報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十一章 仏子ぶっし反撃はんげき

地涌オリジナル風ロゴ

第725号

発行日:1994年1月9日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日顕という上野村の和尚が身内を相手に軽口をたたいたが
嘘にあきあきした住職達の反応は恐ろしく冷たく重かった

一月六日、大石寺で日顕宗の末寺住職・寺族初登山会がおこなわれた。同登山会の運びは大要、次のようなものであった。

午前九時五十分から日顕への「目通り」。午前十一時御開扉(正本堂)。午後十二時三十分から大講堂で約三十分間指導会。午後一時から昼食。午後一時三十分から新年の祝賀会として合唱など。

それでは、午前九時五十分からおこなわれた「目通り」における日顕の話を紹介したい。ここでの日顕の話は、末寺住職・寺族を前にしての、まずは“ウソはじめ”といったところ。

今年一年、日顕は、窮しては次々とウソをつくことになろうが、この「目通り」でのウソは、“ウソはじめ”としてはやや精彩がない。日顕は、いつもながらのウソを羅列するのだが、これまでの日顕とは違い、ウソに勢いがないのである。

これは、聞く者の反応があまりに冷たかったので、自分のウソに乗りきれなかったことが原因しているのかもしれない。

それでは、「御指南」という名の“ウソはじめ”に耳を傾けよう。

まず、日顕は型どおり年賀の挨拶をし、皆が聞きたがっている「C作戦」についての話をいきなりするわけにもいかず、まずは天気の話を一言。

「大阪のほうは今日あたり雨が降ってんじゃないの? なんかそんなようなことを聞いたんです。ボツボツほれ西のほうから崩れてきているらしいんです。初登山しても皆さんのいるうちは大丈夫だから。ハハハ。ハハ」

と意味もなく一人笑い。末寺住職・寺族らは無反応。座はシラけている。

日顕としても、心の中で一番気にしていることは「C作戦」。意味もない天気の話から突如、言い訳がましく「C作戦」に言が及ぶ。

「えー、今日は、あのー、あとで宗務院からチョット、えー、まー、なんか話があるらしいんです。創価学会のほうで暮れに、なんかいろんなことを言ったりなんかして。えー、ある人の書いたものを、なんかこう、それを証拠にしてね。それで『C作戦』なんていうものがあったとかなんとかね。ハハ、あのー、相変わらず、まー、あんなこと言うこと自体がもう、それがここにきてどうこうじゃないはずなんだよね。ウン。いまさら言ってみたってしょうがないことだろうとは思うし……。しかしまったく、あのー、その、あの、あとでもちろん宗務院の方々が言いますから、私は今ここでは言いませんけれども……」

と、まずは前置き。こう言っておいて唐突に自分の言いたい結論を述べた。

「あのー、彼らの言ってるような『C作戦』なんてものは、まったくなかったんです」

なんの根拠も示さず、いきなりこの結論。末寺住職・寺族らは沈黙するのみ。

その言葉につづいて、池田名誉会長が日顕や河辺慈篤の悪口を平成二年以前に言ったと話す。しばらくそのような話をして、再び「C作戦」に言及。

「まー、そのほかにもまだ、さまざまなことがあるんです。それぞれのことから、そういう、そういうふうな考え方は、なんとかきちんとしなきゃならないし、やっぱり、あくまで宗門としては、そういうものは放置してはいかない。あくまで正していかなきゃならない。また直していかなきゃならない。そういう意味で、正しく教導していく必要があるということは言えました。そういう意味の会議だったんですね」

この日顕の話は、口から出まかせのウソ。

「河辺メモ」の平成二年七月十八日の項には、次のように書かれている。

「  = 御 前 会 議 於大書院 =

注=御前会議が大書院に変更になつたのは. 当初. 大奥洋間. 新大奥と. 盗聴を恐れて. いろいろ思案の末. 大書院となり. あへて障子を全部解放し会議。

○. 御前会議の流れ.

  早瀬部長よりの連絡会議報告の後. 池田追放の線で進られ. 

   河辺=それでは. この作戦はG作戦だ.

   猊下=それは違う. Cだよ

      ○ともかく21日の池田の目通り山だ.

      ○もう少し池田の証拠を集めて. C作戦の時を待つ

      ○教師講習会の時に『6. 30の教義上の問題を通して財務問題(供養問題)を重点に』猊下・宗務院が話す.

