報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十一章 仏子ぶっし反撃はんげき

地涌オリジナル風ロゴ

第722号

発行日:1994年1月3日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日顕が創価学会首脳のみならず信徒たる創価学会員を騙し
果ては宗内の僧まで欺いたことは「河辺メモ」により明らか

日顕の懐刀にして日蓮正宗参議・北海道大布教区宗務大支院長である日正寺住職・河辺慈篤が、みずから記した極秘メモ。

この「河辺メモ」に、「C作戦」実行の可否を議題にして開かれた「西片会議」(平成二年七月十六日 於大石寺東京出張所)と「御前会議」(同月十八日 於大石寺大書院)についての記述がなされていた(本紙『地涌』前号紹介)。

創価学会を即時に攻撃しようとしていた日顕も、この二つの会議を経て、「C作戦」の実行を当面見合わせることにした。

「河辺メモ」によれば、平成二年七月十八日に大石寺大書院で開かれた「御前会議」は、「早瀬部長よりの連絡会議報告の後.池田追放の線で進められ」(平成六年一月一日付『創価新報』掲載の「河辺メモ」より)たということであった。

ここにある「連絡会議」とは七月十七日、常泉寺において創価学会と宗門の代表者によっておこなわれた会議のことである。この席上、創価学会側は日蓮正宗の僧の腐敗堕落を宗門として正すよう要望した。

連絡会議における創価学会側のこの厳しい異例の要望は、日顕が「C作戦」をこの七月に実行することを抑止したようである。

結局、「御前会議」では“創価学会に言いがかりをつけ攻撃する前に、創価学会に反撃の糸口を与えないように僧の綱紀を自粛すべきだ”という河辺、総監・藤本日潤、庶務部長・早瀬義寛らの意見が最終的に日顕の即時攻撃論を阻む。

この「御前会議」の決定を受け、宗門は八月二十九日に全国教師講習会を開き綱紀自粛を徹底する。だが、これは素直に創価学会側の要望を受け入れたものではない。

「河辺メモ」には、いみじくも「御前会議」で日顕が吐露した本心が記されている。「もう少し池田の証拠を集めて.C作戦の時を待つ」(同)。日顕らは、内部を引き締め、創価学会攻撃のきっかけとなるにふさわしい池田名誉会長の「問題発言」をただひたすら待つことに決めたのである。

日顕らは創価学会を破壊するために、ただ池田名誉会長一人にターゲットをしぼっていたのであった。

そのときは、ほどなく来た。同年十一月十六日、東京戸田記念講堂(東京都豊島区)でおこなわれた創価学会第三十五回本部幹部会における池田名誉会長の発言テープを日顕らは極秘のうちに入手した。池田名誉会長の「問題発言」を心待ちに待っていた日顕らは逸った。

そのテープに録音された池田名誉会長の発言は、日顕らの耳には「問題発言」として聞こえた。ここで“聞こえた”というのは、実際の発言とは違う単純な聞き間違いもあったからである。たとえば、宗門側が、

「工夫して折伏するのがないでしょう、ね。日蓮正宗で、いなかったんですよ」

としていた池田名誉会長の発言は、正しくは、

「工夫して折伏する以外ないでしょう。ね、日淳上人が一番よく分かっていますよ」

であったし、宗門側が、

「ただ……、真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう」

としていたものは、正しくは、

「ただ朝起きて『真言亡国・禅天魔』(笑)法を下げるだけでしょう」

であったし、宗門側が、

「あと、ちゃんと日淳上人、それから堀猊下、全部日達上人、きちーっと学会を守ってますよね」

としていたものは、正しくは、

「あと、ちゃんと日淳上人、堀猊下、全部日達上人、きちっと学会を守って下さる、ね、方軌はできあがってるんです。不思議なことです、御仏智というものは」

といった内容であった。日顕らは「C作戦」を実行したいとの思いから、落ち着いてテープを聞く余裕がなかったようである。

宗門側は、池田名誉会長の発言を取り違えたまま、「お尋ね」文書としてまとめ、平成二年十二月十六日、日蓮正宗総監・藤本日潤名で創価学会秋谷栄之助会長宛に送達した。その文書には、

「御法主上人並びに僧侶に対する蔑視及び非難や、過去五十二年頃の逸脱についての無反省が明らかであります。故に、教条的なる語をもって宗門を軽蔑し、自らの考え方を主として、是として、宗門を従わしめようとする野望が感じられます」(平成二年十二月十六日付「お尋ね」文書より引用)

