報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十一章 仏子ぶっし反撃はんげき

地涌オリジナル風ロゴ

第721号

発行日:1994年1月1日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

宗内きってのメモ魔・河辺慈篤自筆の極秘メモによって
日顕一派の悪だくみ「C作戦」の存在が完全に裏づけられた

日顕が平成二年十二月二十七日、「C作戦」にのっとり、池田名誉会長を総講頭職より実質罷免にしてから、はや四度目の正月を迎える。

この間、日蓮正宗は衰微の一途をたどっているが、その原因の一切は「C作戦」を率先して断行した日顕にある。したがって、「C作戦」の真相を知ることは、日顕の悪業に迫ることになり、悪心を知ることでもある。

今回、日顕らの企てた謀略「C作戦」の真相を知るうえで、またとない資料が平成六年一月一日付の『創価新報』によりスクープされた。日顕の懐刀といわれる河辺慈篤が、極秘裡に記録した「河辺メモ」が世に出たのだ。

これを契機に「C作戦」について再考することは、宗史に残る未曾有の混迷の原因を解明するうえで実に有意義なことである。

本紙『地涌』は、新年の冒頭を飾るにふさわしいテーマとして「C作戦」を選び、それにまつわる話題を数回にわたり連載する。「C作戦」が日顕ら宗門中枢によって、練られ謀議されたのが平成二年夏、以来、三年有余の時を経たが、「C作戦」はいまだに究明すべき大問題なのである。

宗門が企てた「創価学会分離作戦」は、別名「C作戦」と呼ばれる。「C」とはカット(CUT)の略である。「C作戦」の作戦書の冒頭には、〈目的〉と銘打たれた項目があり、作戦目的が明示されている。

「この計画作戦の目的とするところは、池田名誉会長を総講頭職から解任し、日蓮正宗は創価学会とは無縁の宗教団体であることを一般世間に公表し、創価学会組織の徹底壊滅を図り、もって純粋なる信仰に基づく金甌無欠の組織の再編成を目的とする」(「C作戦」の作戦書より一部抜粋)

宗門側の野心は、この文に端的に示されている。まず、創価学会員に以下の(1)(2)の大ショックを与える。

(1)池田名誉会長を日蓮正宗法華講のトップの地位である総講頭職より解任。

(2)日蓮正宗は創価学会とは無縁の宗教団体である、すなわち創価学会を「破門」処分にし、それを社会的に公表する。

この二大ショックにより創価学会員を動揺させ、まず創価学会組織を「徹底壊滅」し、信徒組織の「再編成」をしようとしたのである。

再編成される信徒組織が新たな檀徒組織であることは念を押すまでもない。「純粋なる信仰に基づく」などと書いてあるが、これは堕落した出家の側にとって都合のよい檀徒のことを指している。

かつての法華講のように、葬式や法事に際し、おとなしく供養のみして、折伏もせず謗法払いもしない檀徒組織の形成を図ったものである。

広宣流布を主体的に担ってきたのは創価学会である。その中核は、いうまでもなく創価学会三代にわたる歴代会長である。

「C作戦」は、日夜、死身弘法の戦いをもって広宣流布を推し進める池田名誉会長を追放し、広宣流布を担う創価学会を破壊しようとしたものであり、それはとりもなおさず広宣流布そのものの破壊にほかならない。

もし日顕らが、いまになって言い訳がましく言っているように、創価学会の活動の在り方において教義上の間違いがあると思っていたのであれば、なんらかの教導をなすべきであった。

ところが、事実は「C作戦」を宗門中枢の限られた者によって事前に極秘のうちに練り、創価学会側が抵抗すれば強硬処分をおこない、創価学会側が譲歩すれば、それにつけ込もうとしていたのである。作戦の根底に慈悲は認められず、ただ憎悪、野心、欲望などが認められるだけである。

つまり、日顕らは“法主”あるいは僧としての立場をみずからかなぐり捨て、慈悲に基づく教導などとは似ても似つかない謀略に腐心していたことになる。それも、創価学会を切り崩し、直属の檀徒組織をつくるためにである。

