報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十六章 仏勅ぶっちょく顕然けんねん

地涌オリジナル風ロゴ

第885号

発行日:1995年10月30日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

法華経の行者である牧口、戸田両会長を迫害した日本国は
仏の教えの通りついに亡国の憂き目を見ることとなった
〈仏勅シリーズ・第16回〉

(本稿は、一九九三年十一月二十四日付の第710号からつづくものである)

日蓮大聖人曰く。

「此の国既に梵釈・日月・四天・大王等の諸天にも捨てられ守護の諸天善神も還つて大怨敵となり法華経守護の梵帝等・鄰国の聖人に仰せ付けて日本国を治罰し仏前の誓状を遂げんとおぼしめす事あり」(下山御消息)

【通解】(法華経の行者を迫害してきた)この国は、すでに梵天・帝釈・日月・四天・大王等の諸天善神にも捨てられ、日本国守護の諸天善神も、かえってこの国の大怨敵となり、法華経を守護する梵天・帝釈等が隣国の聖人に命じ、日本国を処罰して仏前の誓いを果たそうと思われているのである。

昭和二十年は日本が戦争に負けた年。誤れる宗教である国家神道に領導された日本軍国主義が、西欧列強の圧倒的物量の前に敗れ去った。

その一方で、この昭和二十年は創価学会が再建の歩みをはじめた年でもあった。敗戦が間近に迫った七月三日、戸田城外創価教育学会理事長(のちの戸田城聖創価学会第二代会長)が東京・豊多摩刑務所より出獄した。

創価学会による民衆救済の偉大なる長征は、戸田会長による焦土への第一歩よりはじまる。

ではまず、この年の戦況に触れておこう。

一月九日、米軍がフィリピンに上陸。かつて昭和十七年三月、日本軍の攻撃を前にしてマッカーサー元帥は、「アイ シャル リターン」の言葉を残し、フィリピンのコレヒドール島を去った。それから二年十カ月にして、米軍は戦略的重要拠点を再び確保したのである。

この四日後の同月十三日、東海地方に大地震が起き、死者は約一千九百人を数えた。敗戦濃厚な戦況下にあっての大地震である、人々はどれほど動揺したであろうか。

三月十日には、B29重爆撃機約三百二十五機(筆者注=この機数は米側の発表、大本営発表では百三十機)が東京に来襲し、おもに高性能焼夷弾千七百トンによる攻撃をおこなった。

いわゆる東京大空襲であるが、このため下町を中心に東京の約四割が焼失した。罹災者約百万人。死者約十万人余(筆者注 当時の警視庁の発表によれば死者八万三千七百九十三人とある)。

同月二十七日、硫黄島において日本軍二万三千人余が玉砕した。大本営は戦略もなきまま、徴兵した国民を死へ追いやっていく。

四月一日、米軍が沖縄本島に上陸。

同十三日、東京の主に北部をB29が大空襲。罹災者約六十六万七千人。死者約二千五百人。

五月二十五日には、東京の山の手方面への大空襲がおこなわれた。罹災者約六十二万人。死者約三千七百人。

これらのB29による大空襲により、東京はまったくの焦土と化してしまった。この首都の様相を具に見れば、これ以上の戦闘が日本国民にとって無益であることは明らかであった。

だが、それでも国家神道に毒された日本軍国主義の指導者らは、神風が吹くことを信じ、決して戦争をやめようとしなかったのである。

六月六日、宮中でおこなわれた御前会議で「本土決戦」が決定された。日本本土に上陸してきた連合軍に対し、国民を総動員して玉砕戦を挑もうとしたのである。いわゆる一億玉砕の決定であるが、これも国家神道の感化によるところが大きい。

天皇すなわち現人神に神民たる日本国民が、こぞって殉死することが当然と考えられ、国家の最高会議で一億玉砕の決定が下されたのである。

このころ、沖縄では民間人を巻き込んでの凄惨な戦闘がおこなわれていた。四月に沖縄本島西海岸の嘉手納海岸に約五万人をもって上陸をはじめた米国陸軍および海兵隊は、その後、数を増し、最終的には約十八万三千人が上陸したという。