といった文言も見え、創価学会を問責するものであった。また、宗門は池田名誉会長が「歓喜の歌」をドイツ語で合唱するよう提案したことも、外道礼讃の謗法であると指摘した。

宗門側が「問題発言」とした池田名誉会長の発言は、本質的にはさして問題にされるべきものではなかった。この宗門のイチャモンのつけ方は、豊臣家をとり潰そうとの下心から、方廣寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文言を「家康」を分断し呪うものであるとした徳川家のやり方と類似している。

この徳川家の言いがかりは、徳川家おかかえの策士である以心崇伝という臨済宗の坊主の入れ知恵であると言われているが、悪比丘の悪知恵は時代を超えて、えてしてこの類いのようである。

この宗門側の理由なき言いがかりに、創価学会側は平成三年一月一日付の文書で、

「『お尋ね』文書の論拠となっているのが出所不明のテープであるということは、そのテープは盗みどりされたものということにほかならず、この、テープの盗みどりという行為をご宗門はどうお考えになられるのでしょうか、盗みどりなどということは、道義的にもけっして許されるべきではなく、そうした行為を諫めるのが聖職者のあるべき姿ではないでしょうか。(中略)いわば公式文書の論拠とすることは、世間では、到底通用しない非常識なことといわざるをえません」(平成三年一月一日付「『お尋ね』に対する回答」より引用)

と反発。これに対し宗門側は一月十二日付の文書で、

「改めて池田名誉会長のスピーチを聞き直しましたところ、確かに当方のテープの反訳に、下記のとおり相違がありました」(平成三年一月十二日付「『〈お尋ね〉に対する回答』についての指摘」より引用)

とテープ起こしの間違いを認めた。だが、その一方で宗門は、この機会を逃して創価学会を屈服させるチャンスはないと判断し、池田名誉会長の追放に血眼となる。振り上げた刀は、もう降ろすしかないと考えたのである。

以降、日顕は状況の変化にともなって「C作戦」を変容させながら、時間をかけて創価学会破壊の謀略を遂行するのである。

だが、これは当時のひととおりの表立った動きにすぎない。一皮むき一重立ち入ってみると、日顕の謀略性、二重人格性、ウソつき、一人よがりばかりが、いっそう明らかになるのである。

まず、日顕が平成二年夏の時点で、どうしてここまで池田名誉会長を恨んでいたかだが、それは、御開扉の供養料、登山会における食事代の値上げを、日顕らが平成元年二月に創価学会側に要求したことにはじまる。

この当時、四月からの消費税導入をめぐって国民的規模で議論が沸騰しており、仮に、正当な理由があったとしても値上げは避けるべきことであったし、もし値上げするにしても、小幅な値上げに抑えるべきであった。

ところが、日顕らは世情を無視して御開扉の供養料は四四パーセント、食事代は三六パーセントにも及ぶ値上げを求めてきたのであった。創価学会側は社会的状況が値上げを容認できる環境にないことを宗門に伝え、慎重な検討の必要性を述べた。

ところが、財政上の必然的理由をもって創価学会にそれらの値上げを迫っていたにもかかわらず、宗門は一転して、「今までどおりで結構です」とふてくされた。日顕の幼児性そのままの対応ぶりであった。

そして、一年後の平成二年三月、今度は創価学会に対して、

「・御本尊下付願  二〇〇〇円 → 三〇〇〇円

 ・永代回向      十万円 →  二十万円

 ・塔婆供養    一〇〇〇円 → 二〇〇〇円

 ・大過去帳      五万円 →   十万円

 ・御本尊再下付願 三〇〇〇円 → 五〇〇〇円

 ・納骨保管料 一年目二〇〇〇円、二年後以降一〇〇〇円

                → 毎年二〇〇〇円」

と、有無を言わさない一方的な通告をしてきたのであった。創価学会側は、事を荒立てたくないという配慮から、やむなくこれを受けた。

このように、冥加料などの値上げを平成元年二月に創価学会側に申し入れたとき、スンナリ創価学会側が認めなかったことを日顕は恨み、根に持っていた。だからこそ平成二年三月には問答無用と一方的に創価学会に通告したのである。

この通告は、日顕なりにエキサイトしておこなったものだろうが、案に相違して今度は創価学会側がそれをスンナリ受け入れた。このことで日顕は、みずからの権威を過信し創価学会や池田名誉会長を侮ったと思われる。