この行為は、長年にわたり培われてきた創価学会と日蓮正宗との信頼関係を一方的に破壊しようとするものであり、「C作戦」実行の直前まで供養を受けていた事実と照らし合わせてみれば、宗門側のおこなったことは“汚い”の一語に尽きる。だからこそ、日顕宗では、今日まで公式的には「C作戦」の存在を否定してきた。あるいは「C作戦」という作戦文書は存在するけれども、それは末僧の戯事であるとお茶を濁し、宗門中枢の知るところではなかったと言を左右にしてきた。

ところが、どうだろう。今回、『創価新報』(平成六年一月一日付)が、「C作戦」の存在を決定的に裏づける物的証拠をスクープした。その、ゆるがせにできない物的証拠とは「河辺メモ」である。

日蓮正宗参議にして、北海道大布教区宗務大支院長の日正寺住職・河辺慈篤が、自筆で「C作戦」を謀議した模様をメモしたものである。

河辺は平成二年七月十六日の欄に、「西片会議」として次のように書いている。これによれば、七月十六日の夕方に日顕、大石寺主任理事・八木信瑩、仏寿寺住職・関快道、そして当の河辺の四人で夕食を共にしたことが判明する。その直後、「西片会議」がおこなわれる予定になっていた。

そこで、創価学会との争いを想定する「C作戦」をめぐっての謀議になった場合、これまでの事件処理の手腕からして、発言においてもっとも影響力のある河辺に対し、日顕が八木、関の二人をともない事前の根回しをしたものと思われる。

「河辺メモ」によれば、この夕食会において日顕は四通の投書をもとに、池田名誉会長の追放を主張したことがわかる。この日顕の主張に同調したのが、八木と関である。

もちろん、八木、関は「C作戦」を策定したときから深く関与しており、八木は根っからの反創価学会論者であり、関は創価学会出身でありながら反創価学会に変節することによって日顕に媚び、栄達をはかった者である。

日顕としては、争いごとにあってこれまで参謀総長格であった河辺を、「西片会議」という「C作戦」を俎上に乗せての正式な打ち合わせの前に、説得しておこうとしたと思われる。

河辺は、池田名誉会長主導で創価学会が運営され、日蓮正宗を凌駕するかたちで在家による広宣流布が推進されることに長年、不安を抱いてきた。だが、池田名誉会長存命中に、創価学会に対して日蓮正宗が何らかの支配力を強めることができるとは考えてはいなかった。

河辺は、池田名誉会長死去のときまで、日蓮正宗による創価学会支配の意思は隠しておくべきであり、死去にともなう混乱に乗じ、創価学会に対し一つも二つもタガをはめるべきだと考えていた。

日顕もまた、河辺が常日頃、創価学会を支配するチャンスは池田名誉会長の死去のときしかないという持論を献言してきたことを重々承知していたので、創価学会攻撃を短兵急に進めることを決する「西片会議」を前に、事前に河辺を説得する必要を感じていたのである。

河辺は現実主義者だから、創価学会の力、池田名誉会長の力を宗内において、もっとも評価している。この河辺の認識力は、出家であるが故に高慢になり、物の本質を見る眼を失ってしまう傾向にある他の坊主らと異なるところであった。

河辺慈篤は小学校卒の学歴しかなく、血族的な引きもないのに、日顕の格別の取り立てをもって北海道大布教区宗務大支院長にまでなった。日顕の信頼も抜群であり、それにふさわしいだけの「戦歴」も持ち合わせている。

日顕が反日顕派の溜まり場となっていた正信会を、宗外に追放できたのは、ひとえに河辺の政治手腕と行動力のおかげだった。にわかに「C作戦」を唱えて日顕に媚びた関のような若僧とは、経歴、眼力ともに格段の差がある。

それだけに、日顕が「C作戦」を電撃的に実行するにあたり、河辺の同意と力添えが必要だったのだ。

だが、河辺は、夕食の場における日顕や八木、関などの事前の根回しに安易に同調しなかったようだ。その後、総監・藤本日潤、庶務部長・早瀬義寛、渉外部長・秋元広学らが西片(大石寺東京出張所)に到着し、「C作戦」についての正規の会議、いわゆる「西片会議」がはじめられる。

