報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十九章 菩薩ぼさつ涌出ゆじゅつ

地涌オリジナル風ロゴ

第691号

発行日:1993年8月24日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

腐敗堕落の極みに達した宗門の姿と地獄のような世相は
“本化国主”たる“地涌の菩薩”が出現する予兆であった
〈仏勅シリーズ・第5回〉

日蓮大聖人御入滅後、五老僧たちは日蓮大聖人の顕された御真筆の御本尊をたちまちに軽んじ、御本尊で死人を覆って葬ったり、御本尊を売ったりした者も現れた。そのため、御真筆の御本尊の多くを失ってしまった。

日興上人は、この五老僧たちによる師敵対の行為に対し強い憤りを持たれ、それを「富士一跡門徒存知の事」に記すと同時に、自門流に対して以下のように厳しく教誡された。

「此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し」(富士一跡門徒存知の事)

【通解】この日蓮大聖人の御図顕の御本尊は、一閻浮提(全世界)にいまだ流布せず、正法・像法・末法にいまだ弘通していない本尊である。したがって、日興の門下で御本尊を所持している者は、簡単に子孫に譲ったり、弟子等に付属してはならない。同じ所に御安置して六人が一同にお護り申し上げるべきである。ただひたすら、広宣流布の時に、正法を受持した本化国主(上行菩薩を棟梁とする地涌の菩薩)からお尋ねがあるときまで、深く敬い尊重していくべきである。

ここにある「本化国主」とは、本化の菩薩すなわち上行菩薩を棟梁とする地涌の菩薩を指し、それらの地涌の菩薩が「国主」として未来に出現することを予期し、そのときまで御本仏日蓮大聖人御真筆の御本尊をしっかり護っていくよう、日興上人は誡めておられるのである。

広宣流布の時を期して示されたこの教誡こそ、末法の御本仏日蓮大聖人より付嘱を受けられた日興上人に連なる僧分が固く守っていかなければならないことである。

「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

 弘安五年壬午九月 日             日 蓮 在 御 判 

血脈の次第 日蓮日興」

【通解】日蓮が生涯に弘通した法を、白蓮阿闍梨日興に相承する。本門の弘通の大導師となるべきである。国主がこの法(南無妙法蓮華経)を用いるならば、富士山に本門寺の戒壇を建立されるべきである。その時を待つべきである。事の戒法とはこのことである。とりわけ、我が門弟等はこの状を守るべきである。

この「身延相承書」にも明記されているように、国主がこの法を立て本門寺の戒壇を建立される日まで、“時を待つべき”ことが、宗祖日蓮大聖人から第二祖日興上人への付嘱の要とされていた。

というのも、時来れば「国主」すなわち上行菩薩を棟梁とする地涌の菩薩たちが出現するという仏法上甚深の約束事があったからである。

「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(観心本尊抄)

【通解】まさに知るべし、この四菩薩は折伏を現ずるときには賢王となって武力をもって愚王を責め誡め、摂受を行ずるときは聖僧となって正法を弘持するのである。

代々の大石寺貫首たちは、日蓮大聖人の説かれた法、顕された御本尊を、在家として出現する本化国主たる地涌の菩薩到来の日まで厳しく護り伝える使命を、宗開両祖より与えられているのである。

換言すれば、これは広宣流布の時来れば、広宣流布の主体を担う地涌の菩薩の在家集団が出現することを示している。したがって、日顕宗の輩もかりそめにも日興門流を名乗るのであれば、出家は在家より偉いなどという仏説の本義にもとるような妄説をたくましくすべきではない。

「日興遺誡置文」にある最後の条目に眼を開くべきである。

「巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫す可き事」

【通解】難問答(法論)に巧みな行者に対しては、先師・日蓮大聖人と同じように珍重する(大事にする)べきである。

閻浮提広宣流布に向けて、折伏戦を巧みに進展させる指導者を「賞翫」する気持ちが大石寺貫首や僧にあれば、地涌の菩薩到来の時を違えることもあるまい。

日興上人が二十六カ条の御遺誡を定められたのも、本化国主到来の時、すなわち法華経に示されたように地涌の菩薩が末法の世に雲集して出現し、閻浮提広布を実現せん日を期してのことであった。

それは、日興上人が御遺誡置文の前文の末尾に、「随つて後学の為に条目を筆端に染むる事、偏に広宣流布の金言を仰がんが為なり」と、明らかにされているとおりである。

このように、末法の御本仏日蓮大聖人および血脈付法の弟子・日興上人は、後につづく弟子たちに令法久住を託したのだが、託された末代の門弟たちの中には、宗開両祖の御遺命に違背する者たちが多々いた。

