報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十四章 権力けんりょく欺罔ぎもう

地涌オリジナル風ロゴ

第785号

発行日:1994年8月30日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日顕は仏と民衆を隔離し仏を独占して民衆支配を企てる
そのためには御書を切り文にして御本仏の心も平気で殺す

八月二十四日、二十五日の二日間にわたり大石寺において、「第四十三回全国教師講習会」がおこなわれた。この第一日目、午後二時三十分から、日顕がおよそ二時間五十分にわたり「講義」をした。

「講義」の内容は噴飯もの。一部は、本紙『地涌』(第784号、八月二十四日付)に反発しての話であった。

八月二十四日付の本紙『地涌』では、「あろうことか日顕が指導会で観心本尊抄を切り文にして同抄の元意に真っ向から反する大邪説を得意げに話した」と題し、「第一回全国講頭・副講頭指導会」における日顕の話を批判したのだが、日顕はそれを根に持ち、指導会と同趣旨のことを、この講習会でも再び強弁したのである。

“法主”たる立場もわきまえず、邪説と指摘されると、ことさらにムキになり、前言に固執し邪義を喧説するところは、まったく幼児的ですらある。日顕は単細胞で、押せばすぐ出るトコロテンといったところ。

同『地涌』は、日顕が「仏界計り現じ難し」(観心本尊抄)の御文を切り文にして、同抄の元意に逆らって衆生が成仏し難い依文としていることを批判した。この御文を再び利用して、日顕は講習会においてつぎのように述べた。

「一念、十界互具だから衆生も十界互具のはずじゃないか、仏だって十界互具のはずだと、でっ、仏は仏界即九界、こっちは九界即仏界にしても、全部、十界互具なんだから、そうじゃなきゃならないんだと、これは理屈ですよ。これは理論なんです。理論としてたしかに、九界、我々も十界互具しておるけれどもね。結局、この十界互具の○○○は、我々はわからんのですから。凡夫は。

それをわからしていただくのは、仏界を中心とした、仏界所具の九界のですね、意義における、この一念三千として、事の一念三千として現れたもう御本尊様である、大聖人様の大慈大悲によるんだから。とするならば、もうそれは当たり前の話でしょう。我々にも、理論的には十界互具ってことがね。

ただ、まー、『仏界計り現じ難し』ということを、あれほどに大聖人様が観心本尊抄で仰せになってる意義がわからない。そら、観心本尊抄を拝するともう、本当に仏界が現じるということは、あのー、難しいと」(筆者注 ○印は聞き取り不明。以下同様)

日顕が再び述べるなら、本紙『地涌』も再び破折する必要がある。「仏界計り現じ難し」との御文は、

「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く『衆生をして仏知見を開かしめんと欲す』涅槃経に云く『大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す』等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(観心本尊抄)

【通解】まったく他を顧みることのない悪人も、なお自分の妻子に対しては慈愛の念を持っているということは、人界に具えている菩薩界の一分である。ただ仏界ばかりは日常生活に現れがたいのである。しかし、すでに九界を具していることがわかった以上は、しいて仏界のあることを信じて疑ってはならない。法華経方便品に人間界を説いて言うには、「衆生をして仏の知見を開しめんと欲する故に諸仏世尊この世に出現し給うのである」と。この経文は、人界に仏界を具している証拠である。涅槃経には、「大乗を学ぶ者(現在では大御本尊を信じ奉る者)は物を見ている肉眼が、仏眼となるのである」と、人界に仏の知見があることをはっきり説かれている。末代の凡夫が人間と生まれてきて法華経を信ずるのは、人界にもともと仏界を具足しているから信ずることができるのである。

という御金言の中にある。文脈は明らかに、衆生に対し衆生の仏界の存在を確信させようというものである。衆生は仏界を具足するから法華経を信ずることができる、と仰せになっている。日顕は、この仏の意に反した主張をおこなっているのである。

さらに、日顕は観心本尊抄の結びにある、

「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う、四大菩薩の此の人を守護し給わんこと太公周公の文王を摂扶し四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり」(同)