創価学会側としては、広宣流布を進めるにあたり不可欠の要件である僧俗和合をはかるために、やむなく冥加料値上げに応じたと思われる。

だが、大願を忘失してしまっている日顕には、広宣流布のためには、ときには忍従もし、必要とあらば大勇猛心をもって闘争するという創価学会中枢の境界を推し量るだけの器量がなかったようだ。

ともあれ、この冥加料値上げの一件で、日顕の心の中に池田名誉会長をはじめとする創価学会中枢に対する恨みと侮りが生じたようだ。それは裏をかえせば、自惚れと“法主”と“袈裟衣”の権威に対する過信が、日顕の心の中により大きく深く根をはったということでもある。

そのような心理をもった日顕が、平成二年七月の「西片会議」「御前会議」で、「池田追放」を叫び、冥加料値上げ反対の遺恨を晴らそうと「特財・財務中止」を声高に主張したことは充分に理解できることである。

日顕の心にあるのは、きょう*慢であり、他への侮りであり、利己主義である。

日顕は増長しているが故に、自己の思いどおりに事を進めることが仏意に適っているとすら思っている。したがって、自己の言動を反省することもないし、他に抜きん出て自分がいい思いをしようとも悔悟の念はわかない。わざわざ付言するまでもないが、その日顕に末輩らと辛苦をともにしようとの思いはない。

平成二年八月二十九日、三十日、大石寺において全国教師講習会が開かれ、二十一項目にわたり厳しく綱紀自粛が徹底された。

だが、この全国教師講習会終了直後、日顕は女房の政子、息子の大修寺住職・阿部信彰とその女房・信子、日顕お気に入りの茶坊主である大石寺理事・石井信量とその女房・ナツ子を引き連れ、伊豆・長岡にある超高級温泉旅館に出かけている。

この旅館は、各部屋とも純日本風の数奇屋造りで、庭が数千坪もある。日顕らは一人一泊十五万円の部屋に泊まり、懐石料理に舌鼓を打った。この豪遊、六人で一泊ゆうに百万円を超える。

日顕は、この日、“法主”としての重大な勤めである丑寅勤行をさぼっている。これが、宗内に対し綱紀自粛を徹底した総責任者の偽らざる素顔なのである。

日顕は、池田名誉会長ならびに同会最高幹部に対する反省懺悔を求める決意書(平成三年一月~三月)や創価学会解散勧告書(平成三年十一月七日)などのときは宗内の総意の形式を踏み、責任を宗内の者に連帯させ、自分一人が負うことはしない。

ところが、肝心な決定、そして遊ぶときや甘い汁を吸うときは、自分一人、あるいは、ごくかぎられた身内とお気に入りの者たちとだけでおこなう。日顕は利己主義、秘密主義、身内主義にして、人を欺くことに何らの痛痒も感じない者なのである。

平成二年十月六日、七日に初会、十二日、十三日に本会と大石寺開創七百年の慶事が大石寺でおこなわれた。

開創七百年を慶祝するために、おもに静岡県の創価学会員が同年夏、真夏の太陽が照りつける大石寺の屋外で、体操や踊りの練習に汗を流した。いずれも、仕事や家事をやりくりし真心から開創七百年を慶祝しようとして練習していたのである。だが、このとき日顕ら宗門中枢は、同じ大石寺の中で、創価学会を破壊して創価学会員を掠め取る謀議をしていたのだ。みずから信ずるところをもって説かず、謀略をもって信徒団体を破壊する「僧」が、日蓮大聖人の末流にふさわしいものであるかどうかは論ずるまでもない。

先述したように、「C作戦」の実行は、夏の時点では見送られたのだが、宗門中枢は八月二十九日、三十日と綱紀自粛を徹底し創価学会側に落ち度の生じるのを息を殺して待っていた。

そのような最中の十月六日に、開創七百年慶讃大法要の初会が大石寺においておこなわれたが、このとき、日顕は「慶讃文」にいかなる文言を盛り込んだであろうか。

「近年ニ至リ信徒団体創価学会ノ興ルヤ折伏弘通大イニ進ミ正法受持ノ信徒マタ數ウルヲ知ラズ 故ニ本仏出世ノ本懐タル本門戒壇ノ大御本尊ハ御宝蔵ヨリ奉安殿ヘ更ニ先師日達上人ノ代池田總講頭發願ノ正本堂ニ安置セラル尓来正本堂ハ有縁信徒千万ノ懺悔滅罪ノ大堂タリ洵ニソノ功徳重且ツ大ナリト云フヘシ 其ノ他ノ總本山境域マタ種々ノ綜合整備時ヲ逐テ進捗スル半面末寺ノ建立寄進相継キ未曾有ノ正法興隆ノ相ヲ現出ス」(『大日蓮』平成二年十一月号より引用)