以下に、大石寺の腐敗と衰微が象徴的に現れた歴史的事実を略記する。なお、この史実を略記するのは、日興門流が腐敗のきわみに達したとき、“地涌の菩薩”がその胎動を始めたことを証明したいからだ。

大石寺の歴史は、“富士の清流”などととりたてて自慢するほどのものではないのである。

第三祖日目上人の跡目を争い、第四世日道上人と日郷との間で大石寺内の勢力を二分する深刻な対立が起きた。日郷は、建武二(一三三五)年に万年救護の本尊や御影像などを持って大石寺を出て、現在の千葉県保田に妙本寺を開いた。日道上人と日郷の争いは、両者の死後も後継者によってつづけられ、七十数年にわたった。

第九世日有上人の時代には、大石寺の留守居役の高僧三人が結託し、大石寺を丸ごと売り渡した。帰山した日有上人は、その事実を知ってあわてて銭二十貫(一説には銭三十数貫)で買い戻した。

第十二世日鎮上人、第十三世日院上人は、それぞれ十四歳、十歳で大石寺貫首の座についている。これは、当時、貫首の地位が形式化していたことを示しており、さらには、大石寺に人材が枯渇していたことも示している。

これを見ても、貫首の座を継承する者に絶大なる仏意が働いているとすることがウソであることは明白である。大石寺貫首も末法の世の乱れを反映し、浮世の移ろいのまま栄枯盛衰を現じているのである。

この稚児貫首が現れた室町時代、大石寺は片田舎の一山寺にすぎず、衰微の度も激しいものがあった。

安土・桃山時代から江戸時代にかけて、京都の要法寺から約百年、九代にわたり大石寺貫首となるべき人が大石寺に来た。第十五世日昌上人などは、三十二歳で大石寺に来て、三十四歳で登座した。貫首の座(猊座)を空席にしないために、苦心惨憺している様子がうかがわれる。

要法寺から来た大石寺貫首のうち、とりわけ第十七世日精が大石寺に要法寺流の邪義を持ち込んだ。日精は「法華経一部読誦」「釈迦仏造立」などの邪義をかまえた。

この日精の邪義を大石寺から根絶するため、第二十六世日寛上人は『末法相応抄』を著された。『末法相応抄』は、要法寺の広蔵院日辰を破することを表として書かれているが、その内実は日精が大石寺に浸透させた邪義を絶滅することにあった。

『末法相応抄』の「上」の冒頭には、「問う、末法初心の行者に一経の読誦を許すや否や。答う、許すべからざるなり、将に此の義を明かさんとするに、初めに文理を立て、次に外難を遮す」と根幹部分が示されており、「下」の冒頭にも、「問う、末法蓮祖の門弟、色相荘厳の仏像を造立して本尊と為すべきや。答う、然るべからざるなり。将に此の義を明かさんとするに、且く三門に約す」と明記され、以下それぞれ論が進められ完膚なきまでの破折が加えられている。

“中興の祖”日寛上人の出現がなければ、大石寺は要法寺流の邪義を払拭することが不可能だったにちがいない。

現在、日顕宗では登座後の日精には過ちがなかったとしているが、日精の邪義と日寛上人の教学は並び立たないことを知るべきである。

さて、日寛上人の一代前の第二十五世日宥上人は、焼失した三門を再建するため徳川幕府から大木七十本の供養を受けた。大石寺は寛永十八(一六四一)年に幕府から「朱印」を供養としてもらうことを了承している。

大石寺は信仰していない者から謗施を受けていたのである。三門再建にあたり、大木七十本を幕府からもらい受けたのは、謗施に慣れ親しんだが故である。

日蓮大聖人曰く。

「世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり」(御講聞書)

【通解】世間の法とは、国王や大臣から所領を賜り、官位を授けられても、そのことに染められず、謗法から供養を受けないことを「世間の法に染まらず」というのである。

大石寺は、宗祖の教えに背き命脈を保っていたのだ。

第五十一世日英上人の時代には、大石寺は金貸し業をしていたことが、伊豆・韮山の代官所に提出された大石寺の文書によって確認されている。

当時、日本の寺社の多くは金貸し業をしていた。農民などに金を貸し、不作などで金が返せないときは田畑を取り上げ、その田畑を小作人に貸しつけ年貢米を納めさせていた。寺社は公権力を頼み強引な取り立てをしていたが、大石寺もその例外ではなかった。

