報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十六章 宝珠ほうじゅ亡失ぼうしつ

地涌オリジナル風ロゴ

第544号

発行日:1992年11月8日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

謗法まみれになり七百年を生き長らえた日蓮正宗の姿は
衣裏に宝珠をつけて彷徨した哀れな男の姿を想起させる

常泉寺は幕府権力に癒着し、謗施を受け、栄華を極めた。常泉寺は、一末寺としては破格の「御朱印」を幕府から下された。この過分の待遇の背景には、常泉寺七代住職の“日顕”と天英院とのかかわりがある。

江戸時代において、日蓮正宗の大檀那であった天英院は、寛文六(一六六六)年、京都に生まれた。父は関白太政大臣近衛茎熈、母は後水尾天皇の第一皇女級宮である。天英院は延宝七(一六七九)年に徳川家宣の正室となった。

“日顕”は、天英院の乳母の子供である。その縁により“日顕”は京都にいたころから、天英院の母の寵遇を受け、天英院が徳川家に輿入れする際、護持僧としてともに江戸に下った。やがて“日顕”は常泉寺七代住職になり、天英院は常泉寺の大檀那として同寺の繁栄を支える。

宝永七(一七一〇)年、天英院と“日顕”のつながりから常泉寺に家宣の養女を葬うことになった。その際、幕府は家宣の養女のために常泉寺に三十石の朱印を与え寺地三千四百坪を下した。

本山である大石寺が、寛永十八(一六四一)年に幕府より下された朱印は六十六石八斗五升である。末寺の常泉寺がいかに破格の待遇を受けたかがわかる。

また、翌正徳元(一七一一)年には、幕府から江戸城本丸の御客御殿を常泉寺に下賜された。さらに、正徳四(一七一四)年には、天英院より本堂造営のため千五百両も寄進されている。

徳川家の家紋である「葵の紋」を常泉寺の本殿、客殿、書院の釘隠し、屋根瓦の所々に使うことも許されている。このように、常泉寺は幕府や天英院から莫大な庇護を受けた。

この天英院も寛保元(一七四一)年二月二十八日、死去する。遺言によって常泉寺に天英院の遺品が奉納された。

『富士宗学要集』によれば、天英院の遺品として、大聖人の木像、位牌、大聖人の御真筆の曼陀羅を常泉寺に納めたと記されている。

「一、天英院様御持仏之有り候御本尊仏(大聖人木像)且亦応円満院殿無上法院(級宮常子内親王)予楽院殿(近衛基熈)妙教殿(妙敬日信豊姫)本乗院殿(斎宮御方)如是観院殿御位牌常泉寺え遣はさるべき由、天英院様思召に付き遣はされ候、之に依て御金百両下され候、公儀より一切御構は之無く候間其以後之を存ずべく候、以上。(寛保元年)三月
一、天英院様御所持遊ばされ候、日蓮真筆の曼陀羅(仙師授与)一幅此度遣はされ候間、随分大切に仕り寺の什物に仕り毎年二月十五日十六日廿八日、七月十六日十七日、十月十三日十四日十五日、右の通掛け置き参詣の者ども拝ませ申すべく候。

 (寛保元年)四月」(『富士宗学要集』第八巻より引用)

しかし、常泉寺に納められた天英院の遺品は、これだけではなかったようだ。

「新編武蔵風土記稿」(『本所区史』=編集兼発行者・東京市本所区 昭和六年六月二十五日発行=に収録)には、

「坐像釈迦仏一躯(後水尾院法華経題目書写し給ひし紙をもて、御手づから作らせ給ふ。糢糊の像にて、第一皇女級宮御方に御形見として進ぜられしを、天英院殿に譲らせられ後当寺に納めたまひしなり)」

と記されており、『江戸から東京へ』(中公文庫 矢田挿*雲著)には、この「坐像釈迦仏」については、「天英院他界の後当寺に納まったものである」と記述されている。

そのほかにも、常泉寺に「宝物」として納められた天英院に縁のあるものとして、「新編武蔵風土記稿」には、次のように記されている。

「伽羅仏立像正観音一躯 立像毘沙門一躯(文昭院殿御守本尊なり)四天王四躯(元文の頃天英院殿御帰依にて浅草長遠寺より当寺に移されし像なり。以上六躯は昔別に堂ありてそれぞれに安置せしが、天英院殿三十三回御忌に当り御仏殿等御修造遊ばされし時、何れも御取払となりし故其後は宝蔵に安置すと云)」

徳川家宣の守り本尊の立像観音像一躯、立像毘沙門像一躯。また、天英院により浅草長遠寺から常泉寺に移された四天王像四躯。これらの六躯の像は天英院三十三回忌(西暦一七七三年頃)に宝蔵に安置されるまでは、それぞれ別の堂に安置されていたのだ。