【通解】一念三千を知らない末法の衆生に対して、久遠元初の御本仏は大慈悲を起こされ、妙法五字に一念三千の珠を包み独一本門の大御本尊として末代幼稚の首にかけさせ、また、四大菩薩がこの幼稚の衆生を守護することは、太公望や周公旦が文王に仕えてよく守護し、綺里季・東園公・夏黄公・かく*里先生の四人が恵帝に仕えたのと異ならないのである。

という同抄の元意に反して、己義を再び述べている。御本仏日蓮大聖人の大慈大悲に反し、なぜ信徒は仏界を現じ難い、成仏し難いと日顕は力説するのだろうか。答えは簡単である。

日顕は、仏を特別なものとして衆生から離し、自分のみが仏に近い存在となり、成仏したいのなら自分に従えと言いたいからである。

したがって日顕は、衆生の生命に仏界が厳然と存在する事実を、事実として直視せず、その仏説を「理論的」であるとして貶めているのである。

日蓮大聖人曰く。

「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に『如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり』と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶*体・倶*用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ」(諸法実相抄)

【通解】したがって、釈迦仏・多宝仏・の二仏といっても妙法蓮華経の法体がそなえている働き(用の仏)であり、妙法蓮華経こそ本仏であられるのである。法華経如来寿量品第十六に「如来秘密神通之力」と説かれているのはこのことである。「如来秘密」は体の三身であって本仏である。「神通之力」とは用の三身であって迹仏なのである。凡夫は体の三身であって本仏である。仏は用の三身であって迹仏である。

したがって、釈迦仏がわれら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っていたのであるが、そうではなく、かえって仏に三徳をこうむらせているのが凡夫なのである。そのゆえは、如来というのは天台大師の法華文句巻九下には、「如来とは十方三世の諸仏、真仏、応仏の二仏、法身・報身・応身の三身、本仏、迹仏の一切を通じて如来と号するのである」と判じられている。この釈に「本仏」というのは凡夫であり、「迹仏」というのは仏である、とある。

しかしながら、迷いと悟りの相違によって、衆生と仏との異なりがあり、このための衆生は、倶*体・倶*用ということを知らないのである。そのために、諸法と十界を取り上げて、それもすべて実相と現れると説かれているのである。

凡夫の己心に仏界が存することは、単に理論ではなく、日蓮大聖人の仏法における本質にかかわる事実であり、しかも仏は、凡夫たる衆生と不可分にして同一の実体なのである。

ところが、日顕はどうしても仏を衆生と切り離し、仏を“法主”の独占物としたいのである。断っておくが、仏は山寺の和尚の独占物でもなければ、シアトルの売春窟に横たわる東洋人の所有するものでもないのである。

だが、日顕はつぎのようにも言う。

「まったく仏界はね、現じ難いんだ。この現じ難い仏界を本当になにするのは、いわゆる本当の仏様が現れて、その仏様を正しく信ずるところに、我々の九界に、が仏界を成就できるわけですからね。したがって境智冥合なんです。境智冥合を忘れてだね、仏界涌現、仏界涌現っていうようなことを、こんなかでやってた人がいないかな。アハッ、いなきゃ、結構だが。おかしいんと思うんだね。うん」

「仏界涌現」と念ずることによって、仏界が涌現すると思っている創価学会員はいない。唱題の故に仏界は涌現するのである。ここで気になるのは、「仏界はね、現じ難いんだ」の一言であり、ほかの発言箇所でもそうだが、日顕が創価学会員が好んで使う「仏界涌現」という言葉を毛嫌いしていることである。

一切衆生が仏界を具することは、日蓮大聖人の仏法の根幹をなすものであり、御本仏の眼から見れば一切衆生即南無妙法蓮華経の全体である。このように日蓮大聖人が実相を教えられるのは、日顕の主張の逆で、どこまでも「一切衆生皆成仏道」を現実のものとしようとする慈悲に発する。