宗祖日蓮大聖人の大慈大悲はうかがうべくもなく、大石寺は弱者である農民などから金を絞り取り、金が取れなければ代官にすがり、果ては田畑を取り上げ、自分たちは貴族然とした生活をしていた。

時代は下るが、敗戦後の農地解放まで大石寺は広大な田畑を有していた。その多くは、金貸しをして農民などから取り上げた土地である。また、戦前の大石寺大坊の対面所には、“法主”と信徒とを隔てる“御簾”があった。

そこで、“法主”が信徒を謁見したが、“法主”は“御簾”越しに信徒と話をした。天子を擬するこの姿は、宗教者としての腐敗の極致といえる。

話を元に戻そう。江戸時代が終わろうとしていた元治二(一八六五)年二月二十八日大石寺は大火にみまわれ、客殿、六壺、大坊などを焼失した。第五十三世日盛上人の代のことであるが、同上人はこの大火の後、意気消沈して姿をくらましてしまった。そのため、隠尊の第五十一世日英上人が留守を預かった。

日蓮大聖人曰く。

「国王已にやけぬ知んぬ日本国の果報のつくるしるしなり」(王舎城事)

【通解】ところが今度の大火では王の御所が焼けた。これは日本国の果報が尽きる前兆である。

大石寺、なかんずく大坊が焼けたのは、大石寺貫首の運が尽きた兆しといえる。この福徳もない大石寺貫首のいたことを忘れ、“法主”は日蓮大聖人と同じ境界にあるなどという日顕宗の輩は、仏の御威光に影を作ろうとするものである。

この後、明治の時代になり、明治五年に出された太政官通達により僧の妻帯が許された。僧に妻帯を許したのは、それによって、仏教界の腐敗を醸成し神道を優位に導こうとする神道勢力の高等戦術であるという説すらあるのだから、この政策により真実、仏教界が腐敗堕落したことがうかがえる。廃仏毀釈の懐柔版といったところか。

大石寺の一門も、簡単に僧の妻帯を受け入れた。江戸時代においては、女犯の罪を犯した坊主は晒し者にされ遠島の刑などに処せられたが、明治の時代になって僧の妻帯は自由となったのだ。

日蓮大聖人曰く。

「世末になりて候へば妻子を帯して候・比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり」(四恩抄)

【通解】世が末になったので、妻子を持っている僧も人の帰依を受け、魚や鳥を食べる僧でも人の帰依を受けるのだろうか。だが、日蓮はそうした妻子を持たず、魚や鳥をも食べず、ただ法華経を弘めようとする失によって、妻子を持たずして犯僧の名が国中に満ち、螻や蟻さえも殺さないのに悪名が天下にはびこってしまった。

この日蓮大聖人の遺風は、大石寺においては見る影もなく踏みにじられた。僧は剃髪をしているだけで、その他は在家と何も変わりなく、妻帯し、鳥、魚、牛を食らい美食に溺れ、禿人と化していった。

さらに、妻帯することで血族を形成し、一族で宗門を隴断する者が出始める。その悪弊は、今日の日顕宗に如実に現れている。

第五十五世日布上人の代には、高僧の中で五重塔の銅瓦を売り飛ばし、寺内で酒盛りをする者もいた。日布上人みずからも、国柱会幹部に戒壇の大御本尊様を御開扉させるなどした。この日布上人の行動は、本化国主到来の日まで大御本尊様を固く護り抜くという、大石寺貫首本来の使命を忘れた行動である。

大正時代に入り、第五十七世日正は大正十年の宗祖日蓮大聖人御聖誕七百年を記念して、日蓮宗身延派や顕本法華宗など邪宗と合同し、天皇に大師号降賜の請願をした。

この結果、大正十一年十月十三日、天皇より日蓮大聖人に「立正大師」という号が下された。この大師号降賜を記念し、東京・築地の水交社で日蓮宗身延派管長・磯野日筵を導師として勤行をしたが、その席に日正も参列し導師に随った。

日蓮大聖人曰く。

「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(種種御振舞御書)

