報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

九章 破門はもん空言くうげん

地涌オリジナル風ロゴ

第316号

発行日:1991年11月12日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

阿部日開は御遷化直前の日正上人を海岸沿いの一軒家で隔離し
日柱上人への血脈相承を阻み自らが猊座に登ろうとした
〈法難シリーズ・第33回〉

先号に続き日亨上人の「告白」について学ぶ。

日亨上人は「告白」の第三章に、管長辞職の「外的」原因として六つの事由を挙げられている。先号は、そのうち第一、第二番目の原因に触れた。今号は、第三番目の管長辞職の「外的」原因について記す。

「三、次上の事より引いて日正師が特別の相承を預けたと云う者より其内容を聞き取りし事は、上求菩提の精神に合うやと憚りおる事」(「告白」)

日亨上人は、管長(法主)辞職の一理由として、以上のことを挙げられている。

第五十九世日亨上人は、当然のことながら第五十八世日柱上人より血脈相承を受けておられる。血脈相承の儀は「官憲の口入」などもあり、大正十五年三月八日の未明におこなわれている。

このとき、日亨上人は日柱上人より十全の血脈相承を受けられたはずである。しかし、日亨上人は、第五十七世日正上人が「相承を預けた」という者に、血脈の内容を改めて聞いた、と「告白」に記されているのだ。

そこで、日亨上人が、なぜ日柱上人を飛び越え、日正上人から日柱上人への血脈の内容を聞き直したのかということが問題になる。

「日柱上人から日亨上人へ、充分な相承がおこなわれていなかったのではないか」、あるいは「碩学の日亨上人から見て、相承の内容に不足を感じられていたのではないか」などと、このことに起因して、日亨上人が「告白」を書かれた当時の日蓮正宗内に相当な物議を醸すことになった。

ここで、日正上人が「特別の相承を預けた」と「告白」で書かれていることを理解するため、第五十七世日正上人から第五十八世日柱上人への相承の状況を明らかにしなければならない。

日正上人から日柱上人への相承は、尋常ならざる状況下でおこなわれたのである。その原因は、ひとえに阿部法運(のちの日開上人)の猊座への妄執にあったといえる。以下、歴史的資料をもって、そのことを論証する。

総本山第五十七世日正上人は、大正十二年八月十八日に病気療養先の静岡県興津で御遷化された。日正上人は興津の海岸沿いにある一軒家を借りて、供の者を従え療養されていたのである。

この興津の一軒家で、日正上人は日柱上人に相承されたのだが、きわめて特例な、異常とも思える相承をされた。血脈相承を日柱上人に直接、相承しないで、在家の者二名を療養先の一軒家に呼ばれて相承を預け、その二名の者が大阪・蓮華寺において日柱上人に相承を伝えたのだ。

そのことについて総本山第六十六世日達上人は、日蓮宗の安永弁哲への反論の書である「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」(昭和三十一年発行、日蓮正宗布教会刊)の中で次のように記されている。

「しかし思えば既に御心中に深く決せられることがあったのであろう、大阪の中光達居士、牧野梅太郎氏とを召されて、一切の者を遠ざけて後事を托されたのであった。それで俄に両氏は日柱上人を蓮華寺に迎えたのである。(此れは日柱上人が御節介屋の謀言に引き廻わされないようにと深い思召しで、此に依て日正上人と日柱上人と中、牧野両氏とだけで後継の事を取り運ぶ為であり、其の他の介入を斥けるための計であった)かくて日柱上人との脈絡は完全についたのである」

この文には重大なる史実が伏在している。

日正上人が、わざわざ在家の者二名を呼ばれ、血脈相承を預けられたのには、それ相応の理由があったのだ。その理由として、日達上人(この文の記述当時は総監)は、「此れは日柱上人が御節介屋の謀言に引き廻わされないようにとの深い思召し」と記述しておられる。