「C作戦」を腹蔵し、創価学会破壊の時機到来を心待ちにしながら、日顕はこれだけの綺語を弄するのである。日顕は僧形をなしたペテン師なのだ。

十一月十六日、東京戸田記念講堂において創価学会第三十五回本部幹部会が開かれた。このときの池田名誉会長のスピーチの内容は、すぐさま日顕に伝えられた。日顕としては、この「十一・十六発言」は創価学会を攻撃するための恰好の口実になると思ったようだ。

十一月二十日、二十一日に大石寺で御大会大法要がおこなわれたが、このときの出仕者との「目通り」の席で、日顕は創価学会と近く一戦を交えることがあるかもしれないことを匂わせ、創価学会を批判した後、「百姓覚悟の時がくるかもしれない」とキナ臭い発言をしている。

この同じ二十日、日顕は『大白蓮華』(平成三年一月号)掲載のための原稿を創価学会側に渡している。この原稿は、「新年の辞」と題され、信徒である創価学会員に対し“法主”としての新春の挨拶をしたものである。

この原稿の中で日顕は、創価学会及び池田名誉会長に対して、次のように書いている。

「創価学会創立六十一年の出発に当たり、私ども宗門においても、心からその功績を賛嘆いたします。

戸田先生の逝去後、間もなく、第三代会長の任に就かれた池田先生は、鉄桶の組織と当千の人材を見事に活用され、且つ、信心根本の巧みな指導をもって国内広布の大前進を図り、十倍ともいうべき多大の増加を来したことは、耳目に新しいところであります。

特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、撰時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います。

また、戸田先生のころより始まった総本山への諸供養や末寺寄進は、池田先生によって本格的に行われ、先師日達上人の数々の賞辞が残っております」(『大白蓮華』平成三年一月号より引用)

日顕は創価学会や池田名誉会長を「教導」するどころか、「C作戦」遂行を容易にする目的で、創価学会側を油断させようと綺語、両舌を用いているのだ。

日顕の心の中は、この原稿を創価学会側に渡した十一月二十日の時点で宗内の僧に対し、「百姓覚悟の時がくるかもしれない」と、覚悟を促すほどに固まっていたのに、全国の創価学会員に対して創価学会の機関誌を通して虚言を専らにして臨んだのである。「御師範猊下」を自認するならば、ここでも「教導」をなすべきであったろう。

日顕が薄汚い売僧であることは、平成二年十二月二十一日に仏徳寺(三重県)の寄進を創価学会から平然と受けていることからもよくわかる。

創価学会を破壊すべき謗法団体と認識し、池田名誉会長を宗外に追放すべき信徒代表と思っていたのであれば、池田名誉会長を建立寄進の発願主とする寺院の寄進など受けるべきではなかった。

仏徳寺は、創価学会寄進の他の寺同様、創価学会「破門」の現在に至っても創価学会に返却されていない。言うことは立派でも、日顕宗の坊主は欲の皮が突っぱっているだけのことである。

少なくとも日蓮大聖人の弟子を僣称するなら、自語相違せず「謗法」からの供養をタタキ返してみたらどうであろう。

さて話はもどるが、十一月二十日の御会式において、日顕は、「百姓覚悟の時がくるかもしれない」として、宗内の僧に、予想される貧困への覚悟を促した。

しかし、この言葉も日顕の本心ではない。日顕は、実に計算高く心は怜悧である。日顕は「C作戦」に基づき創価学会を攻撃することに一抹の不安を抱いていたにしても、完敗するとは思っていなかった。

まして、大石寺や日顕は途方もない蓄財をしており、経済的な不安は言葉とは裏腹にまったく持っていなかったと思われる。それは今日、千畳敷の「広布坊」という無用の坊を三十数億円かけて建設していることをみても、うかがうことができる。

それだけに、日顕は「C作戦」を実行するにあたり、安易な予測をしていたようである。日顕は「C作戦」を断行する直前の平成二年十二月二十五日、大石寺内事部第三談話室において、本応寺住職・高橋公純、その実弟にして日顕宗御用ライター・段勲、藤原行正の子分にして池田問題対策事務所の事務局長を自称する押木二郎、およびその同類である笛木伸一と密談をした。

