報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

九章 破門はもん空言くうげん

地涌オリジナル風ロゴ

第315号

発行日:1991年11月11日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

創価学会出現以前の大石寺は末世の悪比丘の巣窟であった
生真面目な日亨上人は宗内の協力もなく孤立無援となった
〈法難シリーズ・第32回〉

先号につづき日亨上人が退座の意を披瀝された「告白」(昭和二年十一月記述)について学ぶ。「第三、管長辞任の素因」と章題のつけられた箇所について。ここで日亨上人は、自分が管長(法主)を辞職する原因として「内的」なものと、「外的」なものがあると述べられている。

「内的」な辞職原因としては、次のようなことを挙げられている。

自分の個性に適した新行動をとっても、宗内にある従来の慣習と合わず、そのために宗内の人間関係がギクシャクしている。自分の理想や個性とも合致しない生活は、体調を壊し、原因不明の病気を頻発する。もし、ここで倒れるようなことになれば、宗内のためにもならず、厄介者として生涯を終えることになってしまう。二十~三十年来の願業としてきた御書編纂などの聖業も無に帰すことになる。それでは、死んでも死にきれない――と。

概略このように日亨上人は記されている。「告白」の原文は以下のとおり。

「内的の方から云えば、已に第一に言明せる如く管長たる事を欲せざる、其適当せざる性格であるから、仮に個性に適したる新行動を取りたるも何となくツリアイが善くない。従来の習慣と相応せぬ自他上下シックリせぬ釣り合わぬは不縁の基と云う語が此に当る。此が抑の原因である。始めから一年二年と永い事は持たぬ、否持てぬのが当然である。理想にも個性にもハマラぬ生活は、色心二法を束縛する、不快にする、四大の調和を失する、従来曾てなき原因不明の病気を頻発する。若し此が為に倒るれば、宗門の為にもならず厄介物として終ることは明白であるのみならず、二三十年必死と念願せし編纂著作の聖業も泡沫と散り失する。如何にも死んでも死にきれぬ残念さである。此が先ず大々主因である」(「告白」)

日亨上人が宗門刷新のために「新行動」をとっても、宗内の多くの者がそれに反発してついてこなかったようだ。日亨上人は、かなり精神的不快を感じられていたようだ。日亨上人としては、自分に不釣り合いの猊座にいるより、御書編纂などの「編纂著作の聖業」をされたかったのである。

広宣流布という目的意識を持って宗政に臨まれ、実に真摯な行躰をもって日常生活を営まれていた日亨上人に、誰も信伏随従などしなかったものと見受けられる。

阿部法運ら宗内の実力者は、総本山第五十八世日柱上人を猊座より引きずり降ろすため、日亨上人の生真面目さを利用したにすぎなかった。宗内総ぐるみで日柱上人をうまく退座させたいまとなってみれば、後継となった日亨上人の存在すら邪魔となってきたのだ。

宗内実力者たちが、なにかにつけて日亨上人のなされ方に反発したことは、この「告白」の文から充分にうかがえる。日亨上人の心労は限界に達していたのだった。

日亨上人は、退座するに至るみずからの「内的」要因を、このように開陳されたあと、「外的」な退座要因を六項目にわたって示されている。今号は紙面の都合上、その「一」「二」項目に言及する。「三」から「六」は、次号以降に譲る。

日亨上人は、辞任原因となった「外的境遇」の第一番目として、「一、監督の官憲に圧制せられて、大正十四年十二月に旧例に無き管長候補者選挙を為した事が、如何にも忍ぶ能わざる屈辱なる事」と記されている。同様の記述は、この章の書き出しにも見られる。

「自分が求めた訳でもなく、願った訳でないが、成り行きと云いながらともかく多数の僧分が警察沙汰にまで屈辱を受けた外に種々の汚名を着せられ、其外百般の苦悩を忍んだ」(同)

大正十四年十一月の日蓮正宗宗会は、時の法主であった日柱上人に対して、「不信任」の決議をし、衆議の威迫をもって退座を迫った。このクーデターの首謀者は、阿部法運(のちの第六十世日開上人)らであった。阿部法運はこの年の七月、日柱上人より総務の任を解かれ、僧階を落とされたことを恨んでのことだった。

阿部法運らクーデター派は、宗会での決議以外にも、日柱上人に対してさまざまな圧力をかけた。日柱上人が本堂で丑寅勤行中に、ピストルのような爆発音をさせて威したり、屋根瓦に石を投げたりしたのである。それ以外にも、記録として残されていないさまざまな脅迫がおこなわれたことだろう。

大正十四年十一月に始まった日蓮正宗の内紛は、マスコミなどで大々的に報道されることとなった。当時の新聞報道の見出しだけを拾っても、その騒動のけたたましさがうかがえる。

「評議員會が排斥して 不信任の決議に土屋管長辭職 評議員會の出やうに依つては檀家總代から留任運動開始」(大正十四年十一月二十六日付『静岡民友新聞』)

