報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

九章 破門はもん空言くうげん

地涌オリジナル風ロゴ

第317号

発行日:1991年11月13日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

阿部日開は身延の学者との論争では尻尾を巻いて逃げたが
それを宗開両祖に恥じることもなくひたすら猊座を狙った
〈法難シリーズ・第34回〉

先号に引きつづき、総本山第五十九世日亨上人が退座の意志表明として、昭和二年十一月に書かれた「告白」について記す。

日亨上人は、退座の「外的」原因として六つの事由を挙げられているが、そのうち「一」「二」「三」については、先号、先々号で記した。今号は「四」に関して記述する。

日亨上人は、退座をしようと考えた「外的」原因の四番目として、次のように記述されている。

「四、当分事勿れ隠忍主義の上から、日本教報誌上の〇論にも又擁護会側の愚論にも、近くは顕正誌上に出づる暴論にも一切眼を触れぬ事が如何にも不甲斐なく思われるゝ事」(筆者注 〇印は判読不明の文字)

『日本教報』誌には、山上三郎の日蓮正宗批判が掲載されていた。発端は『大日蓮』(大正十四年七月号)の「清水梁山を誡む」と題する文にある。

この文で阿部法運は、日蓮宗界において名の知られた学者であった清水梁山の『中外日報』(大正十四年六月二十一日付)に掲載された談話を批判したのだが、阿部の論が稚拙であったために、かえって宗外のあざけりを買うこととなった。

阿部法運の書いた愚論「清水梁山を誡む」は、ご丁寧なことに末尾に「以下次号」と記していた。これがまた宗外に冷笑されることとなった。なぜなら、次号の『大日蓮』にも、次々号の『大日蓮』にも、「清水梁山を誡む」の続論がなかったからだ。

阿部法運は、この愚論を書いたことによって、日柱上人により僧階を能化から落とされ、日蓮正宗ナンバー2の地位であった総務職からもはずされたのだった。

このような状況からすれば、阿部法運が「以下次号」を実現するなど、たしかに不可能だったろう。その事情を見越してか、あるいは日蓮正宗内に一石を投じて大混乱が生じたことで満足してか、清水梁山らは阿部法運の「清水梁山を誡む」を黙殺していた。

だが、日亨上人の登座後に、阿部法運が能化に復級したことによって、清水梁山ら一党が、にわかにかまびすしくなった。先述したように、清水の弟子筋にあたる山上三郎らが『日本教報』誌上で、阿部法運のみならず日蓮正宗をも揶揄、嘲笑し始めたのだった。

山上三郎は、阿部法運を徹底してあざけり、「清水梁山を誡む」の続編はまだかと催促している。その一部を以下に紹介する。

「吾が恩師(筆者注 清水梁山)は法運如き人物を敵手と為し給わざることは勿論ながら、予輩門下生としては、彼の腐臭禿顱をテニスの珠に代え、課余の遊戯に散散に弄び遣わんものと面白半分、其の所論の完結を待ち居たるに『以下次号』と断り置ける彼の続稿は次号に現われず、次次号に現われず、次次次号、次次次次号、遂に大正十五年の今日まで未だ彼の紙上に現われず、何たる永き『以下次号』ぞや。

或は口則閉塞の現罰に当りしに非ざるかと打ち案じ居たる際、偶ま一消息を得たり、其は彼法運の一文は時の管長土屋日柱師の痛く呵する所となり、為に僧階を貶ぜられ、続稿も中止することとなれるなりと。事情果たして然りならば大に諒恕すべし、然れども今や日柱師は已に擯出せられたり、僧階は已に復旧せられたり。法運為る者は須く続稿を起して『以下次号』の言責を果たすべし」(『日本教報』一九〇号、大正十五年六月十六日付)

これに対して、日蓮正宗側は即応することができなかった。そこで、日蓮正宗内部には、身延系の学者らに嬲られたままの宗門中枢に対する不満が渦巻いた。

ついに日蓮正宗信徒がじれて、反論を促す一文を公表した。阿部法運らに放逐された日柱上人を擁護していた信徒の田辺政次郎は「異体同心の檄文」(大正十五年九月七日付)を公表している。