このとき、日顕は「C作戦」を実行した場合に獲得できる檀徒の目安として、「二百万のうち二十万がくればよい」と述べている。日顕は「C作戦」の断行にあたり檀徒二十万程度は最低でも獲得できると皮算用していたのである。

だからこそ、日顕は、「百姓覚悟の時がくるかもしれない」と、御会式の出仕者たちに言いながらも、内心は「C作戦」の成功を心に描き、浮いた気持ちでいたと思われる。

本紙『地涌』は、平成三年七月十七日付の第198号で、「大石寺出張所」の設計図について報道をした。地下プール付きの二十億円を超える豪邸建設を日顕が秘密裡に計画していることをスクープしたものである。

この設計図作成の日付は、平成二年十二月二十五日である。日顕は平成二年夏、「C作戦」の実行を一時見合わせ、虎視眈々と創価学会攻撃に踏み込む口実を狙っていながら、その一方で早くも「C作戦」による勝利の暁を夢想して、二十億円を超える豪邸建設を計画していたのだ。

日顕にしてみれば、創価学会を破壊して、それなりの檀徒を得れば、もう創価学会に気がねすることもないから、贅沢三昧の生活に浸ろうと考えていたのだろう。

日顕らの創価学会攻撃のスケジュールは、当初は「C作戦」の作戦書に従い短兵急なものであった。

高橋公純などは、「池田名誉会長が総講頭を解任され、ともかく一月にはカタがつく、二月には温泉でもって祝賀会をやろう」(『新雑誌21』平成三年八月号より引用)などと、山崎正友の部下である梅沢十四夫に対し平成三年一月に話していたという。

また一月の初めには、日顕らは「C作戦」に従い創価学会に対し無理難題を通告することを決めていた。通告の内容は「C作戦」の「第二段階」に記されているように、

「今後、池田大作氏は、名誉会長の称号のみの立場の人となっていただき、宗門から教導を求めないかぎり、自宅にて待機願います」

「創価学会の法人責任役員の過半数を、日蓮正宗管長の指名する僧侶が占めることを命じます」

「聖教新聞等の学会発行の新聞・雑誌には、今後一切、池田名誉会長に関する記事を掲載することを禁止します」

「創価学会の中央会議、本部幹部会等の主要会議には、必ず宗務役職員の出席を願い出ることを命じます」

「海外組織については、宗務院海外部の直接指示に従うよう命じます」

などといったものである。この宗門側の“最後通牒”ともいえる通告に対する創価学会側の回答期限について、どうやら宗門側は一月十六日と当初は定めていたようである。

「池田はイラクのフセインと同じだ。一月十六日には創価学会は降伏するか敗北するかの選択しかない」

同年一月十六日午前零時を期限として、国連の安保理事会はイラクに対し最後通牒をしていたが、この風前の灯に見えたフセイン率いるイラクに創価学会を擬して、日顕の取り巻きたちが平成二年の暮れの時点でハシャいでいたのである。ちなみに、翌日の一月十七日に湾海戦争がはじまった。

「C作戦」の「第二段階」にあらかじめ定められている通告をなせば、創価学会側は大いに動揺するだろうから、日顕らはあとは単純に「第三段階」に進めばよいと考えていたようだ。

参考までに「C作戦」の「第三段階」を以下に紹介する。ただし日付は「C作戦」立案時のままである。

「第三段階

(1)8月20日正午、宗務院内に仮称『緊急時局対策本部』を設置し、日蓮正宗管長による事態集結宣言の日まで、宗務院の一切の権限ならびに作戦指示の一切の権限を当本部に委譲せしめる。

(2)日蓮正宗管長名により、宗内一般に対し、また創価学会に対し、『創価学会は日蓮正宗とは無関係・無縁の団体である』と宣言する。さらに、同日、宗務院において記者会見を開き、テレビ・ラジオを通して日本国民一般に対して宗門の立場の正当性を訴える。

(3)創価学会員には、本人の意志を尊重し、自由に、宗門あるいは学会のいずれかをとるか選択させる。宗門を選択した場合、各末寺に信徒名簿を提出させるとともに、学会への脱会届を提出させる。(宗務院作成の規定書類を使用。)

(4)以上の経過を日本国民一般に説明する声明書を、日蓮正宗管長名により、朝日・読売・毎日・サンケイの4新聞の全国紙面1ページに3日間連続(9月2日・9月3日・9月4日)で掲載する。

(掲載費用1億2千万円。これにより、ほとんどの学会員が事態の経過を把握するものと思われる。従って、数日を経ずして、大量の学会員〔推定;10万人~20万人〕が各末寺に信徒登録のために殺到するはずである。)