この記述は、当時の異常事態を示唆しているといっていい。謀言をもって日柱上人への相承を阻もうとしていた者がいたのである。そのため、日正上人は日柱上人に対して直接に血脈相承をすることができず、やむなく「中」と「牧野」という二名の在家の者に相承を託し、日柱上人に伝えてもらったのだ。

再度、日達上人の引用文を見てみよう。相承を在家の者二名に預けたのは、謀言を用いる者の邪魔を避けるためであったと記述され、次に、「此に依て日正上人と日柱上人と中、牧野両氏とだけで後継の事を取り運ぶ為であり、其の他の介入を斥けるための計であった」となっている。

血脈相承をするのに、在家の者に託すしか方法がなかったのだろうか? 日達上人の婉曲な記述の裏に、どのような隠された史実があるのだろうか? 日正上人には供の者はいなかったのだろうか? 興津の海岸沿いの一軒家において病気療養中の猊下に、お供の僧がついていないはずはない。

日達上人の「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」を注意深く読むと、次のような記述がある。

「日正上人の御病気の事であるが、大正十一年秋頃下顎に極めて小さな丁度楊子の先程のものが出来たので、東京の某病院で診察を受けられたが、何んだか判然としなかったのである。其の後に上京の節には同博士に診察を受けられたが、結局どうも此れは癌らしいと言うことになって其の治療を受けられたのである。大正十二年の入梅をひかえて僅か数日間の予定で興津に御出かけ遊ばされたのである。然し上人の御健康を気遣う周囲のものが此の夏は寧ろ、海岸に於て御静養遊ばされた方が好くないかと云うことで、俄かに一軒家を借りて其処に御滞在をお願い申上げたのであった。上人は蒲柳の質であらせられて、常に其の御健康に就いて御気遣申上げていたので有る。(此のことはむしろ上人は弟子共が海水浴をしたいので家まで借りたと御考えになって笑っていられた)」

この記述の中で注意しなければならないのは、「俄に一軒家を借りて其処に御滞在をお願い申上げたのであった」となっていることだ。この文により、一軒家を借りたのは、日正上人の意思ではなかったことが判明する。「むしろ上人は弟子共が海水浴をしたいので家まで借りたと御考えになって笑っていられた」のだ。

日正上人の興津滞在は、「大正十二年の入梅をひかえて」という記述からしても、おそらく、六月初め頃から同年八月十八日の御遷化までということになる。とすると、日正上人の興津滞在は二カ月余だったわけである。

当時、日正上人は六十三歳だった。亡くなられる二カ月前に、海岸沿いの一軒家で転地療養されていた。日達上人のほかの箇所の記述などから判断すると、日正上人御自身は快活に振る舞われていたようだが、病状はかなり重かったと考えるのが妥当と思われる。

わざわざ東京まで出かけて診療を受け、「癌らしいと言うことになって其の治療を受けられた」ということでもある。日正上人の家族の誰かが、余命について医師の宣告を受けていた可能性もある。日正上人のそばの者が、それを知っていたことも充分考えられる。

ともかく「弟子共が海水浴をしたいので家まで借りた」と、日正上人が言っておられた事実からすれば、日正上人のそばで看病しながら海水浴をしていた者がいたのである。猊下の転地療養なのだから、弟子の僧がお供していないと考えるほうが不自然だろう。

それならば、どうして、お供に手配させて日柱上人を直々に呼ばれなかったのか。なぜ、わざわざ在家の者二名を呼ばれて相承を託されたのか。

その解答は、ただ一つ。お供の僧が、謀言を弄する「御節介屋」に通じており、日柱上人を直々に呼べば「他の介入」があるということである。

この解答を得れば、ここに恐るべき奸計が伏在しているのを見抜くことができる。「俄に一軒家を借りて其処に御滞在をお願い申上げたのであった」のが、なぜかがわかる。「数日間の予定で興津に御出かけ遊ばされた」日正上人が、どうして興津を死地とされることになったかがよくわかる。

