報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十二章 魔軍まぐん覆滅ふくめつ

地涌オリジナル風ロゴ

第744号

発行日:1994年3月3日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日顕宗の核を形成していた日顕と“陰の総監”河辺との間に
いよいよ公然としてはばかることのない亀裂が生じ始めた

日顕と“陰の総監”の異名をとる北海道大布教区宗務大支院長、日正寺住職・河辺慈篤とのあいだに、どうやらすきま風が吹き始めたようだ。

そもそも、「C作戦」を謀議した「西片会議」「御前会議」において、しっかりした分析をおこなったうえで創価学会攻撃をすべきだとした河辺に対し、「C作戦」の首謀者・日顕は即時断行を主張した。

河辺の目からすれば、日顕の判断は拙速にしか映らなかっただろうし、日顕は頭に血が昇っているだけに、河辺の言うことは、ただの優柔不断に思えたことだろう。

両者の間がうまくいき、河辺が日顕の知恵袋として機能し、感情的な判断が先行する日顕に適度なブレーキ役を果たしているときは、日顕が宗政を司る上で両者の関係は、それなりの効能があったようだ。

ところが、日顕が「C作戦」を独断専行させ、それ以降、一時的に河辺の助力を日顕が望んだときもあったが、結局は日顕は深慮遠謀を専らとする河辺を疎みはじめ、過激な意見を具申する者たちを好みはじめた。

相対的に河辺の意見は遠ざけられ、バランス感覚のない過激論のみを日顕が採用しはじめる。“陰の総監”として、日顕に戦略上の多大な影響力を有した河辺は、寂寞の想いにひたることの多い近年であったろう。

平成四年九月頃には、河辺の不満を反映して女房の武子が、「ウチの住職は宗門のために一生懸命やっているというのに、宗門はさっぱり守ってくれない」「ウチのお師匠さんが猊下になっていれば、こういう問題も起こらなかっただろうにね」「猊下様も少しは考えてくれないとね」と、ボヤいていることが公となった。

河辺といえば、正信会の者たちを処分するに際し、日顕の全幅の信頼を得て快刀乱麻の活躍をした。このとき、河辺の振るう刀は血が血を呼ぶ勢いをもって、魅せられたように正信会の坊主たちの頭上に振り下ろされた。

この河辺がいたからこそ、日顕も日達上人に縁の深い法類の多くを宗外に駆逐し、早瀬系と政略結婚(娘・百合子と早瀬日慈の四男・義純)による血縁関係を結び、絶対的な支配力を長年にわたり維持することができたのであった。

日顕にとって、山崎正友という悪徳弁護士と正信会を重ね斬りにすることは、自己の利益にとって必要なことであり、正信会が山崎と癒着したことは願ってもないことであった。この日顕の利害にのっとり、直接、正信会の者たちに刃を振り下ろしたのが河辺であった。

だが、それから十数年、日顕は働きの悪い現在の日蓮正宗の末寺住職よりも、この間ずっと創価学会と対峙してきた正信会の坊主のほうが頼りになると考えはじめたようで、平成四年七月初め頃と同年八月末から九月初め頃に、日顕宗御用ライター・段勲と右翼関係者・加藤賢一を密使として正信会議長・渡辺広済の下に差し向けた。

この日顕のやり方を、河辺が面白く思うはずはない。

「C作戦」という拙速な創価学会攻撃の方法、そして正信会和解工作――それを推し進めた日顕は、河辺から見れば許容の範囲をとっくに越えたダメ“法主”である。河辺の腹の中には、日顕に対する大いなる不満が、ここ数年で宿ったことだろう。

一方、日顕からみれば誰もが額ずく宗内にあって、慇懃な言葉使いはしてはいるが腹ではまったく服従しておらず、また、どうにも服従させることのできない存在が河辺であろう。

だからこそ、日顕も河辺には一目を置かざるを得ず、そのことに日顕は煩瑣な思いを抱かざるを得なかったのではあるまいか。その日顕の河辺への意識は、すきま風の吹きはじめた今日になって、いよいよ強くなってきており、ときにはいまいましく思えたこともあっただろう。

日恭の仏罰による焼死の有り様についても、そのときの状況をつぶさに見ていた生き証人・河辺が偽証をしてくれれば片づくものを、それを積極的におこなう風もなければ、本心ではどうやら逃げているようでもある。