なお、これらの像は、文脈からみて、天英院生前に常泉寺に寄進され祀られたものと思われる。総本山そばの「広宣流布された村・半野地区」同様、謗法が御本尊とともに常泉寺内に混在し祀られていたのだ。常泉寺は、このようにして栄えていたのである。

「新編武蔵風土記稿」には、常泉寺に「鬼子母神堂」があったことも記している。「鬼子母神堂」については、次のような但し書きがなされている。

「鬼子母神堂(天英院殿御寄付の像にして浅草妙音寺より移されしものなり)」

常泉寺内の「鬼子母神堂」は、天英院が浅草妙音寺からわざわざ鬼子母神像を常泉寺に移して祀ったことを縁起とする。

これが“富士の清流”の実態である。謗法の者から布施を受けないとして、不受不施派の多くの寺が徳川幕府から徹底弾圧を受けていた頃、常泉寺は幕府から謗施を受けて潤い、随所に「葵の紋」を飾り権勢を誇っていた。

それも、大檀那・天英院から寄進された観音像、毘沙門像、四天王像を堂を造って祀り、その他、邪宗の寺から移した鬼子母神まで祀っていたのである。

まさに、謗法まみれの常泉寺である。謗施にありつくために、日蓮大聖人の教法を忘れ去ってしまった売僧の姿がそこにある。この常泉寺のありさまを見れば、身延派などの邪宗とどこが違うのかと思うだろう。

先号で、天英院からの供養も謗施ではないかと記したのは、以上の理由からである。天英院は、どうやら日蓮大聖人の教法を理解していなかったようである。というより、富士大石寺派の僧のいずれも、大檀那に真実の日蓮大聖人の仏法を教えなかったのではあるまいか。

日精上人が、常泉寺を天台宗から宗旨替えさせたのが、寛永十五(一六三八)年であるが、そのおよそ四十年後、常泉寺に謗法が安置されていた。常泉寺を帰伏させた日精上人の代は、釈迦仏造立の大謗法がおこなわれたが、この常泉寺のありさまを見るにつけ、釈迦仏造立などは大石寺門流の謗法の一角に過ぎないと思われる。当時、常泉寺同様の謗法まみれの末寺が、日蓮正宗にはたくさんあったにちがいない。

ちなみに、天英院が江戸に下ったのは延宝七(一六七九)年、大石寺貫首は第二十一世日忍上人。天英院が逝去したのは、寛保元(一七四一)年、大石寺貫首は第三十一世日因上人のときであった。

なお、『日蓮正宗富士年表』(富士学林刊)は、常泉寺にまつわる謗法の事実を意図的に隠し記述している。

時は下り、謗法に染まり謗施を受け生き長らえた富士門流が蘇ったのは、仏意仏勅の団体である創価学会が現れたことによる。

いま日顕宗の者のなかには、日蓮大聖人の教法を現代に伝えた日蓮正宗代々の“法主”や僧に感謝しろと、しきりに言う者がいる。しかし、史実を見れば、それはまったくの逆で、牧口、戸田、池田の三代にわたる創価学会会長の不惜身命の戦いにより、日蓮正宗が謗法まみれから抜け出し救われたのである。

そのうえ、創価学会に集った地涌の菩薩より膨大な供養を受け、日蓮正宗は繁栄した。感謝すべきは日蓮正宗の側である。

釈迦は法華経五百弟子受記品第八において、衣裏珠の譬を教えている。衣裏珠の譬えとは、

「ある貧しい人が親友の家に行き、もてなしを受けて酒に酔い眠ってしまった。その親友は急ぎの公用のため、出かけなければならなくなり、無価の宝珠と呼ばれる珠を熟睡する彼の着物の裏に縫い込んでいった。貧しい男は、それとも知らず、国々を流浪し、貧窮した姿で再び親友を訪れた。親友はそれを見て驚き、宝珠のことを聞いた。その人が着物の裏を調べてみると宝珠があり、豊かな生活をすることができるようになった」(『新版 仏教哲学大辞典』聖教新聞社刊より引用)

ということである。

この説話に出てくる、着物の裏に縫い込まれた宝珠を知らないで貧しいまま放浪する男と、宝珠が自身の着物にあることを教えた男と、どちらが感謝される正当な対象だろうか。言わずと知れたことである。

それにしても、釈迦の説法で、宝珠が着物の裏にあることを教えた男と、宝珠を着物に縫いつけた男と同一人物とされていることは実に興味深い。今日の創価学会と日蓮正宗の関係が、そのまま当てはまる説話である。

この釈迦の教えは、衆生に本より仏性が備わっていることを示したものだが、日蓮正宗が謗法にまみれて七百年もの間、彷徨してきた史実は、衣裏に宝珠があるのも知らず放浪した男の姿を彷彿させる。

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