興津に一軒家を借りたのは、日柱上人への相承を阻もうとする者たちの仕業なのだ。死期の近い日正上人を隔離したかったのである。日柱上人に対抗して次期猊下を狙っていた者がおり、その者の指図で日正上人を海岸の一軒家に隔離したのだ。

したがって日正上人は、おそばに仕える反日柱上人派と思われるお供の僧の目をくらまして、在家の者二名を呼ばれ相承を日柱上人に託されたのである。このように考えれば、日達上人の次の記述も納得がいくのである。

「かくて八月十七日の夕刻に於て明朝遺言をするから皆んな呼んでおけとの仰せがあったので、周囲の者は慌てて、四方へ電報を打つやら電話を掛けるやらしたのである。其の夜半に於て弟子共への御遺言があり、それぞれ近親への御遺言もあり、而して夜はホノボノと明けゆく時、四方より重立った人が駆けつけて来たのであるが、五時頃になると、皆を此れに呼べ、と仰せられて、一同は上人の枕辺に集まったのである。一同着坐し終るや上人はずっと見廻わされて、やがて侍僧に紙と筆とを持って来る様にと仰せられた。侍僧は静かに立って用意をした。そこで上人は徐ろに『大僧正の権は大学頭日柱に相承する』と御遺言を遊ばされ、侍僧の認めた料紙を手にとって御覧になり、更に署名と花押とを認める様に命じ給い、御手を差し伸べて指の先にて花押の御指図があった。此れが終るや再び一同を見廻してそれから目を閉じられたのである」(「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」)

この記述は、御遷化の直前に、日正上人が、次期法主として日柱上人を指名されるくだりだが、在家二名に託したとはいえ、すでに相承を終えられている日正上人が、なぜ、いまわの際に次期猊下として日柱上人を表明しなければならなかったのかという必然が、明白になってくるのだ。

日柱上人への血脈相承は、おそばの者を含めて誰も知らなかったので、のちの宗内の混乱を心配され、皆を集められ指名されたのだ。

しかし、ここでまた新たな疑問がわく。宗内を混乱させないためならば、どうしていまわの際でなく、もっと早い時期に相承を発表されなかったのか、と。

この疑問を解くカギも、先の推測に含まれている。早めに発表すれば、阻止されたり、覆されたりする恐れすらある「介入」が予想されたということだ。

日正上人のそばに、反日柱上人派に通じている者がベットリとまとわりついていたということである。これのみが、日正上人がギリギリになって、すでに相承を譲られていた僧の名を明かされた事情を説明できるのである。

御遷化を目の前にして気息奄々の法主上人のそばで、相承の行方だけを気にかけ、弱りゆくのをじっと見ている者たちがいたのである。

それでは、日正上人に対して陰に陽に圧力をかけ、猊座を狙っていた者は誰だろうか。日正上人が、在家の者二名に秘密裡に相承を託さなければならないほどに……。

日達上人の「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」に、間接的ではあるが、その解答がある。

「御遷化の報が四方に伝えられるや、宗門は哀愁の底に落ちた、しかし此の時に於ても中には種々憶測をする者もあって御遺言は日柱上人か日開上人かを確め様とする者もあって、近侍の者にしきりと尋ねる者もあった。近侍の者のうち次の座敷にいた末輩の者が、御声が聞えなかったと答えたのが、一方に誤った噂さとなったのである。それは其の後葬送の席に於て日柱上人か日開上人かハッキリしなかったというではないか、と云う話が出たので、其の時日開上人は大学頭ではない筈だがと言ったら口を噤んで了った。日開上人への御相承を期待した人達の心情を察すべきである」

日柱上人と相承を争っていたのは、日開上人だったのである。この日達上人の記述は、当時の宗内が日柱上人派と日開上人派に割れていたことを描写している。「葬送の席」においてすら、日正上人の声が「日柱上人か日開上人かハッキリしなかったというではないか」と、もめたのである。不謹慎なことだ。