「日蓮宗富士派本山の 大石寺紛擾事件 益々拡大の模樣 檀家代表者宗教局訪問」(大正十四年十一月二十八日付『同』)

「土屋管長に強要した 不信任決議と 辭職勸告を撤回 排斥運動の中心たる評議員會の總務等下村局長に嚴訓」(大正十四年十二月三日付『同』)

「檀家總代立會を拒絶 大石寺新管長の事務引繼不能 土屋氏擁護派運動深刻」(大正十四年十二月十日付『同』)

「血で血を洗ふ 醜爭益々擴大 默視が出來ぬと檀家も奮起 醜爭は他宗の物笑ひ」(大正十五年二月三日付『同』)

「勝つた僧侶等 突如取調べらる 大石寺管長選挙のあとで」(大正十五年二月十九日付『同』)

先日、法主・阿部日顕と総監・藤本日潤が創価学会側に送りつけてきた「創価学会解散勧告書」に、「本宗七百年の清浄な宗風に泥を塗り、また本宗の社会的信用に大きく傷を付け」というくだりがあったが、なにをかいわんやである。

こうした日柱上人引きずり降ろしの末を見ると、よくそんなことが言えるものだと思わざるをえない。まして、日顕の父・阿部法運が、僧侶でありながら隠し子をつくって登座していた一件などは、日蓮正宗の宗風に適っているというのだろうか。

日蓮正宗が、現在のような立派な外観を保てるところまで興隆してきたのは、創価学会のおかげだということを肝に銘ずべきである。

話は少しそれたが、大正十四年十一月から続いた日蓮正宗の内紛を見るに見かねた文部省宗教局が、宗内選挙によって次の法主を選ぶよう行政介入する。法主の選定に、国家権力の介入をみたのである。

そして、クーデター派が選挙で勝利し、祝宴をあげていた大正十五年二月十七日、大宮署(現在の富士宮署)が大石寺に踏み込み、日柱上人への脅迫の容疑でクーデター派僧侶に対する取り調べを始めた。

そのとき、新法主となった日亨上人も大宮署に呼び出され、取り調べを受けた。そのほかにも、その後の日蓮正宗の中枢となる僧らが、みな調べられたのだ。それも、法主上人を退座させるにあたり脅迫をおこなったという容疑だった(本紙第245号に詳述)。

日亨上人は、「告白」の中で「大正十四年十二月に旧例に無き管長候補者選挙を為した」と記されているが、正しくは管長選挙がおこなわれたのは大正十五年二月である。いずれにしても、次期法主の選挙が「官憲に圧制」させられておこなわれたことが、日亨上人にとって「忍ぶ能わざる屈辱」だったのだ。

それは、国家権力の介入による選挙を経て法主の座についた、自分自身の否定にもつながることだった。みずからを「中継法主」と何度となく称されていることは、この認識からくるものと思われる。

「告白」は続けて、次のようにみずからの相承に論及されている。

「二、一時の中継法主であれば、御相承の大礼などは強いて行うにも及ばざるべきを、多方面の希望にまかせて官憲の口入まで受けて不快なる型式を襲踏した事は、仮令対者の所為にして当方は受身であったにもせよ、拭うべからざる汚点なる事」(「告白」)

これがまた、飾らない日亨上人の面目躍如たる記述である。

大正十五年三月七日の「御相承の大礼」(相承の儀式)を、「不快なる型式」に基づいておこなったことが、自分にとって拭うことのできない汚点となったと述べられている。

そして、日亨上人が「御相承の大礼」を踏まえなければならなかったのは、「多方面の希望」と「官憲の口入」によるものであったと明記されている。「多方面の希望」とは、宗内僧俗の有力者たちのことであろう。また「官憲の口入」とは、文部省宗教局の介入である。

これらの関係者は、「御相承の大礼」を一件落着の儀式として大々的におこないたかったことと思われる。それに対して日亨上人は、事件を収拾するための一方策として官憲が相承の儀式を演出することに、癒しがたい屈辱感を味わわれたのであろう。

だが、現実は日亨上人の意志に反して進められ、三月七日午前十時より総本山大石寺客殿において相承の会式を挙行、午後一時に終了。午後二時より酒宴となった。三月八日午前零時より一時にかけて、血脈相承の儀式がとりおこなわれた。

大正十四年末から十五年春まで続いた日蓮正宗の内紛により、少数派として孤立した日柱上人派と多数派として野合していた阿部派、有元派などとの対立は、日亨上人選出後においても実に深刻なものがあった。

日柱上人は、一切の相承を済ませて総本山大石寺を去られたが、そのとき、山を降りられる御隠尊猊下の日柱上人に対して、石を投げつけた僧までいたという。石を投げつけたとされる僧の名は、現実に宗内に伝えられている。

創価学会出現以前の富士大石寺は、末世の悪比丘たちの巣窟と化していたのだ。

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