そのうえ、故意か不用意かはわからないが、河辺が漏洩した極秘のメモにより、日顕宗のトップ・シークレットである「西片会議」「御前会議」の全貌が公然のこととなってしまった。

しかし、この重大な機密漏洩をおこなった河辺は、蟄居閉門して首をすくめているわけでもなく、意外にも堂々としている。

これには、宗内の多くが半ばあきれ、「河辺は、わざとメモを創価学会側に漏らした」と噂するほどであった。

この河辺の態度を、日顕はどのように見ているのだろうか。関快道あたりは「C作戦」についてあらぬことを口走り、そのことが問題にされると、恐懼して偽証のかぎりをおこない、みずから関与した「C作戦」にまつわる火と煙を懸命に消そうとしている。

日顕にしてみれば、うろたえ偽証をもってすら忠誠心を演出する関は、軽侮しながらも可愛くもある。

だが河辺は、実にふてぶてしい。長年にわたって日顕に忠義面をすることにより、宗内での権勢をほしいままにしておきながら、いざとなったら、みずからの姿勢を崩そうともしない河辺は、日顕にとって許すことのできない存在であるのかもしれない。

いまでは、みずからの不満を解消するために侮蔑して、「所詮は創価学会側の情報に踊らされた奴」と、日顕が河辺を決めつけている恐れすらある。

両者の間は、いま実に微妙な関係にあるのだが、河辺は素知らぬ顔をして過ごしてきた。その河辺が、去る二月二十三日、大石寺でおこなわれた全国宗務支院長会議で、日顕や宗務院、内事部などを向こうに回し、穏やかならざる質問をして日顕の返答にも食い下がり、最後まで納得しなかった。

誰が見てもタダならぬ事態である。珍しく感情をおさえて河辺を納得させようとした日顕にも、質問を封じられた河辺にも、癒しがたいシコリが残ったことは間違いない。

この河辺の質問内容は、宗内の大勢の意見を代弁してなされたものである。それだけに、河辺の質問は、単なる質問の域を超えた思惑があると指摘する者もいる。

それでは、宗務支院長会議において河辺が質問したところを、紙上で再現してみよう。

河辺はまず、宗会を早めに開いて寺院等級を定め、上納額を決定してくれないと予算編成に不都合とクレームをつけた。これは事務処理上の問題として、いずれの末寺住職も不便を感じていることである。

次に、河辺が言ったことは、先のような事務処理上の問題ではなく、“法主”―末寺住職―法華講員という宗制の本質的な関係についてであった。

末寺住職は、これまで指導教師として自寺の壇徒を直接掌握してきた。ところが最近、“法主”→法華講連合会→法華講講頭→法華講員→という指示ルートで、ことが進められている。

これは末寺住職軽視であり、“法主”による壇徒直接支配がおこなわれはじめたことを示している。“手続の師匠”として本師たる“法主”の代理として法華講員を指導するという末寺住職の立場が、日顕によりないがしろにされはじめているのだ。

この日顕のやり方を可能にしているのは、日顕の提灯持ちの柳沢喜惣次が法華講連合会の委員長をしているからである。日顕と柳沢のコンビが、日蓮正宗「本来」の本末のあり方を崩そうとしている。これに対する末寺住職の批判は根深いものがある。

こうした宗内世論を背景にして、河辺は次のように質問した。

「もう一点。これはお願いなんですけども、たとえば先般、支院長から連絡があって『日蓮正宗の歌』を歌わなくなったと。これはもういろいろな状況により……。でっ、第二は、正副講頭指導会が開かれる、これが地方部の役員会で決まったと。それからもうひとつは、いわゆる六万塔の御供養について、このことは各支部の方から御供養されたいと。

このようなことで指導教師が知らないことがあって、御信者の人から言われてから、言われて答弁に困るわけなんですね。なんとかこれできないだろうか。宗務等、大変だと思うけれども、そういう重要なことは、やっぱり指導教師は責任もってやってるわけですから、できれば先に教えていただきたいと、こう思うんです」