日顕がこの実相をひたすら隠そうとし、衆生に仏界を含めた十界が存することを「理論的」などということは、無慈悲の故である。

日蓮大聖人曰く。

「此の宝塔は宝浄世界より涌現するなり、其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり、蓮華の宝浄なれば十界の胎内悉く無垢清浄の世界なり、妙法の地輪なれば十界に亘るなり蓮華の地なれば清浄地なり、妙法の宝浄なれば我等が身体は清浄の宝塔なり妙法蓮華の涌出なれば十界の出胎の産門本来清浄の宝塔なり、法界の塔婆にして十法界即塔婆なり妙法の二仏なれば十界三千・皆境智の二仏なり、妙法の一座には三千の心性皆以て二尊の所座なり妙法蓮華二仏一座なれば不思議なり清浄なり、妙法蓮華の見なれば十界の衆生・三千の群類・皆自身の塔婆を見るなり、十界の不同なれども己が身を見るは三千具足の塔を見るなり己の心を見るは三千具足の仏を見るなり、分身とは父母より相続する分身の意なり、迷う時は流転の分身なり悟る時は果中の分身なり、さて分身の起る処を習うには地獄を習うなり、かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり云云」(御義口伝)

【通解】この宝塔は宝浄世界より涌現するのである。その宝浄世界の仏とは、経文の面にあらわれた意義はしばらくおいて、末法の観心の仏法から生命論に約してみるときは、宝浄世界とは母の胎内である。ゆえに、父母は宝塔を制作する大工である。宝塔とはわれら衆生の五輪・五大すなわち身体である。

したがって、われらの生命が宿る母の胎内を宝浄世界というのだから、胎内から出て誕生するのが宝塔涌現にあたる。およそ人間生命の涌現は地輪から出現する。ゆえに従地涌出というのである。

妙法の宝浄世界であるから、十界の衆生の胎内は、みな宝浄世界である。蓮華の宝浄世界であるから、十界の衆生の胎内は、ことごとく無垢清浄の世界である。また、衆生の涌現するところの地輪とは、妙法の地輪であるから十界すべてにわたるのであり、蓮華の地輪であるから清浄地である。妙法の宝浄であるから、そこから生じたわれらの身体は清浄の宝塔である。妙法蓮華の涌出であるから十界の衆生の誕生する産門は本来清浄の宝塔である。この、われわれ衆生の生命は法界の塔婆であり、地獄より仏界にいたる十法界が即塔婆である。また、宝塔に並座する釈迦・多宝の二仏は境智の二法をあらわす。妙法の二仏であるから、十界三千はみな境智の二仏となる。妙法の一座においては、森羅三千の衆生の心は、みな平等に釈迦・多宝の二尊が座する所となる。妙法蓮華の一座に二仏が同座するのであるから、不思議であり清浄である。

見宝塔品第十一の見とは妙法蓮華の見であるから、十界の衆生、三千の群類は皆、自身の塔婆を見るのである。十界おのおの異なっているけれども、己の身を見るときは三千具足の宝塔を見るのである。己の心を見るときは、三千具足の仏を見るのである。

分身の諸仏という分身とは、父母から受け継いだ分身との意である。九界の闇に迷うときは流転の分身であり、仏眼を開き悟るときは果中の分身である。さて、この分身の起こるところを学ぶには、地獄を学ぶべきである。

このような宝塔も妙法蓮華経の五字以外の何ものでもない。妙法蓮華経の観心の仏法に立つならば、宝塔とは一切衆生の生命であり、一切衆生は即、南無妙法蓮華経の全体なのである。

創価学会の池田名誉会長が民衆に語りかけ、わかりやすく仏法を説き、民衆の一人ひとりの中に仏界たる「宝塔」を「涌現」させようとするのは、御本仏日蓮大聖人の慈悲に随ってのことである。

この仏教史上稀有の大指導者によって、日蓮大聖人の仏法は見事に現代に蘇生し、世界一千万人の信徒は日蓮大聖人の仏弟子としての自覚に立ち、「宝塔」を胸中に「涌現」させ広宣流布に邁進している。