この会議で日顕は、投書などを根拠に池田名誉会長や創価学会の不正義を説き、「池田追放」を訴え創価学会の求心力を失わせようとし、「特財・財務中止」によって財力をそぐことを「激しい口調で強調」したようである。

それに対し河辺本人が、「こんな亊を現状の宗門でやつたら両刃の剣となる. やるなら. 先づ宗門の綱紀を糺し. その上でやるべきだ」と反論。総監・藤本も、「投書は伝聞(本人に電話で問い合せ伝聞と分る)であるので.根拠に問題がある」と「諫めた」という。

これで、日顕ら「C作戦」を押し立てての即戦派は、気をそがれたようだ。結局、結論は出ず、来る十八日午前九時から「総本山大奥」で再び会議をすることで、「西片会議」を終えた。

これらの経過が、詳細に「河辺メモ」には記されている。宗内周知のことだが、河辺は宗内きってのメモ魔であり、資料収集癖の持ち主である。

河辺は、いつもそれを自慢にし、それをもって諸方面を牽制し、これまで自己の立場を保全してきた。河辺は比類まれなこれらのメモと資料をもとに、宗内で抜きん出た分析力を長年にわたり誇ってきたのである。

その河辺がメモをした「西片会議」の模様を記した備忘録は、それはそのままで一級資料としての価値を持つ。

その河辺が、七月十六日の「西片会議」から二日後に大石寺大書院においておこなわれた「御前会議」について記している。『創価新報』(平成六年一月一日付)に紹介された「河辺メモ」は次のとおり。

『創価新報』(平成6年1月1日付)掲載の「河辺メモ」のうち「西片会議」の部分

『創価新報』(平成6年1月1日付)掲載の「河辺メモ」のうち「西片会議」の部分

『創価新報』(平成6年1月1日付)掲載の「河辺メモ」のうち「御前会議」の部分

なかなかにリアルである。「大奥洋間」「新大奥」そして「大書院」と盗聴を恐れ会場を思案したことが書かれており、その「大書院」の「御前会議」も、「障子を全部開放」しておこなったことが記述されている。

これだけ用心深かったということは、それだけ重要機密についての会議をおこなったということである。もっとも、宗門にとって最大の信徒団体である創価学会を攻撃し、その組織を破壊し信徒を掠め取ろうというのだから、警戒しても警戒しすぎるということはなかっただろう。

この「御前会議」を記した「河辺メモ」を見れば、この会議においても日顕が「C作戦」の即時断行を主張したことが読み取れる。

これに対し河辺が、創価学会によって僧の「綱紀問題」つまり僧が堕落していると具体例をもって攻められ反撃されると主張。総監・藤本も、「私も河辺の云う通りと思う.今この問題をやれば両刃の剣となる」と河辺に同調。

さらに河辺は、創価学会の反撃する力が、日顕らの予想を超えているとして、「日刊の聖教を相手に戦う亊になる」と諫めた。

河辺にしても、この時点で、本紙『地涌』のようなFAX通信が、日蓮正宗内部から発信されるようになろうとは予想だにしなかったようである。これは、やや手前味噌。

さて、そのような会議の変遷ののち、日顕は「ともかく21日の池田の目通り山だ」「もう少し池田の証拠を集めて.C作戦の時を待つ」との結論に至ったようである。

その後の事態は、この「河辺メモ」のとおりに進んでいる。

八月二十九日に、大石寺においておこなわれた全国教師指導会においては、綱紀自粛が二十一項目にわたり打ち出された。その中には、

「僧侶の結婚披露宴は、努めて質素を心掛けること」

「少欲知足を旨として、行住座臥に身を慎むこと。妄りに遊興に耽り僧侶として信徒や一般から非難・顰蹙を買うような言動は厳に慎むこと」

「価格・車種などそれぞれの分を弁え、決して贅沢なものは選ばないようにすること。また、僧侶として相応しくない形や、赤い車など、派手な色は禁止する。寺族の場合も、僧侶に準じて自粛すること」

といったようなことが徹底されている。この綱紀自粛の徹底は、「C作戦」にのっとって創価学会を攻撃したときに、創価学会側から反撃されないよう下準備をおこなったものである。