   河辺=C作戦というが. いずれはやらなくてはならない問題としても。今この問題をやる亊は両刃の剣を持つ亊になる。やるとしても. もつと分析が必要. それよりも大亊な亊は. 僧侶の綱紀自粛が必要. この作戦を実行しても. 返す刀で. この綱紀問題で学会にやられる.

   猊下=お前は分析・分析というが. 分析して何ができると云うんだ. =激しく怒つたように河辺を叱責=

   河辺=いえ. 綱紀を糺さなくては必ず学会からやられる. 綱紀自粛の指導を教師指導会でやるべきだ。それから学会問題をやるべきだ.

   藤本=私も河辺の云う通りと思う. 今この問題をやれば両刃の剣となる.

   河辺=学会相手に戦う時は. 日刊の聖教を相手に戦う亊になる. 宗門は此れに対抗するものはない. 

   猊下=皆んなは. この河辺の意見に対しどう思う. 

    =全員無言で河辺に賛成の表顔=

   早瀬=私も河辺の意見の方がいいと思う.

以上の意見のやりとりが昼食をはさんで続き. 結局. 池田追放の件は当分見合せ。僧侶の綱紀自粛という亊になり. 来る8月末の教師講習会で綱紀自粛に関する指導会を開く亊になる.

そのための会議を開く亊に決し御前会議終る. 午后15時」(平成六年一月一日付『創価新報』掲載の「河辺メモ」より)

この河辺の極秘メモにあるリアルな記述を全否定するには、まったく根拠不明にして説得力に欠けた話である。

かまわず日顕は言葉をつづける。

「だから、そういうなかに、まー、なんですね、『C』ってな言葉があるいは出たかもしれない。しかしはじめからですね、創価学会を宗門から切って、あるいは、そういうような計画があったとか、そういう考え方できたってなことは、私はないんです」

ここで日顕の「C作戦」に対する否定は、ややトーンダウン。

これは注目される。いうならば“被疑者が事件について一部認める供述をした”といったところ。すべてをゴマカシおおせない場合、“ウソつき”がよくとる、その場しのぎの危機回避策である。

だが、日顕がどう言い逃れようとも、「河辺メモ」に書かれた事実までネジ曲げることはできない。

創価学会を宗門から分離し、創価学会員を切り崩し檀徒を獲得しようとして「C作戦」の謀議をおこなったからこそ、七月十八日の「御前会議」は「盗聴」を恐れ、会場を「大奥洋間」「新大奥」から「大書院」に変更し、襖をすべて開け放しておこなったのである。

創価学会を「教導」することについて相談するのなら正々堂々とやればよい。だが事実は、その逆。

しかも、創価学会の「教導」について話し合う重要な会議に宗務院の教学部長・大村寿顕、財務部長・長倉教明、海外部長・尾林広徳らが呼ばれていない。これを見ても「御前会議」が「教導」ではなく、謀略を話し合うために開かれたことがわかる。

「当初. 宗務院全部長・内亊部役員が集り会議を開く予定だつたが. 河辺が『天下公開で会議を開くようなもの. 例のメンバーで会議を開くべきだ』との意見から. 猊下・總監(藤本)・早瀬・秋元・八木・関・河辺のメンバーで西方会議(御前会議)が開かれる」(同)

このように河辺がメモしているとおり、出席者は厳選され、そこでは最高機密である「C作戦」実行の正否が問われたのである。

日顕は、先の言葉につづき「目通り」において、次のように語った。

「これは前後の、当時のいろんな私の言葉から、前後の文書から次々に追認すればもうわかること」

この日顕の主張の根拠となるような当時の文書はない。これも、事実は日顕の主張の逆。「C作戦」の存在を示す文書はある。

当時、海外部書記であった福田毅道は、日顕が「C作戦」を実行に移した直後の平成三年一月二日、SGIアジア局長の久野健氏に「私信」と題する次のような文書をFAXで送りつけた。

「昨年7月末に頓挫したC作戦の案文を夜間一人切りでワープロで清書しつつ、この海外部の事務室で1時間以上、涙を流し、泣きました。私が知っている学会員の一人ひとりの顔が目に浮かび、生まれてから40年間のうちで、最も長い時間にわたって、泣きました。またその数日後、7月~8月のC作戦の中止のために裏切らざるをえなかった人々のことと思い出し、都内のホテルの一室で大声をあげて泣きました」