だが、この創価学会員の姿が日顕には気にくわない。世界の民衆が仏法に照らされ、歓喜していることが面白くないのである。仏界が、そこかしこの衆生の胸中に涌現していることが、不愉快なのである。その本質は、まさに魔以外のなにものでもない。

日顕は、全国教師講習会の「講義」の中で、つぎのように悪口雑言した。

「それで大聖人様は、とくにその筋道を厳格にお示しになっていらっしゃるのが、『諸経と法華経と難易の事』ですね。難信難解と易信易解と、諸経はことごとく易信易解、法華経が難信難解であるというね。

これはなぜかといえば、随自意、法華経は随自意、諸経は随他意である。つまり他意に随う、衆生の機根に応同し随って説くが故に随他意であるが故にまだ易信易解である、易いと。分かり易く解し易く、なんだ、信じ易く解し易いと。それで法華経の仏の意をもって自意に随うが故に難信難解である。やはり信じ難く解し難いのである、ということであります。

だから信者がね、わがまま言ってだね、なんだドイツ語みたいで難しくてわかんない。なに言ってやがんだ。なーっ! だって難しいの当たりめえなんだよ! ふざけんなって言いたい。易しく説きゃーいいなんてそんなもんじゃないんだ! ねーっ、仏法は。まー、あのねー、ミーちゃん、ハーちゃんにわかるようにペコペコよ、頭下げて説いてたら、本当の法なんか説けやしないんだ。だから、そんなものあれですね、あのー、民衆に必ずしも応同する必要はないんだ。

第一、法華経において民衆に応同しないのが、お釈迦様の法華経なんですよ。民衆に応同して大衆のためにっていうんで、いろんな機根について説いたのが爾前経であり、小乗経なんだからね。その一切を払拭して仏みずからの自意に随って説かれたのが法華経ですよ。迹門に対しては、また本門ですから。

ですから、このー、その意味ではね、民衆、民衆って言う奴ほどバカなんだ。大作がまったくそのとおりなんだよ。だから大作が言っていることが狂うのは、そこにあるんだ! これをもっと、みんなハッキリと考えてくれよ。ねっ。仏法は仏様の意が中心になるわけだから。大聖人様の三大秘法の場合は大聖人様のお意が三大秘法を拝する上で中心になきゃならん。大作の心が中心で、その大作の考えが、民衆、民衆って、民衆が一番大事なんです、ネヘッ。なにをふざけたことを言ってる。

だからほら、この『機に随つて法を説くと申すは大なる僻見なり』って御文にもあたるでしょう。ねっ。みんなこれは摧尊入卑なんだ。この摧尊入卑ということをみんなね、学会の連中たちに『おまえたちの仏法、摧尊入卑なんだ』、これ言ってやんなさい。

大作が第一、摧尊入卑だろ。君たちは第一、学会の連中のもとで、大作、『池田先生』なんて言うなよ、おい。『大作』で結構なんだ。『大作はこういうこと言ってんじゃないか。これ摧尊入卑だ』、もう言ってやりゃいいんだ。これをだね、『池田先生』なんてふうに言うなよ、まったく。ホントに。それこそまったくね、このなんて言うかね、『池田の小僧』で結構なんだよ。ホントに。エヘッ。

そりゃもうね、大聖人だってそうでしょ。『爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず』としてるんだからね。下民とも民とも、民だな、天子が民を見る場合、『民とも下し鬼畜ともなんどと下しても其の過有らんやと意を得て宗論すべし』とおっしゃってるでしょ。まっ、一つ高い気迫をもってだね、『何々先生』『何先生』そんなこと言わないで、宗教家としてどうも、少しどうも、あのなんていうんだね、まー、『池田先生』ぐらい言っといて、そして話をしたほうがいいと、そんな必要ないです、ちっとも、今になって。ねー。摧尊入卑は、卑慢の池田大作や、創価学会ほど甚だしいものはないんですから!」

もはや日顕は、つける薬がないほどに猛り狂っている。

日顕が感情を面に出すとき、日顕の本心があからさまとなる。日顕は民衆を馬鹿にし、愚弄し、蔑み、卑しんでいる。日顕には、民衆を救済しようとする気持ちはさらさらなく、ただ民衆の上に君臨することにのみ執着しているのである。