この綱紀自粛は「河辺メモ」に、河辺みずから記しているように河辺本人の献言によるもので、創価学会攻撃を、「いずれやらなくてはならない問題」として捉えたうえでのことであった。信徒団体を攻撃する前に揚げ足を取られないよう、内部の締めつけをおこなったものである。

ところが、この河辺が提言した綱紀自粛に対し、「C作戦」を即実行すべしとする即戦派は快く思っていなかったようである。

「C作戦」立案に深く関わった関快道や、海外部書記(当時)の福田毅道などは「C作戦」の延期を地団駄踏んで悔しがったようである。

また、文藝春秋と連携しながら、「C作戦」の実行を固唾をのんで心待ちにしていた日顕宗御用ライター・段勲なども「C作戦」の延期の報に接し、切歯扼腕したようである。もちろん、段の実兄である本応寺住職・高橋公純ら正信会の残党も同類であった。

高橋公純は、「C作戦」の実行を延期する直接のきっかけとなった綱紀自粛について、のちに「所感」と題する文書において次のように書いている。

「宗門僧は本来広宣流布の尖兵たるべきなのに、今ごろやっとこさ、贈物とか車とか、銀座で飲むな、なんていう自粛をしているなら我々はそういう、無能者には目もくれず、広宣流布は我々だけでやろう、このような根深い不信がある事は確かです。

故に、ほんとうは綱紀自粛を打ち出すのではなく、宗門僧がいかに広宣流布に具体的に斗うか、あの時、それを打ち出すべきであったと思うのです。

信者の何倍何十倍と広宣流布、民衆救済に立っていれば、ベンツに乗って何が悪い、銀座でたまに息抜きするも、健康の為にゴルフをするも、何一つ文句を云わないはずです。それが、在家の者より広布の為に斗ってないという負い目があるから、自粛を規定しなくてはならない」

この文は、八木、関、福田、高橋などの即時決戦派の無念の思いを代弁している。かつ、坊主の思い上がりを象徴的に示している。だが、ともあれこの「所感」という文書を宗内に密かに配り、決戦の時の早からんことを高橋らは期していたのである。

この「所感」は、平成二年十一月の後半に配られたものだが、即時決戦派の高橋らが「C作戦」の中止された同年夏頃、どのような思いにあったかが、手にとるように伝わってくる。

少し話は余談になったが、平成二年七月十六日に大石寺東京出張所において「西片会議」が、同月十八日に大石寺大書院において「御前会議」が開かれたことが「河辺メモ」という動かしがたい物的証拠により裏づけられた。

この二つの会議は、河辺が克明に記しているように「創価学会分離作戦」すなわち「C作戦」をめぐっておこなわれたものであった。池田名誉会長を総講頭職から降ろし、創価学会を「破門」して、創価学会員の動揺を生じさせ、そのうえで、創価学会を破壊し檀徒組織をつくろうとしたのであった。

この事実が、日顕が懐刀とする河辺慈篤によって書かれた「河辺メモ」という物的証拠によって裏づけられたことは、実に重大なことである。

だが、「河辺メモ」をスッパ抜いた『創価新報』の今回のスクープに対し、日顕宗中枢は、またも欺瞞に満ちた言い逃れをしようとしている。その言い訳とは、「『河辺メモ』は河辺の主観によって書かれたもので、事実とは違う」というものである。

これまで日顕宗中枢は、「C作戦」は存在しないと言い、ときには「C作戦」には宗門中枢は関与していないし、話し合ったこともないと言ってきた。

だが「河辺メモ」には、

「河辺=それでは. この作戦はG作戦だ.

