報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十七章 師弟してい倶生ぐしょう

単行本「『地涌』からの通信(28)」おわりに

"自由"の名をもって人を差別し
"自由"を旗印にして人々を迫害する

数年前までは国を挙げてバブル経済の美酒に酔いしれていたが、今日になって美酒が毒酒であったことに慌てている。経済を昂揚させていた底に潜んでいたものは、人を仮初の享楽に沈める際限のない人間の欲望だったのだろうか。繁栄が新たな転落への助走であったという皮肉は、どこにでもある。

戦後、日本国民は敗戦によって“自由”を得た。だが、その前章として、南海の孤島に餓死し、東海にあって水漬く屍となり、西方の大陸に骸を晒し、北方の凍土に骨肉を凍らせた人々がいる。その人々の死を無価値にしないためにも、戦後日本に自制ある“自由”を打ち立てるべきであった。ところが、人間の本性は奔放にしてとどまることがなく、幾千万の犠牲をもって得た“自由”の上にあぐらをかき、“自由”の名をもって人を差別し、“自由”を旗印にして人々を迫害し支配しようとさえする。

経済の“自由”はバブルを生み、経済システムという幻影が非情な弱肉強食を正当化する。政治活動、結社の“自由”は汚職と恐喝を掩蔽し、黒い金の蓄財を可能にする。報道の“自由”は人権を蝕み、マスコミ人のはた迷惑な“正義”を粉飾する。信教の“自由”にあっては、狂乱する“法主”の存在を可能にし、信徒なき寺が宗教法人の装いをもって法的に擁護される矛盾を生んでいる。

バブル崩壊による日本経済の破綻は、敗戦によって求めずして得た“自由”に対し、日本人が自制の心をもって臨まなければならない時が来たことを示しているようだ。

それにつけても、昨今の一部マスコミのわがもの顔はいかがなものだろうか。まして、それが創価学会を報道対象として選ぶとき、善を隠し悪を作出し、恐喝犯すら正義の人とする。悪意に満ちた報道記事は虚構の社会悪を創出し、虚構の記事から飛び出したタイトルが新聞広告や電車の中吊り広告を媒体にして無差別に人々の目に飛び込み、創価学会への差別とテロルをおこなっている。虚構の記事の作成から広告媒体を利用してのテロルに至るまでの流れには、人間の底知れぬ悪意が横たわっている。

日本国において善悪が分別されず、人の目に正邪が弁えて映らぬさまは、日蓮大聖人御在世当時と同じである。

仏法に顕然の如く、正師を侮り正教を謗ずれば世は乱れる。片時の繁栄は将来の衰微の伏線であり、一握りの人々の栄華は他の多くの人々の貧困であり飢餓である。

この無情を感ずることもなく、他者に同苦することもなく、己の行き着く先が死であることも忘れ、寸時の享楽に身を任す。三毒に翻弄されていることを“自由”と錯覚し、五欲を満たすことを生命の充足と取り違える。

人間の正しき生き方を求める人々を嘲る者たちは、無常の濁流に飲まれ生死の苦境を彷徨う者にほかならない。正師につき正法を学ぶ仏弟子は、無常を離れ生死を超克するものである。それを成就するための起動は師弟の絆に発源する。この師弟の絆が世に具現し、人的広がりをもったものが和合僧団である。和合僧団の求心力は、師を慕い仏法を究めようとする弟子たちの求道心に依る。弟子たちの師を求め崇める心が強ければ強いほど、和合僧団の団結力は強まり、和合僧団は金剛不壊となる。

「若し仏法の真偽をしる人あらば尋ねて師とすべし求めて崇むべし」(聖愚問答抄)

このことを自己の即身成仏のため、仏国土建設のために実行しているのが、創価学会員である。師弟は三世不変にして、末法の御本仏日蓮大聖人の“信心の血脈”は創価学会に流れる。

1994年3月

家族友人葬のパイオニア報恩社