報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十五章 物怪もっけ自縛じばく

地涌オリジナル風ロゴ

第866号

発行日:1995年7月8日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日蓮宗坊主の参拝を大石寺内事部が許可し案内までしていた
この驚くべき事実が日蓮宗布教師會報に克明に綴られている

去る六月六日に、日蓮宗身延派の池上本門寺の坊主たちが大石寺を訪れ、日蓮正宗の僧によって歓待されていた――。このことは、謗法厳戒を信仰の根本にすえてきた本宗の僧俗を例外なく驚かせた。法華講幹部のなかには、

「そんなバカなことがあるはずがない。創価学会がデマを流しているんだ」

と聞く耳すら持たぬ者も多かった。

しかし日顕は、これまでの方針を大転換し、日蓮宗身延派と友好関係をあらためてつくっていこうという確固たる方針を持っているようである。

実は、日蓮宗身延派の坊主たちが大石寺を訪れたのは、本年六月六日が初めてではなかった。昨年十一月五日にも、日蓮宗身延派の代表が大石寺を「参拝」していたのだ。

この顛末は、日蓮宗身延派の「布教師會報」(第二十号)に「日蓮正宗総本山・大石寺研修参拝記」と題して掲載されている。同記事は、日蓮宗身延派の総本山である久遠寺内の志摩坊住職・佐藤順映が書いたものである。

それでは、日蓮宗身延派の坊主の書いた「大石寺研修参拝記」を文の流れにそって、かいつまんで紹介していきたい。

「平成六年度本会の布教研修会が昨秋十一月五日に実施され、参加者八名と少数だったが、充実した内容となった」

「本会」とは日蓮宗身延派の布教師会のこと。同派の正式機関である布教師会として、大石寺「参拝」を含めた「布教研修会」をおこなったのである。なお、筆者の佐藤は山梨県第一部布教師会長の責にある。

日蓮宗の坊主八名が大石寺を「参拝」した十一月五日は、創価学会青年部が東京ドームで五万人の大集会を開き、政治家と邪宗の野合組織である「四月会」による創価学会弾圧に抗議した日であった。

「参拝記」を書いた佐藤もそのことを意識しており、自分たちの大石寺「参拝」と創価学会青年部五万人の大集会の日が同日であることについて、

「何か因縁めいたものとなった」

と記している。

「参拝記」は、大石寺「参拝」を大石寺内事部に事前に通知し、あらかじめ承諾を得ておこなったことを明記している。

「本会の名において、大石寺参拝の申請願書を送付して二十日も過ぎてから、当局内事部の理事から応諾の電話を頂戴し、僣越ながら事のついでに阿部日顕法主猊下にお目通りを願ったが即座に拒絶された」

日蓮宗布教師会として、正式に大石寺「参拝」を書面をもって申請していたのである。すなわち、日蓮宗布教師会の代表八名は、たまたま予告もなしに大石寺を訪れ、山内を見学したわけではないのだ。

この日蓮宗を代表する者たちが、大石寺を「参拝」することの「応諾」を大石寺内事部理事が日蓮宗側に電話で伝えたということだが、大石寺の内事部理事は、主任理事の八木信瑩を含め、小川只道、石井信量、駒井専道、山崎慈昭、新井契道の六名しかいない。

もちろん、内事部理事の一人が勝手に判断し、日蓮宗側に「応諾」の電話を入れることなどありはしない。日顕が、日蓮宗身延派の坊主たちの大石寺「参拝」に許可を与えたことは、大石寺内事部の決裁のあり方を知る者なら誰しもが認めるところであろう。

さて、それでは大石寺「参拝」当日の模様はどうだったのだろうか。

「当日十時、身延山総門を出発し富士宮で早目の昼食を済ませ、先に大本山北山本門寺を参拝し、懇ろなる御開扉と執事の御挨拶を受けた後、開山日興聖人御廟等を巡拝し、予定の二時に大石寺総門に到着した」

八人の日蓮宗坊主が、どのような服装で総門に着いたかについては、同「参拝記」には記されていない。少し臨場感に欠け残念。

いよいよ総門から大石寺内へ。

「門をくぐると間もなく洋服姿の一人の青年が近づいて来て確認をとると先に進む様指示され、三門を通り両脇に十二ヶ坊程の宿坊の前を抜けた左手に唐破風造りの古風な鬼門を通ると、いきなり広大な広場と巨大な鉄筋五階建ての大客殿前に着いた。ここで若手の案内僧が出て来て内部へと導かれた」

