報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

七章 天魔てんま出来しゅったい

地涌オリジナル風ロゴ

第276号

発行日:1991年10月3日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日興上人は自分が老いて念仏などを唱えることがあれば
弟子は必ず自分を諫めよ、聞かなければ捨てよと話された

日興上人は、常々弁舌巧みに、「私が老いて念仏を言ったりすれば、(弟子は)必ず諫めなければならない。もし諌めて改めることがなければ(日興上人を)捨てなければならない」とおっしゃっていた。

この日興上人に関する話は、総本山第六世日時上人が語られたものである。日時上人は「助」という者にこれを話し、「助」がこれを記録し「大石記」として後世に残した。「大石記」は『富士宗学要集』(昭和十一年刊)に収録されている。

総本山第五十九世日亨上人は、「助と云ふ筆者は何人なりや知るに由なし、後賢此を詳にせよ」と、後進の者に「助」の究明をするよう、『富士宗学要集』に記されている。

さて「大石記」の原文を紹介しよう。

「仰セに云く日興上人の常の御利口に仰セられけりとなん、予が老耄して念佛など申さば相構エて諫むべきなり、其レも叶はずんば捨つべきなり」

日蓮大聖人より直接、相承を受けられた日興上人ですら、念仏を唱えるなどという日蓮大聖人の教法に叛くようなことがあれば、「相構エて諫むべきなり」すなわち“かならず諫めなければならない”と、弟子に対しておっしゃっている。そのうえで、間違いを改めなければ、日興上人を「捨つべきなり」とまで話されている。

これをみれば、法主に対する「信伏随従」のみが信心であるとする日蓮正宗中枢の主張は、日興上人の御指南に反するものだということがわかるだろう。日蓮正宗僧俗が信伏随従しなければならないのは、日蓮大聖人の教法に対してである。

日顕上人のおこなっている破仏法、破和合僧の行為に追従してはならない。ましてや、戒壇の大御本尊様の間近に仕える身でありながら、禅宗の寺に先祖代々の墓を建立するなどもってのほかである。念仏を唱えるに等しい、明らかな謗法行為なのだから、日蓮正宗僧俗は、日顕上人を必ず諫めなければならない。

それでも、日顕上人が悔い改めないのであれば、日蓮正宗僧俗はこぞって日顕上人を捨てなければならない。これが、日興上人の末流たる日蓮正宗僧俗の選ぶべき道なのである。

「大石記」には第六世日時上人が、この日興上人の話に続いて次のように語られたことが記録されている。

「而るに日代は数通の御譲リ状を持チたりという云へども既に迹門得道の上は爭テか言ふに足るべけんや、其ノ上付法の旨は其ノ證拠をば上々の御事なり、此ノ方にも上人の御筆を載せたるなり其ノ支證は上々の御事なり、先づ迹門得道と云ひ多クの謗法之レ有ル上は沙汰の限リに非ラず」

日興上人の晩年に、日代は若くして重須の坊を委ねられたが、日興上人御遷化後、その大任を果たすことができず、みずから重須を出ることになった。そして、日代はとうとう重須に帰ることができず、西山本門寺を開くこととなったのである。「大石記」は、この日代が「数通の御譲リ状」を持っているとはいっても、「迹門得道と云ひ多クの謗法之レ有ル上は沙汰の限リに非ラず」との、日時上人の言葉を伝えている。

譲状や法の付嘱などがあっても、謗法があればそれらは無意味であると、日時上人は話されているのである。日顕上人についても同じことがいえる。謗法を犯した日顕上人は、すでに法主としての資格を失っているのだ。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「在家の俗男・俗女等よりも邪智心の法師ばらは殊の外の御敵なり、智慧に於ても正智あり邪智あり智慧ありとも其の邪義には随ふべからず、貴僧・高僧には依るべからず」(新池御書)

【通解】在家の俗男俗女等より邪智心の僧たちは、とくに敵である。智慧にも正智があり、邪智がある。智慧があってもその邪義にしたがってはならない。貴い僧とか高名な僧であるからということには依ってはならない。

 

日蓮大聖人は、事の正邪を判ずるのに、その言動をおこなっている者が「貴僧・高僧」であるかによってはならないと仰せになっている。いかに「貴僧・高僧」の主張であっても、「その邪義には随うべからず」と、日蓮大聖人は厳命されているのである。

法主の言葉には無条件で従え、まして法主に「信伏随従」しろなどとは仰せになっていない。邪宗の寺に先祖代々の墓を建てるなどといった、狂乱した行動をとる日顕上人に従ってはならない。これは御本仏の仰せである。

日興上人も、御遺誡置文に明記されている。

「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」

昨今、日蓮正宗中枢はこの条目すら曲解するに至っている。たとえ法主であっても、宗開両祖の末流に位置する弟子であることを肝に銘ずべきだ。

日興上人は御遺誡置文の冒頭に、「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」と仰せになっている。

いま日顕上人をはじめ宗門中枢は、法主は絶対、過ちを犯さない、法主に「信伏随従」することが成仏得道の直道であるという。相承を受けた法主は絶対に過ちを犯さないというのであれば、日興上人がこの条目を定められる必要はないことになる。

日興上人が御遺誡置文二十六カ条の冒頭にそのように定められているのは、「富士の立義」が日蓮大聖人の仏法と異なってしまうことを一番、心配されていたからにほかならない。

もっとつきつめれば、日興上人は後世の「貫首」の信心を心配され、この引用した一カ条をしたためられたといえる。いま日蓮正宗中枢がしきりに言っている、法主に従うことが信心だという説は、「先師の御弘通」に反する邪義邪説である。

繰り返すようだが、日蓮正宗僧俗が「信伏随従」しなければならないのは、日蓮大聖人の教法である。

法主と大御本尊様とは「不二の尊体」などと言い、三宝破壊をおこなっている日顕上人らを、日蓮正宗僧俗が「捨つべき」時が来ている。

家族友人葬のパイオニア報恩社