報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十章 父子ふし暗証あんしょう

地涌オリジナル風ロゴ

第348号

発行日:1991年12月14日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

第六十世法主の選出にあたってまた告訴事件が惹起された
阿部法運は公金横領などの嫌疑で向島署の取調べを受けた
 〈法難シリーズ・第37回〉

昭和二年十二月十八日、日蓮正宗の管長が決定される日がやってきた。選挙権者が総本山に送ってきた管長選挙の投票用紙が入った封筒を、開緘する開票日である。

しかし、この日の総本山大石寺は物情騒然たるものがあった。阿部派が警察の出動を要請したからだ。警官隊に守られての開票となったのだが、それでも若干の小競り合いはあった。

有元派の「声明書」は、「宗務院を警官隊に包まし、柵を廻らし、縄を張り出入を禁じた」(「声明書」一部抜粋)と開票日の様子を伝えている。

結果は、阿部法運五十一票、有元廣賀三十八票となった。だが、先述したような阿部派の急造選挙権者(教師)や、あからさまな選挙違反の問題などで、またも文部省宗教局の裁定を仰ぐに至る。

そして、選挙後の対立は告訴事件を引き起こすこととなった。第五十八世日柱上人に対するクーデターより始まった内紛のときも、大宮署(現在の富士宮署)に告訴状が出され、日蓮正宗の主な僧侶が次々と取り調べを受けたが、第五十九世から第六十世への相承にあたっても、告訴事件が発生したのだ。

昭和三年一月二十六日付の『大阪時事新報』は、その告訴事件を詳報している。当時の日蓮正宗内部の状況がよくわかるので、少々、長くなるが全文を引用する。

なお、文中で日蓮正宗の宗勢について百五十の末寺、十七万の信徒と記述してあるが、実勢は、それぞれ三分の一と思われる。宗派維持のために、対外的に虚勢を張った発表をしていたようだ。

「 日蓮正宗の權僧正ら訴へらる

 背任横領の名の下に

静岡県富士郡上野村の大石寺を総本山とし全国百五十の末寺十七万の信徒を有する日蓮正宗(旧日蓮宗富士派)に、昨年暮から管長選挙に絡まるお家騒動が持上り、文部省も成行を正視して新管長への認可を見合せてゐるが、静岡県大宮警察署の依頼を受けて向島署では、二十四日午前十時新管長に当選した向島小梅一七五、常泉寺住職權僧正阿部法運師を召喚して長時間に亘つて取調べ、夕刻一先づ帰宅を許したが一件書類は直に大宮署に郵送した。

取調べの内容は秘されてゐるが、昨年十一月後任管長に選任せられたる前記阿部法運師と東京市外品川町南品川三木妙光寺住職權僧正有元広賀師が立候補し、十二月十八日開票の結果、五十一票対三十八票で法運師が当選した為め落選派が承知せず、阿部法運師は本山宗務総監權僧正水谷秀道師と共謀し、本山の立木を伐採して選挙運動費に使用したとか、故管長大石日応師の隠居で現在未亡人金子なか子と妙傳女史の住む蓮葉庵の維持費二千円を横領したとか攻撃の火の手を揚げ大粉擾を起し、終に広賀師の弟弟子で還俗して東京府下千駄ヶ谷中根某、元常泉寺執事横浜市西戸部松本某が阿部法運師と水谷師を相手取り大宮署に背任横領の告訴を提起したものである」

横領の疑いなどで、阿部法運が向島署で取り調べられたのだ。なお、同時に告訴された「水谷秀道」とは、のちの総本山第六十一世日隆上人のことである。

有元派は「声明書」(昭和三年三月十三日付)で、この告訴事件に触れている。これまた長文の引用となるが、歴史的な信憑性を保つためにやむなく全文を引用する。

「我等に於て阿部水谷両師を告訴したのは不都合ぢやと噂を聞いてゐる。両師が告訴されたのは新聞に出てる通り事実であるが、我等は決して告訴した覚はないのであります。

但し蓮葉庵基本金四千円は銀行預金にして置く旨応尊三回忌の際阿部師より報告された。依て遺弟の一人が、此の機会に於て阿部師に内容証明郵便を以て照回した所、阿部師より内容証明で目下銀行より引出て自分に於て責任保管してゐるから安心せよ、応尊の七回忌に発表する返事があつたのである。

所が甚だ安心は出来ぬ。それは内○○○は某人が借用してゐるとの噂があり。○○○は銀座の某商店に貸付てあるとの事である。時節柄大銀行でもいかぬのに個人貸付は最も危険である。況や該金は浄財である。

コハ尊き信仰の凝りある、汗の油であるから、某人は、更に『来年六月の御七回忌まで待つまでもなく、此機会に某保管の方法を示せ』と内容証明でやつたら、執事木村氏の名の下に旅行不在中云々との返事があつて今に何等の頼りがないのである。之の返事のない所置を何某に話した事がある。すると何でも何某が選挙不正に憤慨して告訴したとの事であります。

之の経緯の精神が判れば、孰れが悪いのか判断は付くのです。我等に於て告訴した覚は毛頭ないのでありますが、蓮葉庵浄施の基本金を兄弟子ぢやからとて、他に諮らないで勝手に怪しい貸付をするのは宜敷ないと思ひます。

それも来年六月の発表すると云ふのであるから疑はれても仕方がないと思ひます。之も司直の手が如何に動くか今後の問題と思ひます」(有元派「声明書」一部抜粋)

官憲を巻き込んでの内紛は、とどまるところがなかったようだ。先の新聞記事によれば、横領金額は二千円、有元派によれば四千円となっている。二千円の差額は、時間の経過とともに判明したその他の不明金であろうか。

この告訴が、どのような結末となったかについて、残念ながら手元にある資料では確認できない。阿部法運が逮捕された事実はないから、おそらくは金を都合して元に戻し、刑事事件としては成立しなかったのではあるまいか。

文部省宗教局の認可が降り、阿部法運が正式に管長となったのは、昭和三年六月二日のことであった。開票が前年の十二月十八日だから、認可まで約六カ月かかったことになる。その間、阿部と有元の両派が陳情を繰り返したことは言うまでもない。

総本山第五十八世日柱上人から第五十九世日亨上人への相承時には、文部省宗教局の行政介入によって紛争解決し、第五十九世日亨上人から第六十世日開上人への相承も、結局、宗教局の異常な長期間にわたる裁定を仰ぎ、認可を得ることとなった。

当時の日蓮正宗は、実に内紛の絶えない宗派であったのだ。それも官憲を巻き込んでの大騒動である。

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