日蓮宗坊主八人が、大石寺の僧の案内で大客殿内部に入ったのだそうだ。

つづいて、大客殿内部の様子が綴られている。

「総面積一万四百五十五平方メートルに及ぶだけに、かつて創価学会員が連日数千人単位で押し寄せた建物と感心した。三階から上が吹き抜けになっているが丑寅勤行の場所としても使われているだけに、板曼茶羅もどきの御本尊を真ん中に、左右に祖師像、興師像を安置し、本宗の内陣に当たる一段高い板敷きの部分には何もなく、左手の畳の上に導師用礼盤を中央に向け配置されており、大変疑問に思い質問した所“参詣の信徒が直接御本尊に面奉する為にある”と云う事であったが、我々の感覚とはなじまない感じであった」

「参拝記」は、大石寺境内の模様も伝えている。

「当日は土曜日にて各地の法華講○○支部という団体が二十名、三十名単位で六、七組境内を引率されていたが、往年の雑踏とは比較にならないであろう」

日蓮宗布教師会のメンバー八人は、大客殿内部を見学したあと、正本堂に案内されている。

「正本堂へと案内されたが三メートルもあろうかと思える頑強な塀が巡らされ、出入口には正装した門番が立ち、扉が開かれ一歩ふみ入れると噂にたがわぬ壮大な石とコンクリートの建物と広すぎる境内が現出した。全長南北三百二十四メートル、東西百四十八メートルと確かに大きく広大であるが、ここは一人の参拝者もなく一匹の犬も通らぬ全くの無人の有様で何か異様で堂内には入れて貰えなかったが閑散期とは云え一切の光熱設備等も稼働しておらず、パンフレットで誇る“今世紀最大の宗教建築”にしては開店休業のスポーツセンターの様な状態であった」

どうやら日蓮宗の者たちから見ても、大石寺は不気味なほどに閑散としていたようである。

日蓮宗布教師の佐藤は、この大石寺「参拝」を通して、大石寺の姿勢が変わったことをつぎのように記している。

「時の推移とは云え過去頑迷なまでに他宗には門戸を開かなかった大石寺が、堂内外の案内に応じたという変化を我々は機敏にとらえ、柔軟な姿勢に最大限の評価を下し、更に日蓮門下の一員と云う連帯感の醸成に陰に陽に働きかける絶好の機と思うが如何であろうか。

懇切なる案内をしてくれた教師から、ほどなく一通の礼状が届いた。

“皆様の暖かなお心に触れ、外はめっきり寒くなっていたにも拘わらず、暖かな気持ちで御案内申し上げることができましたことを感謝しております”と。察するに今置かれている大石寺の立場を鮮明に表しているものと理解するがうがち過ぎだろうか」

この日蓮宗の布教師八名を案内した僧の氏名は、「参拝記」のなかに明かされていない。大石寺の僧が日蓮宗の坊主たちを本山内に案内し、「感謝」しているようではどうにもならない。

日顕の狂乱により大石寺は乱れ、開祖日興上人の御遺誡は踏みにじられている。このありさまを知り、宗内の心ある人々はどのように感じるだろうか。

なお、この出来事を突発的な事件と見て、事の本質を見逃してはならない。本年六月二十四日、高知県南国市でおこなわれた国際正法協会の公開シンポジウム「日本の未来・心の道しるべ」において、山崎正友は、

「六月六日に御法主上人にお目通りし、ねんごろに懇談した。今後のことも種々語り合った」

とし、このなかで他宗派との関係について、大要つぎのように述べている。

「大石寺に日蓮宗の僧侶が見学に来た。謗法として追い返すようなことはせず、丁重に迎えた。与同罪と言わずに、もっと広く皆と一緒にやることが大事だ」

日蓮宗身延派と友好関係を保持することは、どうやら日顕と山崎正友の密談において意思が一致したようである。

日顕に宗祖日蓮大聖人、開祖日興上人の末流を名乗る資格はまったくない。日顕は、久遠寺の勅額降賜に手を貸した父・日開と同様、大石寺を身延山久遠寺の風下に立たせようとしている。

大石寺を身延の害毒で穢そうとしているのである。日顕は日開に血脈を継ぐ、父子一体の“法滅の妖怪”といえる。

日興上人曰く。

「身延沢を罷り出で候事、面目なさ、本意なさ申し尽し難く候へども、打還し案じ候へば、いづくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候へ。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候へば、本意忘るること無く候」(原殿御返事)

【通解】身延の沢をでなければならないことは面目ないことであり、また、私の本意でもなく、そのことについては筆舌につくしがたいけれども、振り返っていろいろと考えてみると、いずれの地においても大聖人の仏法を正しく継承して世に正法を立てることこそ肝心なことである。しかしながら、五老僧たちは、ことごとく日蓮大聖人に師敵対している。私ひとりが大聖人の正義を持って広宣流布を成し遂げる弟子に当たると思えば、大聖人の正意を忘れることは決してない。

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