報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十三章 法主ほっす女犯にょぼん

地涌オリジナル風ロゴ

第429号

発行日:1992年5月31日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

「ボンクラどもが千人万人おるよりも仏様一人が正しい」
日顕は衆生を「ボンクラども」と言い自分を「仏」と言う

五月二十八日、大石寺において寺族同心会がおこなわれた。

寺族同心会では、最初に総監の藤本日潤が話をし、つづけて活動報告として高橋粛道(愛知県・浄顕寺)、沼田凡道(青森県・専妙寺)、河辺慈篤(北海道・日正寺)、そして最後に日顕が話をした。

その寺族同心会での日顕の話を注意深く聞くと、現在の日顕宗がかかえている深刻な問題が手にとるようにわかる。日顕や宗務院を批判するグループが、宗内で横の連絡をとり合って結合しはじめていることに、日顕がひじょうに敏感になっているのだ。その反日顕勢力に対する牽制を日顕自身がおこなっているのである。

日顕が公の場で、このようなことを話さなければならないということは、反日顕勢力の動きを日顕が無視できなくなったということにほかならない。

日顕は話の冒頭で、宗務院のやり方に批判的な者が宗内にいると述べている。日顕は、「宗務院のやり方に批判的な者」と言っているが、実際は自分に対して批判的な者がいるということについて不快の念を示したものである。

「自分の考え方だけでこうあるべきであるというような考えをもちですね、またそれを互いに話し合って、そのところから何かこう今の宗門の在り方がおかしいんだ、宗務院の連中は何をやってんだかというようなところより、言ってしまうような声も時々聞くのであります」

日顕は、こう述べたあと、

「しかしこれはですよ、もちろん互いに異体同心のうえから、そういうことは、それがさらに発展して、非常に困った姿になるということは、まず今日ないと私は確信しております」

と、自分への不満が手に負えない程度になりはしないかという不安を逆説的に表現している。その日顕の不安は、いまの反日顕勢力が近い将来、正信会的な動きになるのではないかというものである。

この日顕の動揺する心を素直に表現しているのが、次につづく正信会の話である。

「ところが、勢いづいた正信会の魔もの共が、どうにもこのー、先走ってしょうがない。私も、御遷化(筆者注 日達上人の御遷化)の直前からそういった在り方もありましたけれども、特に御遷化の後で顕著になってきまして、それからもいろいろな面から慰撫し、また大きな宗門の私の気持ちの中に、なんとか一致して御奉公してくれるように、願ってきたのであります。しかしそれはやはり、彼らが進み過ぎた結果、あのような経過をきたしてしまった」

日顕の心の中では、現在、宗門内に台頭しつつある反日顕勢力が、早くも正信会とオーバーラップして映っているのだ。いま宗内では、池田総講頭の実質罷免、創価学会の破門処分といった日顕のやり方と、奥湯河原の豪遊に代表される日顕一族の行躰に対し、批判的なグループの動きが出はじめている。

それに対して、日顕は反論しているのだ。またこの正信会の話は、自分の正信会処分をひっくるめての判断が正しかったということをも強調している。日顕は、正信会処分につづいて創価学会処分の正当性を強調する。

「とにかく向こう(筆者注 創価学会を意味する)から自分たちの誤りを我見の考え方に基づいてやるとかなんとか、宗門をやっつけるために一番の要としての、私を、はっきり言えば料理にかかったわけです」

日顕はウソを言って自分を被害者に見立て、正当性を主張している。身のほど知らずに、「C作戦」で創価学会を「料理にかかった」のは、当の日顕である。公衆の面前でシャアシャアとウソをつき、自分の立場を守ろうとする。悪賢い年寄りである。

日顕のとった創価学会破門の処置に対して、宗内で起きている批判を気にして、日顕は次のように強弁した。

「正しい対処をその時、その時に応じておこなってきたという、これはまさに私のような凡眼凡智の者の考えでなく、宗務院の人たち、その他、本当の異体同心の和合団結による衆知の集まりであると同時に、御本仏様、下種三宝尊の御加護と御指南があったればこそと、今本当に確信しておるのであります。そういう点で今までもきました。

昨年十一月二十八日の創価学会の破門も、その意味においての時期と内容所為のすべてが、まことに適切であったと、まあ一言にこれは我田引水に聞こえるかもしれませんが、確信しておるのであります」

これだけ宗内の僧俗が困りに困っている処分をおこない、それが仏意であったかのように述べている。そのうえ、皆の総意であったかのようにも言っている。だが、あったのは日顕の短気だけだった。日顕はケンカ早い隠居の役はできても、一千万の信徒を領導する器ではない。短気で危機管理能力ゼロの老人にしかすぎない。

日顕の自己評価は、「我田引水」といった程度に納まらない。ただただ「狂乱」しているだけのことだ。これからも、日顕は感情のおもむくまま暴虐の限りを尽くすだろう。

いまや日顕は、自分がおこなうことはすべて仏の意を体現したものであるとまで増長している。

「宗門は本当に正しい路線を正しく末法万年に向かって歩いておるのである。ゆうことが一つ。ぜひ皆様方はお考えいただき、宗務院をぜひ信頼していただきたいと思うのであります。

いままでも本当に誤りなくやってきたと思っております。これからもまず誤りなくやっていきたい。また我々の信心が御本尊様に給仕させていただいておれば、必ずそれが可能であると、ゆうことを感じておるわけであります」

「宗務院をぜひ信頼」とは、自分についてこいということを、表現を変えて言っているのだ。また日顕は、一千万人「破門」という仏教史上未曾有の狂乱の行動をとっていながら、「本当に誤りなくやってきたと思っています」と言っている。

