報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十章 霊山りょうぜん未散みさん

地涌オリジナル風ロゴ

第704号

発行日:1993年10月15日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

「幾多の虚構の弁解を作出し虚偽の証拠を提出」したと
裁判長より弾劾された山崎がまた同じ“偽証”をしている

恐喝犯にして詐欺師の山崎正友が、再びマスコミに登場して虚偽の「証言」をおこない、創価学会や公明党を傷つけようと策謀している。

山崎は、かつて創価学会に対する恐喝をおこない、そのため懲役三年の実刑を受け、本年(平成五年)四月まで栃木県の黒羽刑務所に服役していた。

現在、出獄しているとはいっても、山崎は仮出獄の身である。本来なら罪を悔い反省し、社会復帰のために更正の日々を送るべきである。

ところが山崎は、自分が被害を及ぼし多大な迷惑をかけた創価学会などに謝罪するどころか、逆恨みして仕返しをしようとしている。これは、俗に“お礼参り”と呼ばれる行為で、社会的にも絶対に許されない、もっとも悪質な犯罪なのだ。

しかし、この極悪の犯罪者がおこなう“お礼参り”に手を貸したマスコミ、または手を貸そうとする政党がある。

『週刊新潮』(平成五年十月二十一日号)は、「神崎郵政大臣は『盗聴仲間』だった」と題する「元創価学会顧問弁護士 山崎正友」の「手記」を掲載している。

この「手記」の中で山崎は、公明党の神崎武法郵政大臣が昭和四十五年に起きた宮本顕治・日本共産党委員長邸の電話盗聴事件に関与していたかのように書いている。

同事件は当時、創価学会の学生部幹部だった山崎が数名の学生に命じ実行させた、謀略家・山崎ならではの反社会的行為である。

山崎は、みずから「しでかした」(山崎は自著『盗聴教団』で、このように表現している)この電話盗聴事件と神崎郵政大臣を結びつけることにより、二十数年も前の事件を現在の国政問題にして蘇らせようとしているのである。

「神崎郵政大臣は『盗聴仲間』だった」

なかなか刺激的なタイトルである。それでは、この「手記」の中で、神崎郵政大臣の同事件への関与について、山崎はどのように述べているのだろうか。

「昭和四十五年八月一日から三日間、大石寺で行われた夏季講習会に、現職検事であった神崎氏と福島啓充氏(当時札幌地検検事)が出席し、私は宮本邸電話盗聴事件の後始末のあり方を、二人に相談したのだ。

アジトの撤収、機材の回収、実行に関与した人間の隠匿等、私の証拠湮滅工作の全体を話すと、福島啓充氏は『バレることはないから、知らんぷりしていなさい』と言った。神崎氏は、さすがに問題の重大さに気づいてイヤな顔をしたが、結局、福島氏の方針に同意したのである」(『週刊新潮』平成五年十月二十一日号より一部抜粋)

タイトルが刺激的なわりには、山崎がデッチ上げた神崎郵政大臣の同事件への関与は、きわめて希薄である。要するに、夏季講習会で会ったときに事後の相談をしたことがあるというだけだ。

山崎は、自著『盗聴教団』の中で、宮本邸の電話を盗聴するために借りていたアジトの撤収について、「(七月)七日夜であった」〈カッコ内、筆者加筆〉と述べている。

この『盗聴教団』の山崎の記述と、今回の『週刊新潮』の「手記」を合わせると、アジトを撤収し、すべてを終えた約一カ月後、当時、検事をしていた福島氏、神崎氏と夏季講習会でたまたま会ったときに事後の相談をしたということになる。山崎の主張する「関与」というには、あまりにも希薄な出来事だけで、「神崎郵政大臣は『盗聴仲間』だった」というタイトルをつけ、大々的に新聞広告や車内の中吊り広告を出した『週刊新潮』の姿勢は、なにはともあれ、まずは批判されてしかるべきものだ。

山崎はこの「手記」の中で、神崎氏の同事件への関与について、

「この事実はすでに、昭和五十五年から始まった共産党による民事裁判の法廷でも私が証言し、記録に残されていることである。だから、彼がこの事件に関与していないなどと言うのはとんでもない言い逃れであり、元検事、現閣僚としては許されないウソの発言なのである」