(5)事態の沈静〔攻撃開始後1~2年(?)〕を待って、寺院に所属する元学会員信徒を組織化し、地区単位の連絡網を完備し、日本全土におよぶ連合会組織を作り上げる。

(6)海外組織については、国単位で、宗門側につくか学会側につくか選択させ、海外部が直接、掌握・管理・指導する」

以上が「第三段階」である。なお「C作戦遂行に際して考えなければならない事項」が「C作戦」の作戦書に付記されているが、これは福田毅道の私見であって、「西片会議」「御前会議」の直後に付けたされたもののようである。

この「第三段階」は、本質的には創価学会の団結、そして平成三年一月十五日付で発行された本紙『地涌』第15号によって「C作戦」の骨格が暴露されるなどの予想もしなかった情勢の変化により、やむなく時間をかけて実行されることとなる。

日顕は、もともと考えていた「C作戦」を変容させ、添書登山を経て十一月二十八日には創価学会の「破門」をおこなうのである。

当初、日顕らは「第二段階」の通告を平成三年早々におこない、すぐさま「第三段階」に入ろうと考えていた。日顕ら宗門中枢は、

「年末の慌ただしい時に事をおこなえば、創価学会側は組織的混乱のうちに、新年を迎える。新年を迎えれば例年どおり一月二日に池田(名誉会長)が登山してくる。その時は、総講頭ではないのだから、これまでのように合掌礼で迎えることもしなければ、特別席も設けない。それで出家と在家の力の差を見せつけ出端をくじき、蟄居閉門を申しつければよい。そのうえで、通告書を創価学会中枢に突きつけよう」

と考え、満を持していたようである。

ところが、十二月二十七日に池田名誉会長が総講頭職を解任されるや、創価学会側は翌二十八日に全国規模で支部長会、地区部長会を招集した。

出席者たちは事態の緊急性を知り、日顕の暴虐に決して屈しないことを心に期し団結した。しかも、池田名誉会長は新年になっても登山しなかった。

これは、日顕らにとって大きな誤算であった。かたくなな姿勢をとることにより、創価学会を屈服させようとする日顕らは、話し合いを求め登山した秋谷会長ら創価学会首脳に対し、「目通り適わぬ身」と、威丈高になるだけであった。

事は日顕らの想定どおりには進まなかった。全国の末寺でおこなわれた元朝勤行会では、理不尽な総講頭職罷免について創価学会幹部による末寺住職に対する厳重な抗議、追求がなされた。

この予想を超えた創価学会側の反発についての急報が、全国規模で次々と大石寺に集まった。ここにおいて「C作戦」は、その緒戦から変更を余儀なくされた。

創価学会は団結し、末寺住職の多くが逆に狼狽している。この足並みの乱れた宗内の様を見て、「C作戦」を電光石火におこない完結させるだけの機運にないことを、日顕も認識せざるを得なかったようである。

平成三年一月一日には、日蓮正宗内の僧俗有志が、わが本紙『地涌』を創刊し、日顕の不正義を宗内に報じ始めた。本紙『地涌』は、第3号(一月三日付)で平成二年十二月二十五日におこなわれた日顕と段、押木、高橋らとの密談の内容を暴露した。

日顕は、創価学会が団結して徹底抗戦をする様子に加え、重大機密が抜けていることに魂を消し飛ばし、立ち往生してしまった。

一月六日、大石寺で全国教師指導会がおこなわれた。このとき、工藤玄英・長栄寺住職によって本紙『地涌』についての質問がなされたが、すでに日顕は本紙『地涌』について恨み骨髄のようで、次のように話している。

「あのね、あの内容はね、いわゆる宗門を誹謗し、捏造が非常に多い。あの中では、本当のことはほとんどない……。本当のことも少しはあるけれども、ほとんどが捏造だ。そうするとあれは、宗門を要するに誹謗し……して、どっかの団体が、いま盛んにキャンペーンをはっているのと、全く方向性が同じだ。

だから結局ね、やっている目的によって、すべて人間の、あー、目的があって、人間は行動するんだ。『地涌』には、『地涌』の目的があるんだ。ようするに、今の段階において、あることないこと言ってだね、そしてこの宗門の○○○○を、罵詈、讒謗し、そしてこの誤解を生ぜしめるような内容の○○○○をすることは、それによって利益を得る団体がやっている。団体か何か知らんがね。そういうものがやっているということですよ。それがわかんなきゃダメだ。あれ見て、だいたい、どの方向から出ているかわかんなきゃ、黙っていろ」