それにつけても、当時の日蓮正宗内では、猊座をめぐってすさまじいまでの確執があったものだ。末寺の数が五十程度の弱小宗派のトップを狙い、末世の悪比丘たちがサヤ当てをしていたのである。

「日開上人は大学頭ではない筈だがと言ったら口を噤んで了った」という記述は、当時の宗規では「大学頭」が、次の法主となることが定められていたからである。このことはとりもなおさず、日開上人が宗規すら無視して、猊座を狙って画策していたことを示している。

さらに、歴史は下ること昭和三年三月、その史実は宗内において暴露された。

日亨上人後の猊座をめぐって、当時は阿部法運(のちの第六十世日開上人)と有元廣賀(当時総務)が宗門を真っ二つに割って選挙戦をおこなったのである(選挙は昭和二年十二月実施)。

その選挙後、有元派は選挙の不当性を主張して「声明書」(昭和三年三月十三日付)を発表し、阿部法運の旧罪を暴いている。

「そも阿部師を管長たらしめんと企てたのは、遠く深いのであって、大正十二年八月、日正上人重患に陥るや、彼等一派は名を正師の命を借りて、久しく大学頭として当然管長たるべき土屋日柱師を排斥し、阿部師を挙んと、あらゆる悪辣手段を弄したのである」

ここに書かれていることは明白である。阿部法運は、日正上人重体のとき、みずからの意志を日正上人の命であるとして、日柱上人を排斥したと記しているのだ。そして、阿部一派は法運を次期法主にするために、「あらゆる悪辣手段を弄した」と明記している。

有元派の「声明書」は、その後、阿部法運が猊座に登ろうとして、いかに画策したかを詳らかに述べている。少々、長くなるが、阿部法運の宗内での動き方が手にとるようにわかるので引用する。大正十二年より昭和三年までの五年間に、阿部法運がどのように動いたかを概略、知ることができる。

「けれども仏意彼等に組せずして、柱師は五十八世の猊座に上げられました。それ已来、彼等は言を正師に寄せ、五十九代は阿部師、六十代は崎尾某なりとの妖言を放って、金甌無欠の相承を瑾つけ、以て無智の人々を迷わしているのである。之は許すべからざる陰謀であるのに、之さえ選挙の目的のために崎尾某は位二級も昇進さしたのである。怪体な話ではありませぬか。ところが、胸の納らないのは阿部師である。何とかして自己の名声をあげんとし、日蓮宗界の学匠清水梁山氏が、中外日報記者に話した片言をとらえて、軽率にも『清水梁山を誡む』という、怪しげな論文を大日蓮に掲げました。

柱師之を閲覧せられて、その盲動と浅識とに驚かれ、一宗の総務として又能化の地位に置くべからずとなし、同氏を招き、これを叱責したるに、師はその未熟と、軽挙を謝し、其職を辞するの止むなきに至りました。

然に阿部一派では、之は嚮に自分等が柱師を排斥せんとした腹癒であると曲解して非常に柱師を怨んだのである。同時に後任となった有元師を嫉んだのであります。柱師は決してかゝる凡情に制せられての事ではない。全く阿部師の論文は、本宗教義に悪影響を及ぼす事の重大なるを慮りて、予め善処したのである。現に堀猊下が、まだ浄蓮坊にいられる際、柱師の命によりて何とか救うべき途がないかと、その続稿を閲したが、実に以て愚劣極まるもので、救うべからざるを以て大日蓮に掲載しなかったのであります。

かくて能化の地位をスベリ、管長候補者たる資格を失うや、彼等一派は大に狼狽し、いかにして之を復旧せんかと苦心惨憺たるものであった。恰も大正十四年十一月宗会の開会に当りて、巧に人心の機微を探り、柱師の潔癖衆僧と調和せざるを見て、堀師の人望を利用し同師を擔ぎ、挙宗一致し柱師を隠退せしめました」

