報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

七章 天魔てんま出来しゅったい

地涌オリジナル風ロゴ

第274号

発行日:1991年10月1日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

自身は宗祖の御聖訓に背きながら「相伝」のみが正義とする
日顕上人は「教外別伝」を立てる禅天魔の眷属である

「禅天魔」の天魔とは、天子魔のことである。天子魔とは三障四魔の一つ。三障とは煩悩障、業障、報障、四魔とは陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔という。

四魔のなかでも、天子魔は格別の意味を持つ。というのも、天子魔は第六天の魔王による働きで、あらゆる者の身に入り、あらゆる策謀をめぐらし仏道修行をやめさせようとするからである。

あるときは父母、あるときは上司、あるときは権力者、またあるときは高僧の身に入って仏法者を破滅させ、和合僧団を破壊し、仏法を毀滅しようとする。

日蓮大聖人は、仏道修行をおこなう者の身に三障四魔が襲いかかる必然を述べられている。三障四魔のうちで、天子魔の跳梁跋扈ほど激しく陰湿なものはない。

日蓮大聖人は、天子魔について次のように仰せになっている。

「仏法をばがくすれども或は我が心のをろかなるにより或はたとひ智慧は・かしこき・やうなれども師によりて我が心のまがるをしらず、仏教をなをしくならひうる事かたし、たとひ明師並に実経に値い奉りて正法をへたる人なれども生死をいで仏にならむとする時には・かならず影の身にそうがごとく・雨に雲のあるがごとく・三障四魔と申して七の大事出現す、設ひ・からくして六は・すぐれども第七にやぶられぬれば仏になる事かたし、其の六は且くをく第七の大難は天子魔と申す物なり、設い末代の凡夫・一代聖教の御心をさとり・摩訶止観と申す大事の御文の心を心えて仏になるべきになり候いぬれば・第六天の魔王・此の事を見て驚きて云く、あらあさましや此の者此の国の跡を止ならば・かれが我が身の生死をいづるかは・さてをきぬ・又人を導くべし、又此の国土ををさへとりて我が土を浄土となす、いかんがせんとて欲・色・無色の三界の一切の眷属をもよをし仰せ下して云く、各各ののうのうに随つて・かの行者をなやましてみよ・それに・かなわずば・かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ・それに叶はずば我みづから・うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見むに・いかでか・とどめざるべきとせんぎし候なり」(三沢抄)

【通解】仏法を学んでも、あるいは自分自身の心が愚かであることにより、あるいはたとえ智慧は賢いようであっても師匠によって自分の心が曲がってしまっているのを知らずにいるため、仏教を正しく習学し会得することはむずかしい。たとえ正師および実経に遇えて正法を得た人であっても、生死を出離して仏になろうとするときには、必ず影が身に添うように、雨の時に雲があるように、三障四魔といって七つの大きな障魔が現れてくるのである。たとえかろうじて六つは通過したとしても、第七番目に破られたならば仏になることはむずかしい。
 その六つはしばらく置くとして、第七番目の大難は天子魔というものである。たとえ末代の凡夫が一代聖教の意を悟り、摩訶止観という大事な御文を心得て仏になるであろう状態になったときには、第六天の魔王はこのことを見て驚いて、「ああ、とんでもないことだ。この者がこの国にいるならば、彼自身が生死を出離することはさておいて、また人を導くであろう。またこの国土を奪いとって、我が領土を浄土としてしまう。どうしたらよいであろう」と言って、欲界・色界・無色界の三界の一切の眷族を招集し、命令して「各々の能力にしたがって、彼の行者を悩ませてみよ。それで駄目だったら、彼の弟子檀那および国土の人々の心の中に入り代わって、あるいは諌め、あるいは脅してみよ」と言い、「それでも駄目だったら、我自ら降りていって国主の身心に入り代わって脅してみれば、どうして止められないことがあろう」と評議するのである。

 

第六天の魔王は、仏道修行をおこなう者が仏子の連帯を強め仏国土を形成していくのを恐れ、あらゆる妨害をする。第六天の魔王は最初、「一切の眷属」に命じて仏子を退転させようとするが、それができないと見ると、みずからが「国主」すなわち権威・権力者の心身に入って仏子を脅し、退転させようとする。