猊下=それは違う. Cだよ」

と明記されている。

これだけで、充分ではないか。河辺の主観の違いでも創作でもない。「西片会議」「御前会議」の主題は「C作戦」であり、池田名誉会長の追放、創価学会の「破門」、そして、創価学会の破壊と檀徒獲得の成否が話し合われたのである。

日顕は、彼らの弁明とは真反対、「河辺メモ」に記されたように、「C作戦」謀議の主体者であった。日顕らは「C作戦」を単に話し合っただけではない。実行したのである。日顕らは、その後「C作戦」を腹蔵し、創価学会攻撃の口実が生じるのを満を持して待っていたのだ。

日顕らは、創価学会を破壊し檀徒を得る目的で、平成二年十二月二十七日、池田名誉会長を突如として総講頭職より実質的に罷免したのである。これは解説するまでもないが、「C作戦」が断行されたということである。

「C作戦」には、作戦次第として次のように書かれている。

「第一段階(平成2年8月28日、臨時宗会において議決する。)

必要なる宗規の改正。[第158条、第223条、第226条、第227条、第228条等]

第二段階(平成2年8月13日、連絡会議の席上で通告する。同日、宗務院の指示により、全国末寺御講において、三宝の権威の称揚と信徒の三宝帰依の義務を内容とする統一法話の実施。)

池田名誉会長の総講頭職からの解任ならびに創価学会最高幹部への通告。

(1)日蓮正宗管長名の免辞令の発行。(手渡し。即日、請け書提出。)

口上書(案)

「貴殿におかれては、長年にわたり法華講総講頭の要職を務められ、誠に御苦労様でございました。本年、開創700年にあたり、新時代の広宣流布は新体制のもと、新たなる前進を開始したいと思います。ここに御書一部を贈呈し、感謝の意といたします」

(2)創価学会最高幹部への通告。[秋谷栄之助会長および森田一哉理事長宛]

(手渡し。回答期限:8月20日正午。)

通告書に盛り込むべき内容(案)

[できるだけ学会側が受け入れ難い内容とすることが望ましい]
(1) 「このたび、御法主日顕上人猊下におかせられては、総本山大石寺開創700年を迎え、新体制のもと新たなる広宣流布の前進を開始したいとの決意を表明されました」
(2) 「そして、池田名誉会長には、法華講総講頭職を勇退していただきました」
(3) 「今後、創価学会においては、日蓮正宗の外護団体として宗教法人創価学会の規則に忠実に従い、会長および理事長を中心として、宗門と一体となって貴会の運営をしていただきたいと存じます」
(4) 「今後、池田大作氏は、名誉会長の称号のみの立場の人となっていただき、宗門から教導を求めないかぎり、自宅にて待機願います」
(5) 「池田大作氏に対する給料については、従来通り、支払ってよろしい」
(6) 「第一庶務は、解散することを命じます」
(7) 「創価学会の法人責任役員の過半数を、日蓮正宗管長の指名する僧侶が占めることを命じます」
(8) 「聖教新聞等の学会発行の新聞・雑誌には、今後一切、池田名誉会長に関する記事を掲載することを禁止します」
(9) 「創価学会の中央会議、本部幹部会等の主要会議には、必ず宗務役職員の出席を願い出ることを命じます」
(10) 「各都道府県ごとに、宗創一体となる連絡会議を、月1回、必ず開催することを命じます」
(11) 「海外組織については、宗務院海外部の直接指示に従うよう命じます」
◎この時点で、学会側が全面的に宗門からの通告を受け入れるならば、当作戦は完了・終結する。しかし、学会側が上記通告をすなおに受け入れる可能性はほとんどない。また、学会側が部分的に受け入れたとしても、それは宗門として納得できないものであろう。ゆえに、宗門としては、次ぎの段階に進まざるをえない」

この「C作戦」に明記されたように、創価学会側が宗門の通告を受け入れれば、それをもって完全服従をさせようと企てていた。

だが「通告書」は、「C作戦」に明記されたように、「できるだけ学会側が受け入れ難い内容とすることが望ましい」としてつくられたものである。日顕らは、創価学会が屈服するよりは反抗して自滅することを望んだのであった。

悪比丘らが高僧面をして、このような謀議を真顔でおこなっていたことが、いかにも末世らしい。その会議の内容を、もっとも克明に記したと思われる「河辺メモ」が、どのような経路を踏んだかは知るよしもないが、創価学会側に渡り社会的に公表される。

日顕一派の悪運も、ここに尽きたと言える。これを機会に、和合僧団破壊の日顕らは、徹底して追撃されるべきである。

家族友人葬のパイオニア報恩社