報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十一章 虚言きょげん羅列られつ

地涌オリジナル風ロゴ

第366号

発行日:1992年1月1日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

一九九二年は創価ルネサンスの正義が燦然と輝く年である
一方、日顕一派は還著於本人の姿を現じ同士討ちを始める

創価ルネサンスの新春、まことにおめでとうございます。日蓮正宗自由通信同盟は、本年が世界広布への大きな飛躍の年となることを確信するものです。SGIの旗の下に集う全世界の仏子の方々の、いっそうのご活躍を期待いたします。

今日における日蓮正宗の化儀化法並びに実態を見るにつけ、長い宗門の歴史の中で日蓮正宗の教学が、宗開両祖の説かれた教法と異質なものになってしまったとの感慨を懐く。令法久住をなすべき僧らが、信仰を生業とすることにより、宗祖日蓮大聖人の仏法を歪曲し己義を構えてきたのだ。

日蓮大聖人の法脈に巣くう悪比丘らの装いは実に巧みであった。彼らは日蓮大聖人の教法を信ずる善男善女を誑かし、聖僧の仮面をつけて信仰心を食い物にし、栄耀栄華をきわめた。重ねて、御本仏への信徒の純真な恋慕の情を逆手にとって、信徒に屈服を強いてきた。

だが、末世の悪比丘らは、折伏の大闘将である創価学会池田名誉会長の師子吼を聞き、畜生の本性を見抜かれたことを知り、あわてふためいた。そこで、これまで装ってきた偽善をかなぐり捨て、仏子らをなりふりかまわず迫害しはじめたのだ。

以来、野干らは無意味な遠吠えを繰り返している。日顕ごときは、畜生の本性を見抜かれまいと、性懲りもなく御本仏日蓮大聖人の御威光を利用しようとしている。

しかし、狂乱する破仏法者が日蓮大聖人の弟子であるはずがなく、昨年(平成三年)十一月二十八日、一千万人の創価学会員を破門にしたが、その「破門通告書」には御聖訓は一切引用されていなかった。

このことをもっても、創価学会への「破門通告」が日蓮大聖人の教法によるものではなく、ひとえに日顕らの畜生の性の故になされたものであることを知ることができる。

日顕は、万教の師子王たる日蓮大聖人の弟子を装っているが、昨年十一月二十八日に仏子らが耳澄ます中で発した一声は、野干のそれであったのだ。

イソップ寓話の中に、ライオンを装い森の動物たちを支配しようとするロバがその正体を見破られ、最後に森の善良な動物たちに放擲される小話があるが、日顕の醜態はそれと何ら変わるものではない。

畜生の心を持つ僣聖増上慢の日顕は、日蓮正宗法華講連合会の機関紙『大白法』に「新年の辞」を寄せている。日顕はその中で、創価学会「破門」の意義として、二つの理由を挙げている。

一つめは「正法の護持」、二つめは「宗門に於ける正法広布の為の基盤の確立及びその徹底」である。

日蓮大聖人の教法を、食わんがために曲げ、みずからの命を永らえんがために無視してきたのが、創価学会出現以前の日蓮正宗である。戒壇の大御本尊様さえも、邪宗の輩に平然と御開扉させ、さらしものにしたことさえあった。

おしなべて日蓮正宗僧侶は、宗祖日蓮大聖人の御遺命である折伏行において実に非力であったのだ。

今日の日蓮正宗にあっても、法主たる日顕は禅寺に先祖代々の墓を建立し、あまつさえ、その寺域で恥も外聞もなく法要までおこなった。しかも、三宝破壊をものともせず、宗祖日蓮大聖人と肩を並べようとまでしている。

それだけではない。日顕は、長い年月をかけて宗門の謗法を浄化してきた創価学会を逆恨みし、仏法史上稀有の一大折伏行をおこなってきた創価学会員を「破門」にした。

その「破門」をもって、それが「正法の護持」のためであるとは、実に笑止である。健康な組織細胞を切除し、ガン細胞を残したに等しい。

日顕が、二つめの意義として述べている「宗門に於ける正法広布の為の基盤の確立及びその徹底」とは、僧侶による信徒支配を言葉を替え述べているに過ぎない。宗教貴族と化した日顕らに「正法広布」すなわち布教などできるはずがない。