本来、まともな宗教者であれば、たとえ自分が正しいとしても、一千万信徒を「破門」にしなければならない自己の教化力のなさを嘆くのが普通である。それを日顕は心から「本当に誤りなくやってきた」と思っているのだ。宗内の者は、日顕の狂気を一日も早く見抜かなければならない。

日顕には自省の念などまったくない。自分自身の言動が仏意だと思っている。つきつめれば日顕は、心底自分のことを“現代における大聖人様”であると考えている。

日顕は、“現代における大聖人様”である自分に従えと増長の心のままに話している。極めつけの慢心である。

「この、まずやはり今創価学会の方では、数に頼んで民主主義でやる、これはまあ、世間の考え方を仏法に導入しておりますが、御書の中ではね、基本的な意味の民主主義、民主主義の民主主義たるべき深義が示されております。それがどのような形で現れておるかと言えばむしろ、その現れ方は逆なんです。本当の仏の教え、叡知、ぶっ、叡知じゃない仏智というものは、一般民衆が分かるはずがないんですから。したがって数から言うならば、ボンクラどもが千人万人おるよりも、仏様一人のお考えの方が正しいんです。そうゆう面もこの仏法の筋目ケジメを立てる上においては、大切な意味がある。それをまったくはずれて今の彼らの肝心は、創価学会のあの大勢の人達を、民衆、民衆と呼んでですね。民主主義の総意で、そういう考え方において仏法が運営されるような言い方をする。そういうところにやはり、彼らの狂いの根本がある。ゆうこともみんなすでにご承知のことと思います」

日顕が力を込めて話している「ボンクラどもが千人万人おるよりも、仏様一人のお考えの方が正しいんです」との一言に、日顕の思いが凝縮されている。「仏様」とは、日顕にとっては自分のことである。それにしても、衆生を「ボンクラども」とは、恐れ入った「仏様」である。

この日顕という僣聖増上慢、これからも慢心のままに荒れ狂うことだろう。日顕宗の中にいる者は、さんざん苦しむことだろう。年月とともに、日顕の正体を思い知ることになる。

日顕は、脱会者づくりが思いどおりに進まないのは、寺族のせいだと思いはじめている。脱会者づくりに、もっとも障害となっているのは、禅寺墓地に墓を建て先祖供養をし、「かまし」発言、「チョボチョボ」発言をし、奥湯河原で一族豪遊をしている日顕自身だという自覚がまったくない。いや、日顕だけではない。「イメルダ政子」の異名をとる日顕の女房も、充分に足を引っぱっている。

縁戚関係にある早瀬一族の腐敗も相当なものだ。早瀬一族のトップに立つ早瀬日慈の色情狂ぶり、その息子である義寛、義純などの贅沢ぶりも大いに脱会者づくりのブレーキとなった。

日顕宗中枢の総監・藤本日潤にしてから五千万円を超える金員を着服横領していたドロボウである。教学部長の大村寿顕は、ただ単に金に卑しい遊び人である。

日顕は、日顕宗中枢を代表して腐敗堕落ぶりを宗内に謝るべきである。ところが、日顕は寺族同心会で、末寺の寺族を次のように批判したのである。

「こういうことを聞いたんですね、これは大変、残念だと思うことがある。それは本当じゃないと思うんです。私はその住職、その奥さんは信心があるんですから、なにか考え方が間違って伝えられる、あるいは悪く発言を利用されて、そのように私の耳に聞こえてきたと思うんですが。もう、変な信者、手のかかる信者は連れて来ないでちょうだいよっていうことを、ある奥さんが言ったというんですね。面倒くさくてしょうがない。ましてこの御供養もしないで、お寺にばっかりきて手間がかかる。それよりもっとちゃんと立派な信者だけを私も選んでやってくように指示した方がいい。そういうようなことは、これはまさしく無慈悲な言葉で自分勝手、手前勝手、こんな狂った考えは、まぁ、ないですね。本当にそんな考えをもっている人は、私は一人もいないと思いますけれども、どっか間違って育ってきたと思います」

このような話があるのなら、個別に呼んで注意すればよい。それを公の場で話し、寺族全体に負い目を感じさせ、自らが精神的に優位に立とうとする。日顕一流の小狡い話し方である。

日顕は、全国から寺族を集めていながら、末寺の窮状を知ってか知らずか、ねぎらいの言葉一つかけなかった。話したことは自分が正しいということだけ。そして最後は、末寺の「奥さん」への小言である。

「指導、指導といいますが、奥さんは住職と同じように、あるいは住職がいないときには奥さんが、ノコノコ出てきていろんな指導をする。これは大変な間違いを生じますから。そういうことをすることが、寺族の務めであるということでは決してない。もう一歩下がったところで、住職を助け、真心をもってお寺を守ってゆくという姿の中にその奥さんの存り方が、いろんな信徒が見てですね、立派な奥さんですね、というところからやはり教化の立派な姿が現れてくるのであると思います。

まあ、その意味でも、一つ今日のいままでのお話をよくお考えいただいて、これから異体同心の団結をもって、皆様方が御精進されることを願って私の感想と致します」

このような話は、日顕自身の女房である「イメルダ政子」に言って聞かせるべきことだろう。何しろ「イメルダ政子」ら宗門中枢の女房たちは、京都の超高級クチュール、エステなどで一年半で二億円の散財をしているのだ。しかも、役僧の女房連中に差し出がましい口をきいているのは当の「イメルダ政子」である。

この事実をさしおいて末寺の「奥さん」に意見する。日顕は末寺の窮状など、まったくわかっていないのだ。

日顕は、思いやりのない実に無慈悲な一人よがりの老人である。日顕は、エセ宗教家なのだ。やっていることは人を不幸にし、嫌な思いをさせることばかりである。

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