さらに工藤玄英住職が本紙『地涌』の内容について、「今日の問題にまったく関係ないとは言えないのではないか……」(趣旨)と疑問を投げかけたことに対して、「そんなことはないよ。あんなものはね、紙クズのようなもんなんだよ」と、吐き捨てるように日顕は述べている。

このとき、工藤住職は『大白蓮華』(平成三年一月号)に日顕が寄稿している「新年の辞」と題する文において創価学会と池田名誉会長を評価しているのに、いまさらながら池田名誉会長の「11・16発言」を問題にして創価学会を責めることは矛盾しているのではないかと尋ねた。

「そのテープが十二月の上旬ということでございますけれども、本年、御法主上人猊下が、『大白蓮華』また『聖教新聞』などにお載せくださいました『新年の辞』、これを拝読いたしまして、非常に私自身感動もし、また、創価学会員が大変に喜んでいるだろうと、こういう気持ちでおりました。

また、『大日蓮』を手にいたしまして、ここには猊下の日蓮正宗の信徒としてあるべき御指南がございまして、これまた本当に僧俗ともに猊下の御指南を拝していくべきこのことを、心したわけでございますが、また、役僧の方々のお言葉の中にも名誉総講頭のことに対して、かなり、その功績を称えるようなお言葉、言辞もございます。

少なくとも、十二月上旬にこのような雰囲気があったといたしまして、その中であまりにも矛盾した、この文章、むしろなにか今回の問題はこのテープだけのことではなくて、もっと奥に我々もわからないなにかがあって、こういう結果になったのではないかと、このように私自身、考えるのでございますが。

えー、もし、それがあるとするならば差し支えのない範囲でもって、そのへんのところをお聞かせいただければ幸いと存じます」

この工藤住職の質問に対する日顕の回答は、以下のようなものであった。

「あのね、ワシはね、あのー、なんだ、テープ入ったのは十二月の下旬、上旬というふうに今おっしゃいましたね。(ハイ)確かにそうなんだよ。

だけども、私があの『大白蓮華』や『聖教新聞』の原稿を書いたのは、十一月の、えー、十八日頃だ。あー、うん。その頃書いて、二十、二十一日の御会式の時に渡したんだ。そこへ、だからもうね、テープが入るずっと前に、あれは書いて渡している。しかし、流れがあるからね。前からの、前々からの流れがあるから、おかしいと思っても、やはりその流れに沿ったかたちでやっぱりね、あるんですよ。それが、すなわちそうなんだから。それがね、そんなのにいちいちつき合ったらしょうがないよ」

この日顕の発言は大ウソ。「河辺メモ」に明らかなように創価学会攻撃をし作戦目的とする「C作戦」は、前年の夏に日顕を中心に「西片会議」「御前会議」で打ち合わされていたのである。

紛れもなく、日顕は創価学会に対し破壊しなければならないとまで悪感情を抱いていながら、『大白蓮華』に掲載する「新年の辞」にはウソを書いたのだ。このことについては、先述した。

ともあれ、真実は工藤住職が、「むしろなにか今回の問題はこのテープだけのことではなくて、もっと奥に我々もわからないなにかがあって、こういう結果になったのではないか」と指摘したとおり、背景には「C作戦」という一大謀略が横たわっていて、池田名誉会長の「十一・十六発言」を日顕らは創価学会攻撃の口実にしただけだったのだ。

日顕らは、「C作戦」という謀略の存在を、懸命に隠そうとしていた。日顕が「C作戦」をひた隠しにし、ウソで塗り固めた発言をしていることも知らず、日顕の発言に同調の拍手をしたり、「そのとおり」と掛け声をかけている教師たちのなんと哀れなことか。所詮は、日顕らに操られ利用されているだけなのである。

日顕は利己主義、秘密主義で、可愛いのは、ほんの一握りの身内だけ。この日顕の本性を見抜かなければ、日顕に利用されるだけ利用されて己が人生を棒にふることになりかねない。

日顕の話すこと、おこなうことの多くはウソである。いや、肝心なことはすべてウソと言ったほうがいい。幼児性丸出しの日顕は、みずからが、“法主”として、いかなる社会的立場におかれているのか理解できないのである。

一人よがりでウソをつき通せば、日顕を溺愛した母・スマがいつも許したように、世間もまた自分を許してくれると思っている。その甘えに、僧社会という閉鎖社会独特の独善的論理が重ね合わされる。