【通解】日蓮を用いたとしても悪く敬うならば必ず国が亡びるのである。

翌大正十二年、首都・東京は関東大震災という未曾有の大震災により潰滅的打撃を受けた。

大正時代、大石寺の秩序は乱れに乱れていた。大正十四年秋から翌年春にかけて、第五十八世日柱上人を引きずり降ろすクーデターが起きた。クーデターの黒幕は、後に第六十世の“法主”となる日開である。

勤行中の日柱上人を銃声に擬した音をさせるなどして脅し、何とか退座させようとしたり、強迫まがいのことが次々とおこなわれた。

このクーデター騒ぎは、政府当局の介入でやっと仲裁され、第五十九世“法主”を選挙で選出することになった。選挙結果は日柱上人にとって惨憺たるもので、得票はわずか三票しかなかった。

日柱上人はやむなく“法主”の座を降り大石寺を去ったが、日柱上人が大石寺を去るとき、反日柱上人派の者の中には石をもって追った者までいた。

なお、日柱上人を退座させたクーデター派には、後の第六十世日開、第六十一世日隆上人、第六十四世日昇上人などがいた。その“法主”らを師僧と仰ぐ者らが現在、“法主”への“信伏随従”が日蓮正宗の本義と主張していることは片腹痛い。

それにつけても、次期“法主”を定めるのに政府当局の介入を仰いだことは、日蓮大聖人の末流としてあってはならないことであった。

以上、大石寺の大正時代までの歴史を追った。

昭和に入ってからは、日開がサボタージュの糸を引き、第五十九世日亨上人の法務を頓挫させ、ついに念願の第六十世の“法王”となる。昭和三年のことである。

さかのぼれば、日開は第五十七世日正上人から第五十八世日柱上人への代替わりのときから猊座を狙って策謀していた。このため、このときの相承は在家の信者を仲介におこなわれた。

日開は“法主”になる前、常泉寺の下働きの女性に子供を生ませながら、隠し子としておき認知しなかった。“聖僧”の体面を繕っておきたかったのだろう。

だがこの日開、“法主”となるとすぐ子供を認知した。認知された子供が日顕である。日顕は、日開の子供として昭和三年八月に得度している。

これらの歴史を見るとき、大石寺の歴史を“富士の清流”と、とりたてて自慢することが、いかに史実に反することであるかを知ることができる。邪宗顔負けの腐敗、堕落、そして内紛である。

日顕宗の者の中には、七百年“法主”がつづいていたことに、よほどの仏意があったかのように錯覚している者もいるが、京都や奈良には千年以上途絶えることなく、“座主”や“法主”“門跡”“住持”“住職”がつづけている古刹はいくらでもある。

何も七百年の歴史は自慢にはあたらない。まして、その歴史が汚辱に満ちたものであれば、なおさらである。

日蓮大聖人は「開目抄」において、妙楽の弟子であるといわれる智度法師の『東春』の「即是出家の処に一切の悪人を摂す」との文を引用されているが、大正時代から昭和にかけて、日蓮正宗はまさにその様相を呈していた。名聞名利から“猊座”につきたいと思う者が、権謀術数の限りを尽くして“猊座”を争ったのである。そこには涅槃経に説かれた、

「我れ涅槃の後乃至正法滅して後像法の中に当に比丘有るべし持律に似像して少かに経典を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養す袈裟を服ると雖も猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現わし内には貪嫉を懐かん唖法を受けたる婆羅門等の如く実に沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」

【通解】私が入滅の後、正法時代を過ぎて像法の時代においてこのような出家の比丘があるであろう。外面だけは戒律を持っているかのように振る舞い、わずかばかりの経文を読誦し、飲食をむさぼり、その身を長養している。袈裟を着ているとはいえ、布施を狙うさまは、猟師が獲物を狙って細目に見て静かに近づいていくようなものであり、また、猫が鼠を狙っているようなものである。しかも、つねに自分は見思の惑を断じて阿羅漢果を証得したと言っているであろう。外にはあたかも聖者のように賢く、善業をなすようにみせかけ、内面には貪りとねたみを懐き、法門のことについては答えられず、インドの婆羅門の修行である唖法(人に向かってものを言わず、ついに唖のごとく黙りこんでしまう)の修行を積んだ婆羅門たちのように黙りこくっている。本当の出家の仏弟子ではないのに僧侶の姿をして、邪見が強盛で正法を誹謗するであろう。

との末法の悪比丘らの姿が認められるだけである。日蓮大聖人の末流たる大石寺の僧たちもまた“末世の悪比丘”の例外ではなかったのだ。

第四世日道上人の代には、早くも大石寺を二分する争いが起き、第九世日有上人の時代には大石寺が丸ごと売られ、第十二世、第十三世は稚児貫首を立て、第十五世から九代にわたり要法寺から貫首となる人間を迎えた。