したがって、権威・権力者の身に天子魔が入るのをもって、三障四魔との最後の決戦と見定めるべきだろう。同趣旨のことを、日蓮大聖人は「兄弟抄」において次のように仰せになっている。

「されば法華経を信ずる人の・をそるべきものは賊人・強盗・夜打ち・虎狼・師子等よりも当時の蒙古のせめよりも法華経の行者をなやます人人なり、此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始巳来彼の魔王の眷属なり、六道の中に二十五有と申すろうをかまへて一切衆生を入るるのみならず妻子と申すほだしをうち父母主君と申すあみをそらにはり貪瞋癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす、但あくのさかなのみを・すすめて三悪道の大地に伏臥せしむ、たまたま善の心あれば障碍をなす、法華経を信ずる人をば・いかにもして悪へ堕さんとをもうに叶わざればやうやくすかさんがために相似せる華厳経へをとしつ・杜順・智儼・法蔵・澄観等是なり、又般若経へすかしをとす(中略)又禅宗へすかしをとす悪友は達磨・慧可等是なり、又観経へすかしをとす悪友は善導・法然是なり、此は第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に『悪鬼其の身に入る』と説かれて候は是なり。設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入つて法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり、何に況んや其の已下の人人にをいてをや」

【通解】それゆえ法華経を信じる人が畏れなければならないものは、賊人、強盗、夜打ち、虎狼、師子等よりも、現在の蒙古の責めよりも、法華経の行者の修行を妨げ悩ます人々である。
 我々の住む娑婆世界は第六天の魔王の所領である。一切衆生は無始以来、第六天の魔王の眷族である。魔王は六道の中に二十五有という牢を構えて一切衆生を入れるばかりでなく、妻子という絆を打ち、父母主君という網を空にはり、貪瞋痴の酒を飲ませて、一切衆生の仏性の本心をたぼらかす。そして悪の肴ばかりをすすめて三悪道の大地に伏臥させる。衆生にたまたまの善心があれば邪魔をするのである。
 法華経を信じる人をなんとしても悪道へ堕とそうと思うが叶わないので、だんだんにだまそうとしてまず法華経に相似する華厳経へ堕とした。杜順・智儼・法蔵・澄観等がこれである。また大日経へとだまし堕とす(中略)また禅宗へとだまし堕とす悪友は達磨・慧可等である。また観無量寿経へだまし堕とす悪友は善導・法然である。
 これは第六天の魔王がこれらの智者の身に入って、法華経を信じる善人をだますのである。法華経第五の巻・勧持品に「悪鬼が其の身に入る」と説かれているのはこのことである。たとえ等覚の菩薩であっても、元品の無明という大悪鬼がその身に入って、法華経という妙覚の功徳を妨げるのである。ましてそれ以下の人々においてはなおさらのことである。

 

第六天の魔王は、「法華経を信ずる人」を「華厳経」「般若経」「禅宗」「観経」へと騙し、堕とす。このことについて日蓮大聖人は、「第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり」と仰せになっている。

広宣流布の潮流が、これまでにない大きなうねりとなるとき、第六天の魔王は「智者」の身に入って、大法弘通の旗を掲げて船出しようとする仏子を、ことごとく無明の渦の中に巻き込もうとする。これは仏法に説かれた必然である。

そうであるならば、世界広布へ大きく船出した創価学会の前途に、未曾有の大難が起きるのも必定である。また、悪鬼入其身の「智者」の出現も、御聖訓に照らせば、明々白々のことである。

今回の日顕上人の狂乱ぶりは、理由のないことではない。まさに日顕上人の身に天魔が入り、破仏法をおこなおうとしているのだ。

日顕上人の説いていること、おこなっていることは、ことごとく四箇の格言にある「禅天魔」のとおりである。日顕上人は、身は日蓮正宗の法主でありながら、その心は達磨の眷属である。おこなうことは「魔の所為」である。日顕上人は、仏子らを「禅宗」に誘い、堕地獄への道を歩ませようとしている。

その理由を以下に列記する。

◆曹洞宗の寺に、先祖代々の墓を新しく建立する。これは日蓮大聖人の眷属のなしうることではない。達磨の所業である。

◆三宝を破壊し、仏と「不二」であるとして仏に肩を並べる。この根拠を「金口相伝」に置き、先祖たちの書、論、業績をことごとく無視する。これは禅坊主のなすことと等質のことである。日顕上人は一切の経論を無視して、「教外別伝」「不立文字」をおこなっている。一切を「相伝」にかこつけ、仏法の正邪を宗祖の御聖訓をもって判じていない。かりに御聖訓を引くことがあっても、それは、よこしまな我意を粉飾するためである。

