報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

七章 天魔てんま出来しゅったい

地涌オリジナル風ロゴ

第267号

発行日:1991年9月24日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

淳師は牧口会長を「生来、仏の使いであられた」と話された
また戸田会長を「地涌千界の眷属の出現」であるとされた
〈法難シリーズ・第25回〉

創価学会の誕生は、初代の牧口常三郎会長あったればこそである。

昭和二十二年におこなわれた創価学会第二回総会に出席された堀米日淳上人(ただし当時は御登座前)は、牧口常三郎初代会長を偲び、「御講演」をされた。日淳上人は、牧口会長を想い起こされ、牧口会長について二つの特質を述べられている。

「牧口先生は、非常に慈悲の深い方でありましたが、此のことは先生が、日蓮聖人の御書に、涅槃経の文をお引きなされた『慈無くして詐はり親しむは、是れ彼れが、怨なり』といふ点を常に、口にせられたが此れは先生が、自らの境地を短的に表現するものにして余ほど感じて居られたやうでありました」(昭和二十二年十月十九日 東京教育会館 創価学会第二回総会御講演 『日淳上人全集』所収)

日淳上人はこう述べられた後、「初めて会はれた人に対しても、そこに少しの隔りもおかず慈悲平等の上に接せられるといふ風でありました」(同)と牧口会長の印象を述べられ、そのうえで、「反面にまた非常に、物事に厳格な気質を持つて居られて、何事によらず、厳格に判断し、厳格に処理をするといふ行き方をせられたと思ひます」(同)と語られている。

日淳上人は、牧口会長について次にように結論された。

「先生は、非常な慈悲心と厳格さとを以て他に対せられた」(同)

日淳上人は、牧口会長の二つの特質として「慈悲」と「厳格」を挙げておられる。また、日淳上人から見た牧口会長は、“折伏の人”“実行の人”であった。

「牧口先生の折伏のことでありますが、折伏といへば先生、先生と言へば折伏のことと、ことほどさように、先生と、折伏とは、重要なものでありますが、これはいふ迄もなく深く大きな慈悲心を持たれた先生が、思ひやりの止むに止まれぬ心からの救済の現れでしかも真実に、而も忠実でありなほかつあの厳格が、折伏の形をとられたのであります。『彼が為に悪を除くは此れ彼が親なり』この文は先生が、信条とせられたところであります。価値に於て行動の世界を直視せられつつあつた先生は、一にも二にも実行で、理念的なものは、聞いても居られないといふ風にいらだたしさを感ぜられたようでありましたが、この本質のうちからあの折伏の行が、発露せられたのだと私は考へて居ます。

もとより、妙法の信に住せられた先生が、日蓮聖人の折伏の行範を追はれたのはいふまでもありませんが、しかしそれは、追はれたといふより先生の生来の行き方が、妙法により開顕され点眼されたといふのが当つてをると思ひます」(同)

日淳上人はこのように、牧口会長が“折伏の人”であり、“実行の人”であったことを述べられている。そして、最後に日淳上人は、牧口会長について仏法の本質論から述べられている。これはとりもなおさず、創価学会出現の淵源に触れられた言葉でもある。

「私は先生が、法華によつて初めて一変された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によつて開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考へさせられるのであります。そうして先生の姿にいひしれぬ尊厳さを感ずるものであります。先生には味方もありましたが、敵も多かつたのであります。あの荊の道を厳然と戦いぬかれた気魄、真正なるものへの忠実、私は自ら合掌せざるを得なくなります」(同)

日淳上人の牧口会長に対する気持ちは、このようなものであった。日蓮大聖人の仰せのままに生きられた牧口会長に対し、心の底から湧く尊敬の気持ちを、日淳上人は隠さなかった。そこには僧俗の隔てはない。

日淳上人は戸田第二代会長に対しても、たとえ難い尊敬の念を抱いておられた。日淳上人は、昭和三十一年に第六十五世として御登座された。昭和三十三年四月二日に戸田第二代会長が逝去されたが、その直後、五月三日におこなわれた創価学会第十八回総会において、戸田会長と創価学会について次のように話されている。

「御承知の通り法華経の霊山会において上行を上首として四大士があとに続き、そのあとに六万恒河沙の大士の方々が霊山会に集まつて、必ず末法に妙法蓮華経を弘通致しますという誓いをされたのでございます。その方々が今ここにでてこられることは、これはもう霊山会の約束でございます。その方々を会長先生が末法に先達になつて呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上に呼び出したのが会長先生だと思います」(昭和三十三年五月三日 東京メモリアルホール 創価学会第十八回総会御講演 『日淳上人全集』所収)

以上のように、日淳上人は明快な言葉をもって、戸田会長および創価学会の仏法上の位置づけをされている。

日淳上人は、さらに創価学会こそ仏語を実語となす広宣流布の主体であり、時にかなって出現した「仏の一大集り」であると、次のように話されている。話された時期が、戸田城聖創価学会第二代会長逝去の直後であることに留意して、読んでもらいたい。世間が戸田会長亡き後の創価学会は空中分解するであろうと嘲笑していた時期である。

「正法は必ず広宣流布する、これらはもう仏の誓いでございます。後五百歳に広宣流布して鳩槃荼等にその便りを得せしむることなしとおつしやつてある。その誓が実現しなければ仏様は真実を述べられたということはないわけです。ですから、これからが、いよいよ広宣流布へ進んで行く段階になつたと思うのであります。会長先生は基盤を作つた、これからが広布へどんどん進んで行く段階であろうと思うのでございます。(中略)どうかその意味におかれて、先程来大幹部の方、役員の方々、又皆様方が相い応じて心も一つにし明日への誓を新たにされましたことは、全く霊山一会厳然未散と申すべきであると思うのであります。これを言葉を変えますれば真の霊山で浄土、仏の一大集りであると私は深く敬意を表する次第であります」(同)

日蓮大聖人の御在世と滅後を俯瞰して語られる仏法の“時”。その“時”にかなって出現した、「霊山一会厳然未散」「真の霊山で浄土」「仏の一大集り」と日淳上人が称される創価学会。この久遠即末法の実相に、仏法の醍醐味を感ずるものだ。

日淳上人は、この「御講演」の最後を、

「宗門も及ばずながら皆様方といよいよ相呼応致しまして、会長先生のあの大きな仕事に報いて一生懸命にやるつもりでおりまする。どうか一つ皆様のいよいよ御健闘の程をお願い致しまして、私の講演を終ることに致します」(同)

との言葉で結ばれている。たとえようのない慈愛に満ちた言葉である。そこには権威・権力の片鱗すらない。このような御法主上人のもとであれば、自然に「僧俗一致」もなされるだろう。

日淳上人は、昭和三十四年一月一日の『聖教新聞』に「年頭の辞」を寄せられているが、そこでも戸田会長について、「まことにその言行は地涌千界の眷属の出現ならではなし得ないところでありました」(昭和三十四年一月一日付『聖教新聞』)と断言されている。

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