第二十六世日寛上人により宗風は刷新されたが、それ以降の堕落やみがたく、明治の妻帯の時代になって腐敗は加速され、大正になって大石寺の腐敗、堕落、混乱は頂点に達した。

日蓮大聖人曰く。

「釈迦如来は後五百歳と記し給ひ正像二千年をば法華経流布の時とは仰せられず、天台大師は『後の五百歳遠く妙道に沾わん』と未来に譲り、伝教大師は『正像稍過ぎ巳つて末法 太だ近きに有り』等と書き給いて、像法の末は未だ法華経流布の時ならずと我と時を嫌ひ給ふ、されば・をしはかるに地涌千界の大菩薩は釈迦・多宝・十方の諸仏の御譲り御約束を空く黙止て・はてさせ給うべきか」(呵責謗法滅罪抄)

【通解】釈迦如来は後の五百歳と記され、正像二千年を法華経流布の時とはいわれていない。天台大師は法華文句の一に「後の五百歳、すなわち末法の初めより遠く万年の外、未来永劫まで三大秘法が流布するであろう」と未来に妙法流布を譲られた。伝教大師は守護国界章に「正法・像法がほぼ過ぎおわって末法ははなはだ近くにある」等と書かれて、像法の末はいまだ法華経流布の時ではないと、自身から像法の時代を嫌われたのである。

それゆえ推し量ってみると、地涌千界の大菩薩は、釈迦・多宝・十方の諸仏のお護りとお約束を空しくそのままに捨ておいて、果てさせるつもりなのだろうか。

明治、大正から昭和に至る大石寺の様子を見るかぎり、釈迦、天台、伝教の予言も空しいものとして映りすらする。それも、この大石寺が日蓮大聖人の末流であれば、なおさらのことである。

しかし、仏眼から見れば、大悪は大善の来る瑞相である。関東大震災で潰滅した首都の姿や戦争に向かってひた走る世情、そして戒壇の大御本尊様を取り囲む“法滅の妖怪”たちの跳梁も、大善の来る兆しなのである。

日蓮大聖人曰く。

「大事には少瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか、普賢菩薩の来るには大地を六種にうごかせり、事多しといへども・しげきゆへにとどむ、又又申すべし」(大悪大善御書)

【通解】大事の起こる前には小さな瑞相はない。大悪が起これば必ず大善がくる。すでに大謗法が国に充満しているのであるから、大正法は必ず弘まるであろう。おのおのは何を嘆くことがあろうか。迦葉尊者でなくても、舞を舞うべきところである。舎利弗でなくても、立って踊るべきところである。上行菩薩が大地から涌出したときには、踊り出られたのである。普賢菩薩がこの土に来たときには、大地を六種に動かしたのである。申し上げたいことは多くあるけれども、多繁のためこれでとどめておく。またまた申し上げる。

この御聖訓どおり、この闇の深まる日本において、人類の光明ともいえる“地涌の菩薩”の胎動が始まる。

昭和三年、牧口常三郎創価学会初代会長と戸田城聖第二代会長が日蓮正宗に縁し、日蓮大聖人の仏法を信ずるに至った。同じこの年の一月二日、池田大作第三代会長が誕生した。

この昭和三年を画して“本化の菩薩”である“地涌の菩薩”の戦いが展開される。それは、広宣流布実現を約して登場する仏意仏勅の団体・創価学会が出現する、確かな兆しでもあった。この牧口、戸田会長の発心に始まる創価学会の歩みが、日蓮大聖人の仏語を現実のものとしていくのである。

日蓮大聖人曰く。

「我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり、然りと雖も日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈大悪人に非ずや」(顕仏未来記)

【通解】我が言葉は、大慢に似ているように聞こえるかもしれないが、それは、仏の未来記をたすけ、如来の実語を顕わすためである。それゆえに日本国中において、日蓮を除いてほかに誰人を選び出して法華経の行者ということができようか。あなたはこの法華経の行者である日蓮を誹謗しようとして、仏の未来記を虚妄にするものである。まさに大悪人ではないか。

〈参考資料〉 ◎四世日道上人

南北朝時代の建武二(一三三五)年頃より、日郷(保田妙本寺開山)との間で蓮蔵坊を中心とする土地所有の紛争が起きた。この紛争は二人の死後も、その後継者らによって七十余年もつづき、大石寺は疲弊した(第123号詳述)。