◆先師日達上人の特別御形木御本尊を、日顕上人の御本尊と交換した不埒者の末寺住職を叱責しない。日顕上人みずからは、日達上人の建てられた大化城などを跡形もなくつぶしてしまい、すばらしい六壷も何の理由もなく建て替え、日達上人の一大業績である正本堂すらも、その意義を低めようとしている。

◆広宣流布の主体として創価学会に託された日淳上人の期待を一顧だにしないで、瞋りと短慮の故に創価学会を破壊しようとし、日淳上人の御指南に背むいている。

◆禅坊主は、自語相違を恥じない。「不立文字」と立てておきながら経を読む。日顕上人の自語相違たるや、おびただしいものがある。それは「頭破作七分」の様相を呈している。当初、正本堂の意義について池田名誉会長を慢心であると決めつけていたが、それは日顕上人の思い違いであった。その主張は、教学部長当時の日顕上人の主張とまったく自語相違。池田名誉会長、創価学会の評価について、昭和五十五年前後と、いまではまったくの自語相違。檀徒を作るなと言ったり、作れと言ったり、これも自語相違。代々の法主は僧宝たる日興上人と同格ではないとしながら、いまではみずからを仏宝たる日蓮大聖人と同格に扱わせている。日顕上人の自語相違の例は挙げればきりがない。

◆日顕上人は、以上のことをおこなえる大慢心者である。慢心は禅坊主の特質である。

日蓮大聖人は、禅宗の特質、害毒について、以下に紹介するように種々仰せになっている。この禅宗の本質を見極めることは、天魔に魅入られた達磨の眷属・日顕上人の本質を見抜くことでもある。

「教行証御書」に曰く。

「禅宗が教外別伝の所見は東西動転の眼目・南北不弁の妄見なり、牛羊よりも劣り蝙蝠鳥にも異ならず、依法不依人の経文・毀謗此経の文をば如何に恐れさせ給はざるや、悪鬼入其身して無明の悪酒に酔ひ沈み給うらん」

【通解】禅宗の教外別伝の所見は東西を取り違えた見方であり、南北をわきまえない妄見である。それは牛羊にも劣り、コウモリと違わないものである。涅槃経の「法によって人に依らざれ」、法華経譬喩品第三の「此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」の経文をどうして恐れないのであろうか。悪鬼が其の身に入って、無明の悪酒に酔っているからだろう。

 

この御文に描写される狂乱の僧は、支離滅裂、頭破作七分の日顕上人そのものである。日顕上人は創価学会の強折にあって、いまや東西もわからなければ、南北もわきまえられない。賢人ぶっているが、ただ感情のままに右往左往しているだけだ。

「聖愚問答抄」に曰く。

「只不二を立てて而二を知らず謂己均仏の大慢を成せり、彼の月氏の大慢が迹をつぎ此の尸那の三階禅師が古風を追う然りと雖も大慢は生ながら無間に入り三階は死して大蛇と成りぬをそろし・をそろし」

【通解】ただ不二の義だけを立てて而二を知らず、「自分を仏と等しいと思う」大慢心を起こしているのである。これはインドの大慢バラモンの跡を継ぎ、中国の三階禅師の古風を追うものである。そうではあるが、大慢バラモンは生きながら無間地獄に堕ち、三階禅師は死んでから大蛇となった。まことに恐ろしいことである。

 

「只不二を立てて而二を知らず謂己均仏の大慢を成せり」とは、日顕上人らのことである。日顕上人は、みずからを戒壇の大御本尊様と「不二の尊体」、あるいは「現代における大聖人様」などと言わせている。

つまり、「日顕上人は仏だ」というわけだ。まさに、ただ「不二」を立てて「而二」を知らない日顕上人は、日蓮大聖人の仰せのとおりの「大慢」の者である。

日蓮大聖人は「聖愚問答抄」において、先の文に続いて次のように仰せになっている。

「此の文の意は諸悪比丘あつて禅を信仰して経論をも尋ねず邪見を本として法門の是非をば弁えずして而も男女・尼法師等に向つて我よく法門を知れり人はしらずと云つて此の禅を弘むべし、当に知るべし此の人は我が正法を滅すべしとなり、此の文をもつて当世を見るに宛も符契の如し汝慎むべし汝畏るべし」