世界宗教を率いる“法主”であることを自負しながら、内面世界は父・日開が“法主”として数十カ寺程度を束ねていたころの田舎寺たる上野村・大石寺に漂う。日顕は社会的責務を問われる巨大宗教の長たることよりも、住職のわがままが誰に気がねすることもなくまかり通る田舎寺の主であることを望んでいるのである。

そのような感覚の持ち主だから、先々のことも考えず平気でウソをつくのである。そのウソを真顔で聞かなければならない宗内の僧が、そのためにどれほど苦汁を嘗めようとも日顕は意にも介さない。

秘密は腹中に隠し、口舌を弄して人を騙すペテン師・日顕が、その真骨頂を発揮したのは、同じく一月六日の全国教師指導会においてであった。

「これから、いろいろと非常に厳しいこと、大変なこと、そういうようなことが起こってくると思います。私はもう覚悟している。大聖人様のですね、こういうお言葉がありましたね。『所詮日蓮一人にて、日本国を流浪すべき身にて候』。私はもうこの御文を拝した時に涙がですね……(嗚咽)……しかし、私もまた、その覚悟をもっております……(嗚咽)……のでよろしく……(嗚咽)……私一人になっても、守ってまいります」

この日顕の演技に誑かされた教師、寺族は多い。日顕は、自分のしでかした「C作戦」が、にっちもさっちもいかなくなって泣いただけである。一九六三年三月二十日アメリカ合衆国のシアトルで売春婦とトラブルを起こし警察沙汰になり、パトカーのそばに佇んで泣いたときと同じ心境である。まったく同情するに値しない。

このように、「C作戦」を隠し、池田名誉会長の信心の「狂い」を正そうとして孤立無援の心境にあるかのように装っていた日顕だが、その腹の底には「C作戦」を凌駕する謀略を秘めていた。

それは、宗内の僧らがこぞって自分(日顕)に反抗したならば、包括法人・日蓮正宗から被包括法人・大石寺を独立させようとの企みである。すなわち、宗派である日蓮正宗から大石寺が独立し、日蓮正宗を総本山なき宗派にし、大石寺を総本山にする新しい宗派をつくるという常軌を逸した策略である。

日顕は、このことを「C作戦」立案者の関快道と密かに話し合っていた。平成二年夏の「C作戦」の立案にあたり、その作戦書をワープロに打つなどし、同作戦の立案段階から深く関与していた海外部書記(当時)・福田毅道が、この日顕の秘中の秘を創価学会側に洩らしたことがある。

平成四年十月十三日~十五日、創価学会の八尋頼雄副会長、正木正明青年部長(当時)、久野健SGIアジア局長は、福田毅道が住職をする本地寺の近くのホテル(滋賀県彦根市)で話し合いをした。このとき、福田は日顕の秘中の秘ともいえる謀略に言及している。

「実は関主任は、『C作戦』のあとにくる次の作戦まで練っていたんです。その作戦は、『C』の後だから、私は勝手に『D作戦』と呼んでいるんですが、その作戦は大石寺と日蓮正宗を分離するという作戦です。猊下が、『C作戦』を実際に発動した場合、宗務院は強く反対する。ついて来れないだろうと予測していた。したがって、その時は、大石寺を日蓮正宗から分離、独立させ、日蓮正宗を捨ててしまう。関主任の筋書きは、猊下のあとの大石寺住職に自分が納まることをねらうという魂胆だったんです」(平成四年十一月二十六日付で八尋副会長、正木青年部長〈当時〉、久野SGIアジア局長名で日顕宛に出された「通告書」より引用)

日顕が可愛いのは、わが身だけである。その低次元の思いを首尾よく成就するために、日顕は秘密主義で事を進め、あらゆる人々を欺く。この日顕の独断によって潤うのは、まずは日顕本人、つづいて息子・阿部信彰、そして、一部の取り巻きだけである。

平成二年七月に「C作戦」をめぐって「西片会議」「御前会議」が開かれたことを裏づける「河辺メモ」は、三年余りにわたり日顕が宗内の僧俗をいかに騙してきたかを示して余りある。

日顕は、この動かしがたい物的証拠が公表されても、宗内僧侶に対し前言を翻すこともなく、なおも「C作戦」は存在しなかったと装うのだろうか。

もし、そうであれば甚だしく恥知らずな“法主”である。このような“法主”に対し、「置不呵責」の姿勢をいつまでもとる者がいるとするならば、もはや、それらの人々は仏弟子ではない。

家族友人葬のパイオニア報恩社