対する日本軍は、第三十二軍の二個師団半にあたる約七万五千人、それに十七歳から四十五歳までの沖縄県民男子約一万七千人が県民義勇隊として加わった。

日本軍は四月八日と五月三日に総攻撃をするが大敗、五月十六日には首里を放棄し、島南部に落ちのびていった。この間、日本軍は米軍に対し、肉弾戦術を繰り返し、米軍も嘉数では毒ガスを使用した。

島の南部・島尻地区には三十万人をこえる沖縄県民が逃げてきた日本軍ともどもひしめきあい、戦闘の犠牲となった。

沖縄タイムズ社編『鉄の暴風』には、六月中頃の旧真壁村のある壕に逃げてきたひとりの女性の話を伝えている。

「彼女の話しによると三歳になる男の子を抱え、今まで字真壁の壕にいたが、敵が近くにきたというので、慌てふためく親たちの騒ぎに彼女の子供を始め三、四歳の三名の子供たちが、一度に泣き喚いた。その時三名の敗残兵が、子供を泣かすな、敵に知られるぞと怒声を発し、日本刀や、銃剣を突きつけて、壕の近くにあった池に、『子供を抛りこめ』と脅され、親達は泣く泣く、子供たちを池にほうり込んだ。這い上ろうとする子供は、頭を押さえつけて溺死させた。怖ろしい話であるが、壕の人は誰も女の話を嘘だとは思わなかった」(沖縄タイムズ社編『鉄の暴風』)

沖縄においては、日本軍が沖縄県民(主に老人、婦女子)を隠れている洞窟より追い出し自分たちが隠れる、あるいは県民を睥睨し、洞窟内で横暴の限りを尽くし、果ては、このように敵に見つからぬために泣く赤ん坊を殺させるなどといった非道を随所でおこなったのであった。皇軍のなれの果ての姿であった。

その一方で、沖縄県民の献身的な行動が光った。よく知られる「ひめゆり学徒隊」は、師範女子部と第一高女の生徒二百名によって編成され、陸軍病院に配属され、傷病兵の看護にあたった。沖縄戦の最後には、島の最南端にある摩文仁の洞穴にいた。

「洞穴を利用した壕舎に患者と女生徒、そして一般人が閉じこめられ、米軍の砲弾にさらされて一歩も外に出られない、しかも、それは軍から見放されている、という非道な事態であった。

海岸に接近した米軍の舟艇からは『泳いでおいで――』と投降勧告の放送が聞こえる。前線突破、脱出も試みたがすべて失敗、二十二日には全員討死の覚悟を決めた。

担任の教師は『もうだめだ、女子師範と一高女の生徒はみなひとかたまりになって、岩に各自の名前を刻んでから死のう。そうすれば、後の世の人が私たちをいつかはとむらってくれるだろう、姫百合学舎の名はいつまでも伝えられるだろう』と言った」(沖縄タイムズ社編『鉄の暴風』)

沖縄では戦闘員のみならず、老人婦女子におよぶ非戦闘員がおびただしく死んでいった。全体戦争の悲劇がそこにあった。

六月二十三日、軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が、ともに摩文仁の海に面した断崖絶壁にある洞窟で自刃して果てた。軍と義勇隊の死者約十万人、非戦闘員の死者もまた約十万人(筆者注 約十五万人という説もある)を数えた。この沖縄の悲劇は、明日の本土の姿でもあった。

首都東京が灰燼に帰し、沖縄で日本軍が大敗し、沖縄は連合軍の支配下に置かれた。連合軍の日本本土への上陸は間近に迫っていた。飢えと不安の中で日本国民は一様に悲痛な決意をし、我が身の死を予感していた。

戸田城聖第二代会長が出獄した七月三日は、このようなときであった。出獄した戸田会長は、牧口会長の遺志を継ぎ民衆救済の大情熱に燃えていた。

しかし、本稿では出獄した後の戸田会長の足跡に触れる前に、時間を遡り、この昭和二十年初頭からの獄中における戸田会長の動静を獄中書簡などによりたどってみたい。

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