創価学会出現以前の日蓮正宗の為体をみれば、造作もなくわかることだ。日蓮大聖人御聖誕七百年(大正十年)、日蓮正宗のしたことは、風防もない複葉機に御本尊を奉掲し上空よりビラを撒き、邪宗の輩とともに提灯行列をしただけだ。創価学会出現以前の日蓮正宗の布教活動は、この程度だったのである。

それでも、食うに困らず御しやすい適当な数の檀徒がいたから、充分に満足していたのだ。日顕が「宗門に於ける正法広布の為の基盤の確立及びその徹底」と言っていることの本質は、そのことである。

本気で広宣流布を考えていたら、話し合いもしないまま、文書で次々と処分を発表し、果ては逆上して最大の信徒団体である創価学会を「破門」にすることなどなかったろう。

日顕は、「新年の辞」において、みずからの悪業を隠すために早くもウソをついている。その「新年の辞」には、金屏風を背に金縁メガネの奥から睨みつけている日顕の写真が相も変わらず添えられている。

この写真は『大日蓮』(平成四年一月号)のものと同じだが、この写真には興味深い事実がある。

まず人相が、一目瞭然、実に険しいものになっている。比較するために平成二年、三年の『大日蓮』一月号の写真も順に並べたが、年々人相が悪くなっていることは誰の目にも明らかである。ある人はあまりの形相の悪さに、「今年の日顕の写真は鬼門に貼る魔除けにちょうどいい」と揶揄している。〈筆者注 参考に平成十一年一月号の『大日蓮』の写真も掲載した〉

日顕の写真における変化は、人相の悪化だけにとどまらない。さらに注目すべきところがある。数珠の白い棒房である。これが、平成四年の写真ではまったく隠れている。平成二年、三年の写真では、日顕の左膝前面に棒房が揃って下がり、よく見えていた。

『日蓮正宗教師必携』には、数珠の房について次のように記されている。

「また房の長いことは一閻浮提に広宣流布して、この妙法を一天四海へなびかす意である」

そうであれば、平成四年の冒頭を飾る日顕の写真は、一閻浮提広宣流布を蔽い隠す決意を示していることになる。すべては諸法実相である。年々悪くなる人相、法主の正規の写真にあるまじき数珠の房隠し、写真を見較べるだけでも日顕の正体は判然とするのだ。

憎悪に満ちた日顕の写真を見るにつけ、日顕の瞋りは今年はどの方向に向かうのか非常な興味を覚えた。おそらく日顕の瞋恚の思いは、日蓮正宗内部に向かうにちがいない。

いよいよ、日蓮正宗の自界叛逆の年がはじまったといえるのではあるまいか。

現在の日顕一派は大聖人の仏法をまったく異質のものにしてしまった。日蓮大聖人の仏法はもっとダイナミックで力強く、大衆への慈悲心にあふれたものである。

一九九二年の仏子らの戦いは、封建制の中で歪められた教義上の夾雑物を取り払い、日蓮大聖人の本来の仏法に迫り、それを自身の生命で学ぶことである。

仏法の本義からすれば、一人ひとりの信心が深まれば深まるほど、仏法は世界に弘まり、人類の新たな地平が洋々と広がることはまちがいない。日蓮大聖人の仏法こそ、絶対的平等観に立ち不壊の人間共和の社会を築くことができる基なのだ。創価学会およびSGIは、池田名誉会長のもとに団結し、さらに信心を深めゆく。

一方、日顕一派は四分五裂の様相を呈し、日蓮大聖人の仏法とは無縁の世界を現出して見せることだろう。

悪比丘らは、次の猊座を狙って、日顕・藤本・八木の一派と重役・庶務部長・教学部長の一派が熾烈なつばぜりあいをはじめるのではあるまいか。そのとき、日達上人の法類はそれを冷ややかに眺めることだろう。

また、法華講・檀徒の一類は露骨な主導権争いを各方面、各末寺ではじめることになろう。十年前に脱会して正信会についた檀徒の実情が、そのことを如実に示している。反省することも感謝することもない、不平不満の習性は、たとえ所属を替えても直るものではない。

協調性のない我慢偏執の者たちが、自己を正当化し顕示欲を満たすために野合したのが法華講であり直属信徒である。これらの人々の集団が行く末どのようになるかについて、多くを語る必要はない。分裂と反目あるのみである。

平成四年、創価ルネサンスの正義が証明される。一方で日顕一派の確執は、弱肉強食の畜生の世界を現出することとなろう。

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