【通解】この文の意味は、諸々の悪比丘が禅を信仰して、経論も尋ねず、邪見を根本として法門の是非を弁えないで、しかも男女・尼法師等に向かって、自分こそはよく法門を知っているが他の人は知らない、と言ってこの禅を弘めるであろう。正しく知りなさい。この人は我が正法を滅ぼすであろう、ということである。この文によって当世を見るとき、ちょうど符契のように合うのである。あなたも慎み畏れなければならない。

 

「諸悪比丘」とは、日顕上人をはじめとする日蓮正宗中枢の僧侶たちのことである。時局協議会の文書を想起すれば、ますますこの文が身近に感じられるだろう。

「経論をも尋ねず邪見を本として法門の是非をば弁えず」、しかも「我よく法門を知れり」と装って、支離滅裂の論を展開しているのは、ほかならぬ日蓮正宗時局協議会のメンバーらである。

いま日蓮正宗中枢の主張していることは、その本質をつきつめればただ一つ、相伝の故に“御法主上人に信伏随従しろ”のみである。しかしながら、日顕上人自身が宗開両祖の教えに背いている。宗開両祖の御聖訓を踏みにじっている。そのような法主に、どうして「信伏随従」などできようか。与同罪を恐れるものだ。

ましてや、日顕上人の禅寺での祖先に対する法要などもってのほかである(本紙『地涌』第272号、273号詳述)。

開祖日興上人の御遺誡に曰く。

「檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云」(日興遺誡置文)

【通解】檀那(信徒)の神社への参拝や、社寺への参詣を禁ずるべきである。ましてや僧侶の身で見物と称して、謗法である悪鬼が乱入している寺院に参詣するべきではない。そのようなことがあれば、かえすがえすも悔しいことである。これは私の意見ではなく、経文や大聖人の御書によるのである。

 

奇弁ばかり弄している日蓮正宗中枢は、信徒の神社参拝はだめだが、法主の邪宗の寺での祖先の法要はよいとでも言うのだろうか。日興上人の御遺誡では、「檀那の社参物詣」すら禁じられているのだから、ましてや法主の邪宗の寺への出入りなどもってのほかと拝すべきであろう。

宗祖日蓮大聖人の仰せに曰く。

「我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし『慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり』等云云」(開目抄)

【通解】わが父母を、人が殺そうとするのを知って、父母に告げないでいられようか。悪子が酔い狂って父母を殺そうとするのを見て、止めないでいられようか。悪人が寺塔に火を放って焼いてしまおうとするのを、とめないで放っておかれようか。一人の子供が重病のときに、いやがるからといって灸をすえないでおかれようか。日本の禅や念仏を見て破折しない者は、このようなものである。「慈心がなくて詐り親しむは、すなわち彼の怨である」との金言をよく考えるべきである。

 

宗祖大聖人の「立正安国論」に曰く。

「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」

【通解】一刻も早く天下の泰平を願うならば、まずなによりも国中の謗法を断絶するべきである。

 

この御文をみれば、日顕上人が日蓮大聖人の弟子でないことがはっきりする。邪宗の寺の墓地に五百五十万円もの墓を建立して先祖供養をするばかりか、邪宗の坊主を破折もしない僧が、日蓮大聖人の嫡流たる日蓮正宗の法主であるなど、笑止千万のことである。

とてもではないが、邪宗の坊主どもを縮み上がらせる日蓮大聖人の眷属としての師子王の風格など、偲ぶこともできない。臆病者の日顕上人は、日蓮大聖人の弟子を名乗る資格などない。

宗開両祖に違背しているこれら謗法者たちが、みずからの正義を主張する唯一の根拠は「相伝」しかない。しっかりと目に見ることのできる御聖訓に背いた謗法者たちが、目に見えない「相伝」をもって、正義を主張しているのだ。

宗祖日蓮大聖人の御聖訓に背き、開祖日興上人の御遺誡を踏みにじった破戒僧たちが、目に見えない「相伝」をもって仏子らを脅し、隷属させようとしている。

日顕上人は、宗開両祖の御文をないがしろにし、「心を師」として邪義を構えているにすぎない。日顕上人らは、日蓮大聖人の仏法を口にしながら、その本質においては、「教外別伝」を主張しているにすぎない。