この「声明書」を発表した有元派を率いる有元廣賀は、日柱上人をクーデターで引きずり降ろすときに阿部法運と謀略をともにした僧である。阿部法運は日柱上人より叱責を受け、総務職をはずされ僧階を降ろされたが、そのあとに総務職に就いたのが、この有元廣賀である。

有元が、宗内ナンバー2の立場にありながら、任命者の日柱上人を裏切り、阿部法運の画策に乗ったことが、日柱上人に対するクーデターが成功した主因である。この「声明書」は、このときの阿部と有元の野合の裏話まで披露している。

「十四年冬柱師不信認云々の時も、阿部一派の者は直に阿部師を出す考えであったため、堀師を挙るに随分難渋したのである。我等は堀師を挙げないなれば不賛成じゃと断言したので、彼等は不精々々付て来たのであります」

阿部法運は、第五十七世日正上人の次を狙い、それが果たせないとわかると、第五十八世日柱上人の次をまた狙い、それすら野合を成立させるために果たせず、やむなく日亨上人を擁立した。だが、みずからの僧階が復旧するや、第五十九世日亨上人を孤立させ、早期退座を計った。

日亨上人の退座表明後、日柱上人引きずり降ろしのときに野合した阿部派と有元派は、今度は真っ向から対立。買収、脅迫、利益誘導などによる最悪の選挙戦で、次期猊座を争った。その詳述は、のちの機会に譲る。

さて、日正上人を興津の一軒家に隔離した日開上人の悪業について、日開上人に直接「上申書」をもって問い糾している信徒がいる。日開上人が謀ったクーデターにより放逐された日柱上人を擁護していた信徒の西脇栄曽吉である。西脇は「上申書」(昭和五年四月三日付)に、次のように記している。

「然るに其当時より柱師の偉大なる御人格を嫉み諂う阿部師を擁立せんとする一派が正師の御病気の重せらるるを見て早くも後継法主の擁立を画策し狂運動を成せし事実はある書に明白なり正師の御病気益々重せられ愈興津へ転地療養の後は柱師の御枕頭へ御近づけ申さず彼の一派等は益々跋扈し或時は偽書を作り或時は暴力を以し或時は強言を以て大学頭職の辞職を強要す」

日開上人は日正上人以後の猊座を狙って、日正上人が病気であるのをよいことに、あらゆる手段をもって日柱上人を排撃したのだった。やはり、日達上人の著された「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」の文で明らかにされたことは、まぎれもない事実だったのだ。

では、本論である日亨上人の「告白」にもどろう。この稿の冒頭に掲げた日亨上人が管長辞職の「外的」原因としてあげられた六つの事由の第三番目を再度、引用する。

「三、次上の事より引いて日正師が特別の相承を預けたと云う者より其内容を聞き取りし事は、上求菩提の精神に合うやと憚りおる事」

日亨上人が記述されている「特別の相承を預けたと云う者」とは、日達上人の文中に登場した「中光達」「牧野梅太郎」という在家の二名の者を指すと思われる。日亨上人は、血脈相承について信徒二名より「其内容を聞き取りし事」が、いかにも残念だったのであろう。

日亨上人が「告白」の中で、「自分一代は変態の中継法主」と言われているのも、このような特殊な事情が背景にあったと思われる。

日亨上人が、日柱上人に対する血脈相承を一時預かりした信徒から、誤解を恐れず相承の内容を聞き取られたことは、日亨上人が日柱上人から受けられた血脈相承の内容に不充分なものをお感じになっていたからとも考えられるのだ。

これらについては、宗内には種々、御意見もあるであろうから断定は避ける。ここで断定できることは、日開上人が猊座に対して大変な執念を持ち、長年にわたりあらゆる奸策を用いたことである。法主上人を隔離して自由に相承させないなどといった謀計は、天魔以外にはなし得ないことである。

家族友人葬のパイオニア報恩社