◎九世日有上人
室町時代、大石寺の留守居役の三人の高僧(代官)が大石寺を売り払い、六年もの間、大石寺は謗法の山と化した(第122号、第123号詳述)。

◎九世日有上人、十二世日鎮上人、十三世日院上人、十四世日主上人

室町時代のこれらの貫首は、稚児貫首と呼ばれた。九世日有上人は十八歳、十二世日鎮上人は十四歳、十三世日院上人は十歳、十四世日主上人は十九歳で相承を受けている(第500号詳述)。

◎十五世日昌上人、十六世日就上人、十七世日精、十八世日盈上人、十九世日舜上人、二十世日典上人、二十一世日忍上人、二十二世日俊上人、二十三世日啓上人

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての約百年間、九代にわたり京都・要法寺出身の僧が大石寺の貫首についた(第124号、第125号詳述)。

◎十七世日精

要法寺出身の日精は、「法華経一部読誦」「釈迦仏造立」などの邪義を構えた。

また、戒壇の大御本尊様を御影堂に安置するなど御遺誡に違背した(第126号、第127号詳述)。

寛永十八(一六四一)年、大石寺は幕府から六十六石八斗五升の朱印状をもらう。謗施「不受」の大聖人の教法に違背した(第388号詳述)。

◎十八世日盈上人

寛永十二(一六三五)年十月十二日、大石寺は全焼した(第232号詳述)。

◎二十世日典上人

寛文五(一六六五)年、大石寺は公儀に「受派」であるとの証文を差し出した(第388号詳述)。

◎二十五世日宥上人

正徳二(一七一二)年、六代将軍徳川家宣のとき、寺社奉行を通じて幕府天領内の大木七十本もらい受け、天英院より三百両をもらい三門の再建にあてた(第232号詳述)。

◎五十一世日英上人

天保九(一八三八)年、大石寺は伊豆・韮山の代官に大石寺が農民に貸し付けた金を取り立てて欲しいと嘆願書を出した(第571号詳述)。

◎五十三世日盛上人

元治二(一八六五)年二月二十八日、大石寺は火事になり客殿、六壺、大坊が焼失。この火事の翌日、日盛上人は隠遁し、その後、誰にも相承をせず行方不明となった。

◎五十五世日布上人

明治時代、日布上人を言葉巧みにだまして五重塔の銅瓦を売り払い、その金を着服し、塔中に酒樽を並べて酒盛りをしていた悪比丘がいた(第234号詳述)。

日布上人は、国柱会幹部や未入信の宗教学者に対し、大御本尊様の御開扉をした(第355号詳述)。

◎五十七世日正

大正十年、大聖人の御聖誕七百年を祝して飛行機、自動車での宣伝、邪宗の者との提灯行列などの迷行事がおこなわれた(第238号詳述)。

大正十一年九月十一日、日正は「立正大師」号の請願書に署名。同年十月十三日には大師号の宣下を受けるため、邪宗日蓮宗の僧らと宮内省に参省し記念撮影に納まった。その後、日蓮宗管長の導師のもと読経唱題をした。

大正十二年八月、日正は療養先の興津で、当時、大学頭であった日柱上人へ相承をしようとした。だが、猊座を狙って画策していた日開の妨害により、日柱上人への相承を在家の者二名に託した(第316号詳述)。

◎五十八世日柱上人

大正十四年十一月二十日、時の日蓮正宗宗会は、日柱上人の不信任、管長辞職勧告の決議をし日柱上人を辞職に追い込む。その後、旧管長派と新管長派で宗内は大混乱を呈す。その背後には阿部法運(のちの日開)が暗躍していた(第240号~第245号詳述)。

◎六十世日開

大正十四年、稚拙な論文で他宗の笑い者になり総務職をはずされる(第308号詳述)。

日開は、みずからが発行責任者だった宗門機関誌『白蓮華』に「ダルマ」「織物御本尊」「祈*祷呪術本」などの謗法広告を載せた(第235号~第237号詳述)。

昭和二年、五十九世日亨上人を辞任に追い込み、後の猊座をめぐり有元廣賀との醜い選挙戦を展開(第347号、第348号詳述)。

昭和三年、登座直後、御本尊を誤写した(第353号詳述)。

昭和六年、「立正」の勅額降賜の念書に署名した(第409号)。

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