日蓮大聖人が「撰時抄」に曰く。

「禅宗と申す宗は教外別伝と申して釈尊の一切経の外に迦葉尊者にひそかにささやかせ給へり、されば禅宗をしらずして一切経を習うものは、犬の雷をかむがごとし、猿の月の影をとるににたり云云」

【通解】禅宗という宗派は教外別伝といって、仏の真の悟りは釈尊が一切経の外に迦葉尊者に密かにささやき伝えたと主張している。したがって禅宗を知らずに一切経を学ぶ者は、犬が雷にかみつくようなものであり、猿が月の影をつかまえようとするのに似ている、と言っている。

 

日顕上人ら日蓮正宗中枢の者たちは、「『相伝』のない法主以外の者が、日蓮大聖人の御聖訓に依ってなにを言ってもムダ。『相伝』のある法主はいつも正しく、法主に『信伏随従』することが正しい」と言い張る。こうした宗門中枢の言い分は、日蓮大聖人の仰せの禅宗の坊主の主張と同じである。

日顕上人らがいま言っていることは、「相伝」を「教外別伝」と同じ意味にしてしまう愚行といっていい。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「禅宗は天魔波旬の説と云云、此又日蓮が私の言に非ず彼の宗の人人の云く教外別伝と云云、仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり云云、教外別伝の言豈此の科を脱れんや」(行敏訴状御会通)

【通解】禅宗は天魔波旬の説であると、これもまた、日蓮が勝手に立てた言ではない。禅宗の人々は教外別伝といっている。仏の遺言には、我の説く経の外に正法があるというならば、それは天魔の説である、とある。教外別伝と言うことは、この咎をまぬかれることはできない。

 

日顕上人ら日蓮正宗中枢は、間違っても「金口嫡々」の「御相伝」を権威・権力化することがあってはならない。「相伝」を有していさえすれば、宗開両祖の御文に反してなにを言ってもよいということにはならない。

法主であるならば、宗開両祖の御文に、もっとも忠実でなければならないのだ。その者が謗法を平然とおこない、仏子を迫害するなど断じて許すことのできない所業である。

宗祖日蓮大聖人の仰せに曰く。

「問う禅天魔の故如何、答う一義に云く仏経に依らざる故なり、一義に云く一代聖教を誹謗する故なり」(早勝問答)

【通解】問う、禅宗を天魔の所為とする理由はなにか。答えて言う。一つの義では、仏の経典に依らないためである。もう一つの義では、釈尊が一代に説いた聖教を誹謗するからである。

 

日顕上人がしているのは、「天魔の所為」である。宗祖の御聖訓に依らず、謗法を呵責せず、行躰は御聖訓に反している。日顕上人の狂える所以は、禅宗にある。

この悪鬼入其身の姿を現じている日顕上人こそ、成仏得道を願う仏子らがもっとも恐れ、戦わなければならない対象である。

「濁悪世の時比丘我が信ずる所の教は仏の方便随宜の法門ともしらずして権実を弁へたる人出来すれば詈り破しなんどすべし、是偏に悪鬼の身に入りたるをしらずと云うなり、されば末代の愚人の恐るべき事は刀杖・虎狼・十悪・五逆等よりも三衣・一鉢を帯せる暗禅の比丘と並に権経の比丘を貴しと見て実経の人をにくまん俗侶等なり」(唱法華題目抄)

【通解】濁悪の世のときの悪比丘は、自分が信じる教えが仏の方便であり、宜きにしたがって説かれた法門であるとも知らずに、かえって権教と実教の別をわきまえた人間が出現すると、悪口をいい法を破ろうとするだろう。これはひとえに悪鬼が身に入ったことを知らないというのである。したがって末代の愚かな人の恐るべきことは、刀や杖、虎や狼、十悪、五逆罪よりも、三衣一鉢を身につけた仏法に暗い禅宗の僧侶、ならびに権教の僧侶を尊いと見て、法華経の行者を憎む僧俗なのである。

 

