報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

三章 法脈ほうみゃく濁乱じょくらん

地涌オリジナル風ロゴ

第91号

発行日:1991年4月1日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

「ほとんど嘘を言ったことがありません」との説法だが
日顕上人の最近の言動にはあまりに嘘が多すぎる

本日(四月一日)はエープリルフールということでもあり、ウソについて考えてみたい。日顕上人の最近の説法も、ウソについて触れていることが多く、ウソについて考えてみるのも時にかなったことであろう。

三月二十七日、法華講青年部の第二回大会が総本山の大講堂でおこなわれた。そのとき日顕上人は、次のように話している。

「世間には悪口、両舌、妄語、綺語という言葉がありまして、これは十悪のうちの四つの口の罪になっておりますが、そのうちの二枚舌というのは、あるときはこう言い、次のときにこう言い、要するに自分に都合のいいように、自分の利益のために適当にその主旨を変えるのが二枚舌であります。これは大変に誤ったことであります。しかし過去においてやはり仏法の展開の中における形で、えー、どうしてもみずから謝っていかねばならないことがあるならば、その過ちを正しく訂正し、過去の過ちをはっきりと改めるということは懺悔反省に当たるのであります」

ここに日顕上人は「自分の都合で適当にその主旨を変えるのが二枚舌」で、「過去の過ちをはっきりと改めるということは懺悔」であると定義づけた。

その前提に立ち、「『大白法』の号外でご覧になりましたように、私はあえてあの中において、深い反省をもって前のあの言葉はあやまりである」と述べた。つまり正本堂に関わる前言をひるがえした自分の言は懺悔であるとの主張である。これが懺悔であるのか二枚舌であるのかについては、正本堂という三大秘法にかかわることであるから、小紙はここでは言及しない。

ただし、正本堂の建立前と建立後のその趣旨が違うというのでは、あまりに問題が大きすぎるということだけは指摘しておきたい。

さて、ここではウソが主題である。本題にもどる。三月十八日に総本山でおこなわれた教師指導会でも、日顕上人はウソについて説法している。その説法のうち、ウソに関わるところだけを、抜粋し以下に紹介する。

「しょっちゅうウソを言って、百遍ウソを言って、ウソを百遍言えば本当になるという噂が話がね、最近あちこちに聞こえてくるが、こういう考え方で修行されている人は本当に気の毒です。地獄行きですよ。ウソを言って平気でそのウソを本当のように百遍も言えば本当になってくるんだからウソを言えっていう。ウソを言いながら、自分の都合のいいことは何でもウソを言って、ウソで塗り固めて、相手をやっつけて、それで自分が正しいことを立証して、そういう形でもって、あくまでいろんな策略を駆使しながらやっていくことが妙法の振る舞いだなんてこと考えたら、とんでもない大きな間違い。そういう考え方であるならば、どこの世の中にも通用しませんよ。謗法の世界だって通用しません、そんなことは」

「しょっちゅう口を開けば、なんだありゃ、またあんなことして、またこんなことして、ウソばっかり言ってる、というようなことが噂になって、蛇蝎のごとく嫌われるような姿があれば、どこかにまずいところがあるね。我々は日蓮正宗、大聖人様の仏子として、弟子として、ああいうことを思われたり、言われたりすることは大聖人様の尊い御顔に泥を塗りたてまつっているんだ、という自覚もなければならないと思います。私自身そうであるならば、たちどころに懺悔をし、大聖人様の御宝前に、五体を地に投げて、お詫びを申し上げます。しかし、私は特に最近、常に願っておるとおり、ほとんどウソを言ったことがありません。全部、本当のことを言っております。そのかわり、仮にそういうことが自分の不利になることでも本当のことを言います。あくまで真実は見つめなくてはならない」

以上の日顕上人猊下の説法を見て、宗内の方々はどのように考えられるだろうか。おのおの、想起される日顕上人のウソの事例は違うと思うが、かなりの数の実例を思い起こされるのではあるまいか。

この三月十八日の説法では、日顕上人は次のようにも話している。

「日達上人も、やはりあれですね、(正本堂について)結局いろいろおっしゃったけれども、御本意はこうであったということを私は確信しております」

日達上人の「御本意」を日顕上人が解釈した結果、「いろいろおっしゃったけれど」と、まるで状況に応じて日達上人の話が変わったような表現までしていることが注目される。

最近のウソの事例は次号に譲るとして、昭和五十五年七月四日に総本山・大講堂でおこなわれた全国教師指導会での説法を、少々長くなるが以下に紹介する。

いまとなってみれば、これは単なるウソだったのだろうか。話したときの真意は知るすべもないが、今日の日顕上人の言動が、この昭和五十五年の説法を妄語としてしまっていることだけはたしかなようだ。

「“学会はあくまで謗法の団体である”という人が、その謗法の団体の人たちから御供養を受けるというその姿、その精神はまったくおかしな話です。だから、勝手な、変なことは言わないでいただきたい。『それでは自分は、法主がそう言ったから明日から御供養は受けない』と思うのも、それは心がけだからしようがありませんけれども、そんなことをしたからといって宗門が本当によくなるわけでもなければ、広宣流布が促進されるわけでもないから、そんなことはやめたほうが利口です。

それから、これはあまり言いたくはないのですけれども、隠れた悪人の手に乗るな、ということであります。

隠れた悪人というものは、提婆達多という例もありますが、表にはほとんど顔が出てきません。そして裏では、大変に大きな仕事をしており、その画策が間接的に伝わっていって、それに乗せられている僧侶があると、私は思っております。もちろん、それに乗せられている人には、ある者の画策によって、自分がこう思ったり、こういうふうに行動しているんだとは気づかない人が非常に多いのでありますが、事実として、そういう姿があるのであります。笑っておられる方もあれば『そんなばかなことがあるか』と思っておられる方もありましょうが、私は事実として、あると思っております。

このようなくだらないことは、そのうちにだんだんとはっきりしてくるでしょうが、その人間が、信心もなければ勤行もまったくしないような者であったとして、そのような提婆達多みたいな人間の口先三寸、頭三寸のくだらない悪知恵に乗って、日蓮正宗の僧侶や立派な信徒が、あっちに動きこっちに動いて変なことをやるという姿は実にみっともないし、仏法破壊の姿であり、罪障を積むものだと思います。この辺もひとつ、十分に自重していただきたいと思うのであります。

また、この悪人というのは、“物事のすりかえ”がすごくうまいのであります。ちょっとした材料を巧みに、まったく違うように抱き合わせる。それによってみんながごまかされるという姿もあります」

以上が、昭和五十五年の日顕上人の説法である。現在、創価学会および学会員からこれだけ批判されながら御供養を受ける者は、この説法によれば「精神はまったくおかしい」ということになる。それとも今回の御供養を受けることについては、「御慈悲」ということになるのだろうか。

説法の後半で、提婆達多について触れているが、当の日顕上人と宗門中枢の人々は、今回、結局この説法にあるとおりのやり口にハメられてしまった。

池田名誉会長の発言をデッチ上げたものや、ねじ曲げたものを忠義面した者に耳に入れられ、日顕上人らが瞋恚の思いを猛々しくしたというのが、一連の騒動の根本的な原因である。事実はこの日顕上人の説法のとおり、提婆達多の悪知恵と口先に乗せられたというのが、事の真相なのだ。

それともこの説法は、いまとなってみればまったくのウソであった、したがって懺悔、訂正するのみとでも言うのだろうか。

ここまでの説法をしながら、今日のありさまを呈しているのは、悪鬼に魅入られたとしか言いようがない。いかにも残念なことである。 

家族友人葬のパイオニア報恩社