としている。山崎は、かつて自分が法廷でこのように「証言」していたのだから真実だと言うのだが、山崎の過去の性向に照らせば、これこそ噴飯物の言い回しである。

山崎が自慢げに書いている、この民事裁判における山崎の神崎氏に関する「証言」は、実は反対尋問によって完璧に崩され、大ウソであることが明白となっているのである。山崎は、その民事裁判において、

「総本山での学生部夏季講習会の冒頭の講義担当者会において、池田会長(当時)より『君はこんなところにいる立場ではない。すぐ帰ってすることをしろ』と叱られ、下山の報告書を書いて雪山坊に提出し外に出た。そして近くの宿坊にいた神崎氏ら三人の検事と会って相談した」(趣意)

ということを当初は証言していた。ところが、ただちに下山したはずの山崎だが、反対尋問において、この間ずっと総本山にいたことを証明する写真を何枚も突きつけられたのだ。

総本山から帰った事実などまったくなく、最後までいたことが明確になるや、ついに、みずから「記憶違いだった」と証言を撤回せざるを得ないハメに追い込まれたのである。

まさに、民事裁判で神崎氏の関与を言い立てた部分が、反対尋問で絶対に動かぬ証拠である写真を突きつけられ、もろくも崩れ去ってしまったのだ。

ちなみに、その写真は聖教新聞社が報道のために撮った写真である。そのほか、山崎が写っている動かぬ証拠といえる写真が何枚もあり、山崎は法廷で完全に立ち往生してしまった。

しかも、裁判では「三人の検事と会って相談した」と言い、『週刊新潮』では「二人に相談した」となるなど、そのいいかげんさは目にあまるものがある。また、今回の「手記」で言う「八月一日から三日間」というのは、民事裁判で山崎が撤回したそのものの日付である。

日にちも違い、相談した人数も違い、四囲の状況も流れも、かつて自身が「証言」したことと違うことを、山崎は再び「手記」に書き散らしたのだ。

裁判で「証言」したことと「手記」の内容が、このように違うのは、もともと根拠のない話だからである。しかも、民事裁判では神崎氏の件は裁判の大筋には関係なく、裁判長もまったく判断を下していない。

これをみても、いかに山崎という人間がいいかげんで、かつ大ウソつきであるかが知れるのである。

今回の『週刊新潮』の「手記」は、民事裁判で、みずから「記憶違いだった」と撤回した部分を、そのまま言っているだけのことであり、裁判で完膚なきまでに突き崩された山崎「証言」をもって、「神崎郵政大臣は『盗聴仲間』だった」とまで囃す『週刊新潮』編集部の罪は重い。

山崎は、この宮本邸電話盗聴事件において、そのほかにも偽証をしている。山崎のかつての部下であった北林芳典氏が、同事件に明らかに関与していないことを山崎は熟知していながら、北林氏が山崎の悪をマスコミなどを通じて暴いたことを逆恨みして、同氏に同事件関与の“濡れ衣”を着せた。

山崎は法廷で、「盗聴器撤去の時、北林は車に乗ってHと共に見張っていた」(趣旨)と「証言」した。

だが、北林氏、H氏ともに当時、普通自動車免許を持っておらず、山崎の虚偽の「証言」は簡単に足もとから崩れてしまった。免許を持っておらず運転のできない者が車に乗って待機していて役に立つはずがない。

山崎による北林氏に対する、この虚偽の「証言」について、判決文は次のように指摘している。

「盗聴器撤去の際の被告北林の関与について、被告山崎は、本件以後、酒の席で被告北林からこれに関与していたことを聞いた旨供述しているけれども、その様な極秘にわたる事柄を他人に聞かれるおそれの極めて高い場所で話すということは通常考えられることではないし、《証拠略》によれば、被告北林は、本件電話盗聴当時自動車運転免許証を取得していなかったことが認められるのであるから、盗聴器撤去という被告廣野、同竹岡にとって重大な作業に、とりたてて役に立つわけでもない被告北林を自動車内に待機させておいたということも不自然である。この点についての被告山崎の供述は、直ちに採用することはできない」

このように山崎は、宮本邸電話盗聴事件における裁判においても、かつての部下である北林氏が山崎に不利な事実を公言したことに腹を立て、北林氏をおとしいれる目的で偽証をおこなっているのである。もちろん、北林氏の盗聴関与は裁判の判決で否定され、北林氏の潔白は証明された。