日顕は、日蓮大聖人の御書「諸経と法華経と難易の事」を口にしているが、これまた、この御書の文意を殺すもので、先の観心本尊抄の事例と同じである。

たしかに、同御書において日蓮大聖人は、

「日蓮読んで云く外道の経は易信易解・小乗経は難信難解・小乗経は易信易解・大日経等は難信難解・大日経等は易信易解・般若経は難信難解なり・般若と華厳と・華厳と涅槃と・涅槃と法華と・迹門と本門と・重重の難易あり」(諸経と法華経と難易の事)

【通解】しかるにいま日蓮が読むところは、外道の経は易信易解で、小乗経は難信難解である。小乗経は易信易解で大日経等は難信難解である。大日経等は易信易解で般若経は難信難解である。般若と華厳経(を相対すれば般若経が易信易解で華厳経は難信難解)、華厳経と涅槃経(を相対すれば華厳経が易信易解で涅槃経が難信難解)、涅槃経と法華経(を相対すれば涅槃経が易信易解で法華経が難信難解)、法華経迹門と法華経本門(を相対すれば法華経迹門が易信易解で法華経本門が難信難解)と、このように(諸経と法華経との間に)重々の難易があるのである。

と仰せになり、法華経がもっとも難信難解とされている。また法華経が随自意、他経が随他意ということも、同御書で仰せになっている。たしかに、日顕の言うとおりである。

ところが、この御書の元意は、日顕が猛り狂って声高に話す内容とは正反対、日蓮大聖人の弟子一同は、自然のうちに仏の智慧の海に流入すると仰せになっているのである。

つまり、日蓮大聖人が他経を随他意にして易信易解、法華経が随自意にして難信難解と仰せになっているのは、なにも法華経は随自意にして難信難解であるから、衆生は成仏し難いと仰せになりたいからではなく、その随自意にして難信難解の法華経の智慧に、日蓮大聖人の弟子は自然に到達できると仰せになっているのである。

日蓮大聖人は、この「諸経と法華経と難易の事」の結論を、文末につぎのように示されている。

「幸なるは我が一門仏意に随つて自然に薩般若海に流入す、世間の学者の若きは随他意を信じて苦海に沈まんことなり」(諸経と法華経と難易の事)

【通解】幸いに我が一門は仏の御本意に随って自然に涅槃の海に入る(成仏をとげる)ことができるが、世間の仏教の僧たちは随他意の経を信じているから生死の苦海に沈むことになる。

日顕は日蓮大聖人の御書を利用し、日蓮大聖人のお心を殺し、仏法を破壊しようとする天魔である。

日蓮大聖人曰く。

「法華経の流通たる涅槃経の第九に云く『我涅槃の後正法未だ滅せず余の八十年・爾時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし是の時当に諸の悪比丘有るべし是の経を抄掠して分つて多分と作し能く正法の色香美味を滅す是の諸の悪人復是の如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除して世間荘厳の文を安置し無義の語を飾り前を抄て後に著け後を抄て前に著け前後を中に著け中を前後に著けん当に知るべし是くの如き諸の悪比丘は是魔の伴侶なり』」(守護国家論)

【通解】法華経の流通分である涅槃経の第九には、「私が涅槃ののち、正法時代にはいまだこの経は滅せず、その後八十年、そのときに、この経が閻浮提の中に広く流布するであろう。このときにもろもろの悪比丘があって、この経を抄略して多くの部分に分け、よく正法の色香美味を滅するのである。このもろもろの悪人はまた、このような大乗経典を読誦するといいながら、如来の深密の要義(経の真意)を、滅除して、世間ありふれた荘厳の美辞麗句や無義の語を並べ、経文の前をとって後ろにつけ、後ろをとって前につけ、前後を中につけ、中を前後につけたりする。このようなもろもろの悪比丘は魔の伴侶であると知るべきである」と説かれている。

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