ここに言う「暗禅の比丘」とは日顕上人らのことである。

末法において成仏をはばむ「悪知識」について、日蓮大聖人は次のように具体的に仰せになっている。

「悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧にして愚癡の人の心を取つて善心を破るといふ事なり、総じて涅槃経の心は十悪・五逆の者よりも謗法闡提のものをおそるべしと誡めたり闡提の人と申すは法華経・涅槃経を云いうとむる者と見えたり」(唱法華題目抄)

【通解】悪知識というのは甘い言葉で偽り、媚び、言葉巧みに愚癡の人の心をつかんで、善心を破るということである。総じて言えば、涅槃経の文の心は、十悪や五逆罪を犯す者よりも、謗法・一闡提の人というのは、法華経・涅槃経をきらって誹謗する者をいうと見えている。

 

いまの日蓮正宗中枢および一部の悪侶らの姿、そのものである。これまで威張りに威張っていながら、檀徒づくりを目的にするや一転して態度を変え、「甘くかたらひ詐り媚び言を巧にして」いるのである。そして、「愚癡の人」を地獄へ堕とす。

日蓮大聖人は、「謗法闡提のもの」を恐れよと仰せになっている。これにつづく御聖訓は、実に印象的である。

「闡提の人と申すは法華経・涅槃経を云いうとむる者と見えたり」

権威を振りかざし、信徒に隷属を強いる日顕上人らの行為こそ、実に「法華経・涅槃経」を疎んでいる姿そのものである。そこに横たわっているのは、法華経以前の差別観だ。

男女貴賤の差別なく皆成仏道を説く法華経を、日顕上人らはあだんでいる。平等を認めれば、日蓮正宗中枢は依って立つべき基盤を失うからである。

日顕上人らがもっとも恐れているのは、法華経の平等観である。日顕上人らの心が住する所は、法華経以前にある。僧のみが貴い存在であってほしいのだ。

だから、法華経の平等観をもって教法を流布する池田名誉会長率いる創価学会を恐れるのである。果ては、自己の存在が失われるのを恐れ、「日蓮正宗に非ざる教えが弘まっても広宣流布ではない」などとうそぶくことになるのである。

さて、人を判断するのに、その言説だけをもって判断することは、間違いのもとである。その人の行動をもって判断すべきである。故に、日顕上人その人がなにをおこなったかをもって、本質を判断しなくてはならない。

末法において、法華経が世界に流布しようとするときには、かならず「天魔」が出来する。

日蓮大聖人の御聖訓に曰く。

「法華経の中に仏説かせ給はく我が滅度の後・後の五百歳・二千二百余年すぎて此の経閻浮提に流布せん時、天魔の人の身に入りかはりて此の経を弘めさせじとて、たまたま信ずる者をば或はのり打ち所をうつし或はころしなんどすべし」(妙法比丘尼御返事)

【通解】法華経のなかで仏は、我が滅度の後、後の五百歳、二千二百余年を過ぎてこの経を閻浮提に流布しようとするとき、天魔が人の身に入り代わって、この経を弘めさせまいと、たまたま信じる者をあるいは罵詈したり、あるいは打擲したり、所を追い払ったり、あるいは打ち殺したりするであろう。

 

この御文を拝せば、いま天魔の出現することは驚くべきことではない。

これまで世界広布をなしてきたのは誰か。逆に、いま広宣流布の流れに壊滅的打撃を与えようとしている者は誰か。

今日まで広宣流布を推し進めてきたのは、言うまでもなく池田名誉会長率いる創価学会である。その広宣流布の主体者である創価学会に対し、日蓮正宗中枢は、ある日、 突然、法主に信伏随従しないなどという言いがかりをつけ、さまざまな策謀をめぐらしてきたのである。その目的とするところは、創価学会の解体と檀徒づくりである。

日顕上人は、昨年の暮れまでは創価学会を称讃していた。ところが突如として、創価学会を解体する策謀をめぐらせてきたのだ。

日顕上人が豹変した真実の原因はなにか。それは日顕上人の心の中にある。日顕上人の胸中に第六天の魔王が入り込んだのである。

禅寺で法要などをして、日蓮大聖人の教法に背き、油断しているから、侮られてしまったのだ。その後の日顕上人の姿は、日蓮大聖人の仰せのとおりである。

「禅宗は天魔の説・若し依つて行ずる者は悪見を増長す」(行敏御返事)

【通解】禅宗は天魔の説である。したがってそれに基づいて行動する者は悪見を増長する。

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