以上のように、山崎の数々の「証言」が人をおとしいれる目的でおこなわれたというこの事実は、きわめて重要な意味を持つ。

さらに、この民事裁判が提起された経緯は、恐喝事件の捜査段階で迫りくる自分の逮捕をまぬかれようと、山崎が自分で日本共産党に話を持ち込んだことが発端であり、関係のない人間にまで関与の輪を広げ、この事件を大きく見せようとしていたのである。

したがって、まったく無関係の北林氏の関与を言い立てたり、神崎氏の関与を捏造したり、さらには、昭和四十五年当時、まったく知り合ってもいなかった法律事務所に勤めるO氏まで引っ張り出し、盗聴への関与を吹聴したのが山崎であった。

それらをまず確認したうえで、山崎の『週刊新潮』の「手記」が服役者の怨念に基づいて書かれた、取るに足らないものであることを理解しなければならない。

山崎の並はずれた怨念は、この「手記」にも明確に認められる。山崎は「手記」の末尾に、次のように書いている。

「十月六日の衆議院予算委員会では、自民党の野中広務代議士が改めてこの問題で神崎郵政大臣をただし、神崎氏の否定答弁に納得しない野中氏は、私の証人喚問を要求したが、要請があれば、私は喜んで喚問に応じるつもりである。

しかし、私としては、神崎郵政大臣の首を取ることだけでは満足しない。目標は、池田大作を引きずり出すことだ」

「手記」の末尾に、山崎がみずから書いているこの文に、誰もが服役者としての山崎の怨念を感じるだろう。

山崎は、自分が服役するキッカケをつくった告訴人である創価学会、とりわけ、そのトップである池田名誉会長を国会喚問に「引きずり出」し、政争の具に供してイメージダウンを計ることで報復しようとしているのだ。

これが、山崎が「手記」を執筆したまぎれもない本心であり、目的なのである。この山崎の不純な目的に、『週刊新潮』編集部は誌面を提供したのである。

同様の報道姿勢は、『週刊実話』にも認められる。『週刊実話』(平成五年十月二十八日号)は、山崎へのインタビュー記事を掲載している。ここでも、山崎は怨念の故に言いたい放題のことを言っている。

「神崎氏は盗聴の関与を否定しているということですが、検事を務めた人物がはっきりわかるウソを付いてはいけません。元検事の肩書きが泣きますよ。みっともない……」(『週刊実話』平成五年十月二十八日号より一部抜粋)

ここまでうそぶく山崎の発言を読むと、創価学会の顧問弁護士でありながら、「宗門との軋轢を煽り創価学会を危機に陥れるぞ」と、創価学会を恐喝した山崎自身はどうなんだと反論したくもなる。顧問先を恐喝する弁護士ほど、あくどい者はいない。

だが、山崎は二年半服役したにもかかわらず、前非を悔い改めることもなく、被害者を逆恨みし奸計を巡らし、誹謗を繰り返している。いまだに、良心は完全にマヒしてしまっているのだ。

もっとも、山崎のこの性向は入獄前においても顕著だった。山崎は、裁判の過程において、考えられるかぎりのウソを羅列し創価学会を攻撃した。また、あらゆるマスコミを利用して、創価学会やその関係者に対する中傷をおこなった。

恐喝犯にして詐欺師の山崎は、みずからが被告人となった刑事裁判においても、弁護士としての法知識を悪用して、実に始末の悪い偽証工作をおこない、その多くを裁判官に見抜かれている。

昭和六十年三月二十六日、山崎は東京地裁において創価学会に対する恐喝の罪で懲役三年の判決を受けたが、この裁判における山崎の偽証工作は裁判官に喝破され、判決文の中で次のように厳しく弾呵されている。

「なお、被告人は捜査段階から本件事実を否定するのみならず、公判では幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の証拠を提出するなど、全く反省の態度が見られない。

以上のように考えると、本件は犯情が悪く、被告人の罪責は重大であるといわなければならない」

事実、山崎は法廷において平気でウソをつき通しているし、あるときは他人を使い、あるときは書類を偽造するなど、言語道断の偽証工作をしている。山崎は、その天性ともいえる悪の本質を裁判官に見抜かれ、判決文に明記されたのである。

この山崎の性向を知れば、現在、山崎が犯意をもって神崎郵政大臣をおとしいれ、公明党、ひいては創価学会に社会的批判を集中させようとしているという、事の本質を容易に見抜くことができる。

すべては、山崎正友の怨念と反社会性に帰するのである。

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