の中の怨であると知るべきである。もしよく駈遣し、呵責し、挙処するならば、この人が我が弟子であり、真の声聞である」と説かれている。

この文の中にある「法を破る者を見て」の「見」と「置いて呵責せず」の「置」とをよくよく心肝に染めるべきである。法華経の敵を見ながら、そのままにして置いて責めなければ、師も檀那もともに無間地獄に堕ちることは疑いない。

六月二十日、戸田会長、日本小学館(後に日本正学館と改める)を設立。

昭和十年、創価教育学会の活動は、いよいよ組織的な活動を開始する。「創価教育学会々則要項」が『創価教育学会体系梗概』に掲載され、総則、事業、集会、組織が明らかにされた。同学会に研究部が設置され、所長に牧口会長、常務理事に戸田会長が就任。

六月十一日、水谷日隆上人が第六十一代“法主”となった。十二月八日には大本教に対する第二次弾圧がおこなわれた。大本教は翌十一年には京都府亀岡と綾部にあった神殿を柱一本残さず破壊された。この大本教への弾圧をテコに、国家権力は宗教団体への干渉を強める。

昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起き社会は騒然とする。三月二十九日、昭和三年の選挙で日開と“猊座”を争った有元廣賀が死亡。この有元の死去により、欠員となった日蓮正宗布教監に小笠原が就任した。

『世界之日蓮』を発行し、国家神道の下に日蓮大聖人の仏法を置くことを喧伝していた小笠原の行動に対し、当時の日蓮正宗中枢は何らの警戒感も持っていなかったようである。

日蓮大聖人曰く。

「辛きことを蓼の葉に習い臭きことを溷厠に忘る」(立正安国論)

【通解】辛い蓼の葉ばかり食べている虫は、その辛さを知らない。また、臭い便所の中に長くいる虫も、その臭いがわからなくなってしまうものだ。

創価教育学会は、この年(昭和十一年)から夏季講習会を実施している。晴れの第一回夏季講習会は、八月十三日から十六日まで大石寺でおこなわれ、牧口会長ら九人が参加した。

昭和十二年七月七日には蘆溝橋事件が勃発し、日本は中国大陸へ進攻を開始する。十二月二十三日には日本軍は南京を占領した。

この年、創価教育学会は一月二十七日に東京・品川で座談会をおこなったが、このとき、会員名簿が作られ約百人の名が連ねられた。七月には第二回の夏季講習会が大石寺でおこなわれた。

十一月三日、日恭が第六十二代の“法主”となった。第六十一代の水谷日隆上人は病弱ということで、わずか二年余で退座した(筆者注 日隆上人は妾を囲っていたなどのスキャンダルを暴かれ、宗内大混乱の内紛で退座を余儀なくされたことが本稿執筆後に判明している)。この日隆上人が亡くなったのは、戦後の昭和二十二年三月のことであった。この間、昭和二十年六月十七日、日恭は焼死するが、皮肉なことに第六十三世日満上人への相承は病弱を理由に退座していた日隆上人によってなされている。

日恭登座の昭和十二年、国家権力による宗教弾圧は容赦のないものとなり、四月五日に「ひとのみち教団」への一斉検挙、十月二十日には「新興仏教青年同盟」への一斉検挙がおこなわれた。

次々と国家権力による宗教団体への弾圧がつづく世相を見て、日恭はなにを考えていたのであろうか。うまく立ち回れば、国家神道の悪酒に酔いしれた権力者の狂刃から免れることができると考えていたのだろうか。

残念ながら、登座後の日恭や、それに追随する日蓮正宗のほとんどの者たちは、“法華経の行者”としての絶対的確信に立てず、我が身の安寧のためにたやすく国家権力に屈服し、法義を曲げていくのである。

それは、日蓮大聖人の弟子として、もっとも恥ずべきことであった。

「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(教行証御書)

【通解】日蓮の弟子等は臆病であってはならない。

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