報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十五章 物怪もっけ自縛じばく

地涌オリジナル風ロゴ

第879号

発行日:1995年9月12日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

新客殿建設に大義があるなら一宗を挙げて堂々と遷座せよ
唐突な計画発表と抜き打ち遷座の裏にある魂胆とはなにか

九月十一日午前、大客殿に安置されていた日興上人の御座替御本尊が、新しく仮客殿とされた大講堂に遷座された。したがって、十二日からの丑寅勤行は仮客殿となった大講堂でおこなわれ、これまで丑寅勤行のおこなわれていた大客殿は、さっそく取り壊されることとなる。

新しい客殿の建設計画が宗内に発表されたのは、先月(八月)二十三日の全国教師講習会でのことであった。このとき、宗務院の者すらこの建設計画を知らず、あまりに唐突な計画発表に、講習会参加の教師たちは皆が皆、驚いた。

それから十九日目、全国から末寺住職を集めしめやかな遷座式をおこなうこともなく、ただそそくさと慌ただしく遷座がなされたのであった。

現在の大客殿を取り壊すことについては、宗内の者ほとんどが反対である。

たとえば、能化の高野日海は最近、日顕に直接、

「大客殿の取り壊しをやめて欲しい」

と申し込んだという。この高野の意見具申に対し、日顕は顔色を変えて怒ったそうである。妙縁寺住職・光久諦顯も、

「いったい、どうなっているんだ」

と、しきりにボヤいているということである。高野、光久にしてこのような有り様だから、宗内の多くの者は日顕への不満をタラタラと述べている。それらの声をまったく無視しての遷座の強行であった。

そもそも、今回の新客殿建設は、計画発表のときからおかしかった。八月二十三日の全国教師講習会の際、日顕の講義のあと大石寺主任理事の八木信瑩が新客殿建設の発表をおこなったが、この発表の直前、それまで講義を録音していた者に録音するのをやめるよう日顕は指示した。

どうして、わざわざテープ録音を止める必要があったのか。八木は地震対策上、大客殿の建て替えはやむを得ないと強調したが、その主張が真に科学的裏づけのあるものならば、あえて録音をやめさせる必要もなかっただろう。

宗内に事前に諮ることもなく、秘密主義で計画を進め、抜き打ち的に発表し、有無を言わせず強引に実行に移す。いつもながらの日顕のやり方である。

新しく造られる客殿は、八木の発表によれば和風の鉄骨鉄筋コンクリート造り二階建、屋根は入母屋造り銅板葺、延べ面積一千五百坪、二階に一千百五十畳の大広間が造られるという。

この新客殿の設計で注目に値するのは、信徒の出入口が建物の東と西の両側になるということである。すなわち、建物自体が南面しているので、信徒の出入りは建物の両端になるのだ。

正面(南側)の出入口は信徒には使わせないで、特別の人だけに限るというのである。現在の大客殿が信徒を権威・権力者と差別することなく、正面から出入りさせているのとは大変な違いである。

いうならば、現在の大客殿は法華経の平等思想を根幹にし設計されたものであり、新客殿は民衆を蔑視し、権威・権力者におもねることを設計の基本としている。新客殿は、日顕宗の差別観を具現化したものである。

大御本尊にお目通りすることを願求し登山してきた大御本尊の客分を、日顕宗の坊主らは、自分たちが単に取り継ぎの身であるにもかかわらず、まず客殿に案内するときから選りわけ差別しようというのである。

ともあれ、遷座は終わった。日顕の強権的姿勢の前に、宗内の声はまたも圧殺されたのである。

この遷座のおこなわれた日の前日(十日)、年老いた坊主が死んだ。先立っての教師講習会の折、新客殿建設計画を発表した大石寺主任理事・八木信瑩の養父・八木直道(享年九十八歳)である。

八木はかつて妙信講(現在の顕正会)の国立戒壇論に固執し、故・日達上人より擯斥処分にされた。この八木について故・日達上人は、つぎのように話されている。

「八木のごときは最近では、月一万円の衣鉢費がなければ食っていけない、などと泣きついておる始末です。まことに僧侶の風上におけぬはおろか、人間としてもどうかと思われるのであります。大ぜいの人で成り立っておる宗門において、一時の気まぐれや、わがままは許されません。かりそめにも法衣を身に付けていた者であれば、もっと正々堂々と男らしい出処進退を心がけてもらいたいものであります。

第一線で戦っておられるみなさんが確信をもって行動ができますよう、以上のごとく私の胸中をお話しました。元妙信講らは、何とかといえば暴力をちらつかせ、正しいことを言って諫める者に対しては、集団で毎夜いやがらせに押しかけたり、個人攻撃をするということであります。大望を口にするにしては、まことにふさわしくない愚劣な手口でありますが、みなさまにおかれましては一歩も退くことなく、厳然と戦われんことを期待いたします」(『大日蓮』昭和五十年九月号)

故・日達上人は以上のように八木直道を酷評し、現在の顕正会である妙信講に対し戦うことを厳命されたのであった。

ところが日顕は、昭和六十年十二月八日付で八木直道を宗門に復帰させた。日顕は、故・日達上人のなされたことを、ことごとく殲滅したいのである。

故・日達上人の建てられた六壺、大化城などの建造物はすでに壊し、いままた大客殿も破壊しようとしている。大坊も近いうちに改築されるもよう。教学上のことについても同様である。

日達上人の民衆立の戒壇論を否定し、国主立の戒壇論などという前代未聞の面妖な教義を持ち出し、顕正会の国立戒壇論に接近している。日顕は、つぎに現在の奉安殿や御宝蔵を壊し、新宝蔵を建て、戒壇の大御本尊を正本堂から遷座するとも噂されている。

その前後に予想されるのは、顕正会の宗門復帰である。だが、顕正会の宗門復帰はありえないと宗門人の多くは考えるだろう。しかし、考えられないことをするのが日顕である。日顕は独断でものごとを決し、秘密裡に計画を進めることを常道とする。

思えば、池田名誉会長の総講頭職よりの宗規変更にことよせた実質的罷免も唐突であったし、二百七十八本におよぶ桜の伐採、六壺、大化城、大客殿の破壊も思いがけないことであった。

正信会の復帰工作も意外であった。正信会側で反対の意見が噴出しなければ、同会の宗門復帰は実現していただろう。また、この件を含めた宗門に関わる重大問題を、犬猿の仲と思われていた山崎正友と内密に相談していたのも、大方の予想を超えた出来事であった。

日顕が、宗門人の考え及ばないことをどうしてここまでつぎつぎとなし得るのか。日顕の心の内に、故・日達上人や池田名誉会長への尋常ならざる妬みが宿っているからである。

この日顕の傾向性からすれば、顕正会の復帰は大いにあり得る。故・日達上人と池田名誉会長を憎む顕正会会長の浅井昭衞と日顕は共感し合えるからである。

大客殿から御本尊が遷座される前日、日顕によって顕正会より宗門復帰が許された八木直道が死んだ。

「新客殿建設は新御宝蔵建設につながり、顕正会復帰に道を開くものだ」

との噂が宗内に流れる今日この頃であるだけに、大客殿安置の御本尊の遷座前に顕正会から復帰した八木が死んだことは暗示的である。

家族友人葬のパイオニア報恩社