「阿部能化は日応上人の弟子分なり、兄弟弟子も数十人なりと聞けり、又能化なれば自分の弟子も二三四五人ありと聞けり。師の恥は弟子の恥なり、兄弟の恥は兄弟たる者の斉しく受くる耻なり、況や能化なり、宗門の耻にして進んで門祖日興上人の顔に汚泥を附する者たるなり。躊躇する場合にあらず。平当の学問を使うは此時なり。仁に当ては師にも譲らざる気概の持主よ、遠慮は敵火に薪を投るに等し、純信の同胞を疑網に纏うものなり。黙して答えざるは従うに等し、豈に此理にあらんや」

山上三郎の攻撃に応戦できない阿部法運は、信徒からも批判されたのだ。

この田辺政次郎の「異体同心の檄文」が公表された同じ日、『大日蓮』(大正十五年九月号)が発行された。そこには、阿部法運の反論ともいえない小論が掲載されていた。題して、「日本教報紙上山上三郎氏の邪説を駁す」。

勇ましいのは題名のみ。内容は勝手なことを言い放ち、虚勢を張って逃げてしまったという次第。文末は、「反対者等須らく当に、我慢の幡ほこを棄てゝ、九思三考仰で信じ伏して思うべきである。(已上)」となっている。

言うなれば、この「已上」を書きたいばかりに書いたような文。内容は、「一句筆の足らざらし事は、自分も大に遺憾とするところである」などと、肝心なところは言い訳であった。そして、肝心でないところは虚勢ばかり。この阿部法運の再度の愚論は、日蓮正宗にとって恥の上塗りとなっただけであった。

阿部法運は「已上」と書いたことのみを楯に、それ以降は貝のように口をつぐんでしまった。同様に日蓮正宗全体も沈黙を決め込んでしまった。

このふがいなさを怒り、日蓮正宗の信徒であった篠田銀次郎、沼田善太郎が、大正十五年十一月十一日、日亨上人に内容証明郵便を送っている。阿部法運の失態の責を、御法主日亨上人の責として問う者まで出たのだった。

「元来該論難は法運師一己の所論転じて宗門の所論となりし径路を経たるものに候へば、ただに教報上の論難のみに止まらず、宗門の一大事に候。これに対して責任は道義上当然貴上人の負わざるべからざる事は賢明なる貴上人の既に了知し玉へる所なるべし。若し然らば速かに敵を挫き、正を示し、大法の光揚に努力せらるべきは、貴上人の責任なりと立奉存候」(内容証明郵便、一部抜粋)

だが、ここまで書かれても日亨上人は沈黙されていたし、当の阿部法運もただただ黙っているだけだった。日亨上人が沈黙されていた理由はともかく、阿部法運が黙っていた理由はただ一つ、自分が完全に不利だと見ていたからだろう。結果は、阿部法運の完敗に終わった。

のちに信徒の篠田銀次郎は一冊の書を出して、この問題を総括している。篠田が昭和二年二月に発行した「置の一字を恐る」には、次のように記述されている。

「近来日蓮正宗の宗門に取りて、精神的滅亡に瀕する大事件がある。

それは大正十四年七月号大日蓮紙上に掲げたる阿部法運師所論に依って其端を発せり、これに対し日本教報紙上に山上三郎氏痛撃を加えたり、法運師はこれを論駁せしも、山上氏更に駁撃をなしたるなり。これを閲読するに事実に容易にあらず。即ち教義、相承、本尊に関す山上氏の筆鋒鋭くして、法運師の所論を撃破すること、さながら無人の境を行くがごとし、終に本宗教義上に止めを刺さずんば止まざるの概あり、古来最勝を以て任じたる宗門にして、此有様を黙視せば、黙視の堕負となり、本宗独特の法門を滅亡し、嘲笑を天下に招き、祖師先師を辱かしめ、而今而後、布教弘法の道を塞ぐものなり。これ即ち大事件と謂う所以なり」