この河辺の質問に答えたのが日顕。

「六万塔については、なんていうかなー、このー、うー、連合会関係から流れた次第だからね。それだからね、そういうことになるんだよ」

それでも河辺は納得しない。

「でも宗務院でわかっていたら、その前に当然、まー、了承してくださいとやれば、こっちはなにも……」

『日蓮正宗の歌』はともかくとして、住職の頭越しにおこなわれた新六万塔の供養勧募は、どうにも承服できないというのが河辺の姿勢。日顕と柳沢の出来レースが見え見えだけに、日顕の建前だけの回答で引き下がるわけにはいかないというのだろう。

この河辺に対し、日顕はあくまで慰め役。

「まー、とにかく、それはあるだろうけどねー、あの、だいたいのことは各末寺を中心としてやっている宗門の方針なんだ。これはそうじゃないんだ。宗務院は、かっ、関与してないんだ。だから、宗務院はなんとも言いようがないんだ。可哀想なんだ。それっていうのは、つまりあのー、お山のことだから。

今度の、あのー、なんていうか、小川君が言ったとおり、今度の、あのー、四月二十八日の法要だってだね、あれは、あのー、宗務院の通達じゃないよ。出るのはね。当然、内事部から通達を出す。だから、まー、内事部で、いー、そのー、末寺、各部に通達してやりゃーよかったかもしれないがな。あるいはな」

日顕としては、少し謙虚に対応したつもりが、これに対する河辺の反応はニベもないものであった。「そのとおり」。河辺の発した声は、この一言。日顕は、たまらずその場を繕うために言葉をつづけようとするが、シドロモドロ。

「あのー、こういうことが、あー、あると、まー、あのー、だから住職としては、ねっ、その連合会とか、あのー、そっちのほうからの、いろいろな陳情があって、各寺院の寺院支部にね、それがあるかもしれないから、だからそういう点で、あのー、まー、あのー、理解しておくように、ね。これはやっぱり内事部が今回は責任もっている意味があるから、チョット、迂闊って言えば迂闊だったな。よくわかりました。

だけれどもね、あのー、これはやはり基本的にはね、あのー、こういうことなんだよ。でも内事部なり私なりが、この問題、あの、あのー、バカどもが、あのー、なんだ、なんだか知らないけど悪口さかんに言ってるけども、なんだ、広布坊の資金が足りないとか、ないから、あのー、私が、えー、そういうことはないんだ。広布坊の資金ぐらいチャーンとありますよ、もともと。だから、あのー、別に皆さんから直接に願うんだったら、御供養したいって人に対して、それはいらないとは言わないけれども、これはもう前から言ってるけれども、だけどもそういうことなんであってね。

それで、そのー、今度の場合、あのー、なにも、うー、まぁ、信徒のほうから、ともかく六万塔の建立並びに広布坊のことも含めて、我々としては御供養したいというふうな気持ちがあるらしいんだね。だから、こっちから、ほら、お願いしますと、こうこうこういうあれで、これだけいるから、これぐらいの寄付を信徒の負担にするから、普段の普通のあれならそういうふうに出るわけだ。その場合は、もう末寺のほうへ通知するわけだ。

ところが、この場合は、お山も本来、こっちから願ってるんじゃないだから。ねっ。そこらへんをよく考えてくれよ。なっ。言いようもチョットいろいろあるんだよ。だから、あー、それにもかかわらず、お山からいろんなこと言うと、かえってまだなんとかそれじゃー、お山は中心になってやってるんじゃないかということにもなってしまうしねー。チョットそのへんがまー、今度の場合は事情があるということを、まー、よく理解してもらいたいな。なっ」

日顕は含みのある言葉で、あくまで河辺を押さえつけようとする。そこで河辺は、日顕が話しているにもかかわらず、「宗務院……」と言葉を挟もうとするが、日顕もそれを無視して、「わかった。まー、いいじゃないか、それで」と、話をたたんだ。そこですかさず司会が、「ほかにございますか?」と、助け舟を出し、得心のいかないままの河辺を無視して議事を進行した。

この宗務支院長会議での日顕と河辺とのやりとりにより、両者のあいだに、ただならぬ亀裂が生じていることが確認できた。かつての両者であれば、河辺が日顕に電話で助言し、それで済んだであろうことが、いまでは表立ってあからさまな齟齬となっている。

日顕宗は、その中枢においても不協和音が発生しているのだ。

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