「C作戦」は、平成二年夏、実行直前まで行って中止されたのである。

また日顕自身も、平成三年三月五日に長栄寺・工藤玄英住職、大照寺・大橋正淳住職と面談した折、両住職が「C作戦」を知っているかと問い糺したところ、

「知っていたよ。『C作戦』はあの野郎の首をカットするという意味だよ」

と話したということである。

このような発言を激してした日顕が、いまになってトボケたウソをついているのだ。しかし、おかしなことに、日顕は「C作戦」が存在していたことを匂わせるような微妙な発言をし、末寺住職・寺族に同意を求めたりもした。

「しかしまー、そういうことをなにも言ったからといっても皆さん方が動揺することはないとは思うけども、まー、動揺するような、えー、人が教師でいたら情けないと思うな。ウフウフ。まー、ないでしょう?」

この天魔、いきなり本性そのままに禅問答。言外の意を汲んでくれと、拈華微笑の境界を現示する。

だが、場内はシーン。「はい」も「わかりました」も、うなずきもない。

日顕やや憮然とし、

「まー、ひとつ、ぜひそのへんは、はっきり腹でわかっておいてもらいたいと思うんだがね」

と言い放つ。そして、創価学会に八つ当たり。

「しかし、そのチョットしたところをこういうふうにとって、そのー、いかにも宗門が悪いように、いろんな面で画策する。策謀するのはもう彼らの常套手段じゃないですか。あらゆる点で。なにもこないだも、正規に訴えたけれども、『クロウ事件』なんて、それほどさしたることもないことを、あれだけ全部あったようにデッチ上げる、そういう恐ろしい団体だしね」

恐ろしいのは、日顕お前の舌だよ、まったく。

会場には、凍ったような冷たさが流れる。だが、この大人の世界に張りつめた緊張にもかかわらず、寺族の子供たちがグズったり、ムダ口をたたいている。話している日顕、聞いている住職と寺族ら、そして子供たち。その三者の心は、まったく別のことを考えている。

日顕も、これ以上の話はムダと判断してか、

「詳しいことはまた宗務院の人から一つ聞いてください。あとで話があると思います。まっ、一つくだらないことに紛動されないように」

と、やや投げやりな話のくくり。

そして、急に日顕、参加者の一人に向かい、

「元気ですか」

と呼びかける。呼びかけられた者も、とまどったことだろう。そして日顕、

「なんか面白い話ない?」

と、おどけて見せる。自分の話が面白くないと自覚しているので、体裁をとりつくろったのだろう。会場の人々は、追従笑い。

そこで日顕、

「新年は、あのー、あれだなー、まー、みんなそれぞれ多少、昔よりは御信者の参詣の方も少なくなったろうけれどもね。それでもやっぱり心を一つにした僧俗が、新年を祝うという意味でね、参詣していただいて、勤行をしてかえって気持ちがいいと思うんだがね。

本行寺なんかはもういっぱいでしょう? うん。本堂はね。いっぺんではとても入りきらないね。ねっ。うん。フッフッ」

と、古くからの法華講の多い本行寺の名を出して、カラ元気。ところが次が悪かった。

「平安寺もだいたい、いっぱいになるでしょう?」

否定的反応。日顕あわてる。

「ならない? チョット少ないの、えっ? 少ない? チョット? うーん」

断るまでもないが、宗門衰退の原因は、すべて日顕一人にある。その日顕が、当人がいないことをいいことに在家に責任転嫁。

「講頭さんダメだな、あの講頭さんね。河原さんね」

一同、笑い。この笑い、なんともいえない冷ややかな、場をもたせるためだけの追従笑い。ここまでくると、多くの者は日顕の支離滅裂ぶりと道化を笑っているようでもあった。

その後、日顕は平安寺の大広間が広いということに、本堂が一杯にならない“原因”を求め、最後にみずから納得したような様子を見せ、一同を見回し、

「じゃ、どうも皆さん」

と軽くサヨナラして、「目通り」を終えた。イヤ、新年早々、大変な「御指南」でした。

だが、宗内の人々は、決して日顕の軽口に気を許してはならない。今回、「河辺メモ」で明らかにされた「西片会議」「御前会議」の様子を見ても明白だが、日顕は身内と一部の者にしか気を許していない。他の者は、騙す対象なのである。

日顕は、事をおこなうときと果実を懐にするときは、いつも秘密主義、身内主義なのだ。ところが、窮地に立つと孤立しないように、愛想をふりまき、責任だけは皆の連帯とする。

家族友人葬のパイオニア報恩社