報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十七章 師弟してい倶生ぐしょう

単行本「『地涌』からの通信(24)」おわりに

「権」をもって支配し信徒より「施」を受け続ける
坊主にとって“功徳聚”たる御本尊すら「道具」にすぎない

衆生より「施」を取り続け、衆生を支配する「権」を永久に確保するために、悪比丘らは「法」を独占することを欲し、南無妙法蓮華経を流布しようとしない。

「金・権」を求める宗教屋らは、末法の御本仏日蓮大聖人が衆生のために残された“功徳聚”たる御本尊すら、自己の欲望を満足させるための「道具」に使う。

御本尊を下附しないばかりか、戒壇の大御本尊様さえ添書登山の謀略に利用し、仏意仏勅の和合僧団である創価学会破壊の「道具」として使った。

日蓮大聖人曰く。

「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(報恩抄)

この御本仏の大慈大悲の流れを、貪瞋癡の三毒の堰で止めようとしているのが、僣聖増上慢の日顕である。

日顕には、日蓮大聖人の大慈大悲を具現化するため広宣流布を達成しようなどという、弟子としての自覚はさらさらない。自己の感情に支配され、気にくわなければ仏子らが広宣流布実現のために営々と築き上げてきたものであっても、瞬時に無に帰そうとするのである。

日顕は南無妙法蓮華経を口にはするけれども、おこなっているところは南無妙法蓮華経の真反対、無慈悲そのものである。その無慈悲さは、一千万人の信徒の“破門”という仏教史上未曾有の暴挙に象徴されている。日顕は自己の感情に平伏しない者には、“魂の虐殺”をもって応えるのである。日顕は、人に臨むに慈悲をもって臨まず、恐怖と暴虐をもって臨む。

現代における真実の正師善師は、御本仏日蓮大聖人の心を帯し、よく南無妙法蓮華経を弘め御本尊を流布する指導者である。創価学会三代にわたる会長は、南無妙法蓮華経を弘め御本尊を流布したがために法難に逢った。

三代の会長は、咎なき咎でいずれも入獄し、いずれも宗門より「登山止め」「信徒除名」の処分にされた。それに引き比べ宗門は、日蓮大聖人の法に依らず、自己保身のみでものごとを判断してきた。宗門は強き国家権力を恐れ、弱き信徒をいじめ犠牲にしてきたのである。

創価学会と宗門が関わった六十有余年の歴史は、そのことを教えている。宗門は法を弘めず魔と戦わず法難を回避し、創価学会は障魔とまっこうから戦い法を弘めてきた。

「但唯以一大事因縁の妙法蓮華経を説く師を正師善師とは申す可きなり、然るに日蓮末法の初の五百年に生を日域に受け如来の記文の如く三類の強敵を蒙り種種の災難に相値つて身命を惜まずして南無妙法蓮華経と唱え候は正師か邪師か能能御思惟之有る可く候」(最蓮房御返事)

創価学会と宗門と、その歴史をふり返れば、いずれが正か邪かはあまりに明白である。であれば、正師善師も明らかとなる。創価学会の三代にわたる会長はまぎれもなく正師善師であり、法も説かず御本尊も下附せず、難にも逢わない日顕は邪師悪師である。

そもそも“親教”と称して、ドイツ語で話しているような誰にもわからない話をして、供養をかき集め、“親教”当夜に温泉旅館で御大尽気分にひたっているような堕落坊主・日顕に、障魔など競うはずがない。

ただ日蓮大聖人の仰せの如く、南無妙法蓮華経を弘め御本尊を流布する創価学会の師弟にこそ、障魔が競う。

師と共に障魔と戦い、師弟の契りを金剛不壊のものにすることこそ、今生の最大事である。それでこそ成仏も可能となる。

「実に無始曠劫の契約・常与師倶*生の理ならば・日蓮・今度成仏せんに貴辺豈相離れて悪趣に堕在したもう可きや」(同)

師・弟子は三世にわたり常恒である。

1993年6月

家族友人葬のパイオニア報恩社