阿部法運が「清水梁山を誡む」という愚論を書いたために、日蓮正宗は身延系の学者に愚弄され、日蓮正宗僧俗はその屈辱感をぬぐえないでいた。

この山上三郎の論難を鮮やかに論駁されたのは、のちの第六十五世堀米日淳上人(当時、堀米泰榮)であった。その反論は昭和二年五月、六月、七月号の『大日蓮』に掲載された。題して、「富士一跡門徒存知事の文に就いて附山上三郎君の論説を嗤ふ」である。

日淳上人は、山上三郎の邪論を破し、富士の正義を内外に示された。日淳上人は、この論の結末を次のようにくくられている。

「終りに君の事実を曲解し、全く虚構の義によって書いた『大石寺の邪流を破す』の一文を冷笑し、併せて一言を呈してをく。君の論文は前半は誰れやらからの受売り、後半が君の意見、此れも他説の寄せ集めたるは、浄玻璃にかけて明かである、受売りを止めよ、仲買を止めよ、新進の教学者たる者は受売り仲買を止めて、真摯な求道心をもって究明の道にいそしむものである」

ただし、この日淳上人の論は、阿部法運の妄論までも救うにはいたらなかった。救いようのない阿部法運の邪論は宙に浮いたまま、ともかくも日蓮正宗僧俗は日淳上人の明快な反論で溜飲を下げたのであった。

しかし、『日本教報』誌上の山上問題、それに影響されて起きた日柱上人擁護派の宗内での動きなどは、孤立無援の日亨上人にとっては耐えがたいことだったに違いない。この一連の事件が、日亨上人退座の一つの「外的」原因となったのである それに対して阿部法運は、自分の不始末から日亨上人を悩ませたことなどおかまいなく、日亨上人退座後の猊座に登ることに腐心していたのだった。阿部法運は、まことにもって「法滅の妖怪」である。

日正上人を隔離し、相承を妨害して私しようとし、いままた身延系の学者との法論に負け、尻尾を巻いて逃げても、それを恥ともせず、猊座のみを狙った。その阿部法運は行躰もすさまじく悪く、隠し子まで作っていたのだ。恐るべき悪比丘である。

この阿部法運という男が、日蓮正宗に高僧として存在していることだけをもってしても、宗開両祖の末流としての資格を放棄するに等しい。ところが、当時の日蓮正宗総体の退嬰ぶりは、それだけにとどまらなかった。

この阿部法運が管長選挙で多数を占め、第六十世日開上人となるのである。この末世の悪比丘に同調し支援する者が、日蓮正宗内に過半数を超えて存在していたのだ。正法はまさに滅尽しようとしていたのだった。

なお、日蓮正宗は、堀米日淳上人の『大日蓮』掲載の反論によって溜飲を下げたが、身延系の学者によって日開上人が一敗地にまみれた屈辱をぬぐうことはできなかった。開祖日興上人のお嘆きはいかばかりであったろうか。

この日蓮正宗僧俗の恥辱をぬぐいさるまでには、しばしの歳月の流れが必要であった。昭和三十年三月十一日、雪の北海道・小樽において、創価学会は日蓮宗身延派と真っ向から法論を展開し、完膚なきまでそれを破折し尽くしたのであった。

衆知のごとく、この小樽法論の勝因は、ひとえに法論の司会をつとめた池田名誉会長(当時、参謀室長)の師子吼に帰するものであった。

昭和二年の論難の際、ただ一人で身延に一矢を報われた日淳上人は、小樽法論の大勝利の後、僧侶たちに対して、「おまえたちがおこなったらどうなったか、まずは勝てなかっただろう」と話されたことが伝えられている。このとき日淳上人は、「創価学会の男子部が好きだ」と何度となく仰せになったということだ。

真に邪宗に立ち向かわれた日淳上人であったればこそ、創価学会男子部の戦いぶりに素直に感嘆されたのであろう。

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