報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

三章 法脈ほうみゃく濁乱じょくらん

地涌オリジナル風ロゴ

第87号

発行日:1991年3月28日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

宗祖の御金言を切り文にして信徒を隷属させようとは
日蓮正宗の中枢は大聖人の予言された悪比丘である

日蓮正宗は、創価学会の献身的な御供養に支えられ、いまでこそ日本宗教界の雄としての体裁を整えているが、その内実は、戦前、戦中となんら変わっていなかったことが、今回の悪鬼入其身の姿を露呈したことで証明された。

かつて五重塔の銅葺屋根瓦を食いつぶしたように、信徒の供養によって作られた寺の財産を費消しても自責の念すらわいてこない。いま宗門の多くの者のやっていることは、明治、大正、昭和初期の日蓮正宗の堕落した僧たちとまったく同次元である。信徒の供養による財産を自分のためだけに使って当たり前と思っている。いやもっとひどい。沽券を保つためには、広宣流布さえつぶしてもよいという了見だ。

妻帯して外車を乗りまわし、立派な家に住み、女房に高価な宝石や着物を身につけさせ、子供に家業を継がせるという人生を歩みたいのであれば、なにも僧という道を選ぶ必要などない。在家の者として日蓮大聖人の仏法を弘めればよいのだ。

しかしその場合、決して威張ることなどできないし、自分を敬えと言うこともできない。だが、この日蓮正宗の僧に見られる出家の腐敗は、仏の眼から見れば意外なことではない。

日蓮大聖人は、腐敗した僧の姿について述べた法華経の文言を開目抄において引用されている。僧侶の腐敗は正、像、末の三時にわたる重大テーマなのである。

「唯願くは慮したもうべからず仏滅度の後恐怖悪世の中に於て我等当に広く説くべし、諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし、悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん、或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂つて人間を軽賤する者有らん利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるることを為ること六通の羅漢の如くならん、是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮て好んで我等が過を出さん、常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其身に入つて我を罵詈毀辱せん、濁世の悪比丘は仏の方便随宜の所説の法を知らず悪口し顰蹙し数数擯出せられん」(法華経勧持品)

【通解】ただ願わくは世尊よ、心配したもうことなかれ。仏の滅度の後、恐怖悪世の中において、我等はまさに広く法華経を説き弘通するであろう。しかし彼らは皆これを耐え忍ぶであろう。悪世の比丘は邪智で心は諂曲であり、いまだ得ていない悟りを得ていると思い、我慢の心が充満している。あるいは人里離れた閑静な場所に衣をまとい、静かな所で真の仏道をしていると思い、世事にあくせくする人間を軽賤する者があるであろう。私利私欲を得る目的で在家のために法を説いて、その結果、形の上では六通の羅漢のように尊敬されるであろう。
 この人は悪心を抱き、つねに世俗の事を思い、閑静な場所にいるという理由だけで、自己保身のため正法の者の悪口を並べ立てるであろう。常に大衆の中にあって正法の行者を毀るため、国王や大臣や婆羅門居士およびその他の比丘衆にむかって誹謗して、我等の悪を説いて「これは邪見の人であり、外道の論議を説いている」というであろう。濁劫悪世の中には多く諸々の恐怖する件があり、悪鬼がその身に入ってわれら正法の行者をののしり、批判し、はずかしめるであろう。濁世の悪比丘は、仏が方便随宜の説法をしていることに迷い、経の浅深勝劣を知らず、正法の行者に悪口し、顔をしかめ、しばしばその居所を追い出すであろう。

まさに宗門は、「悪鬼其身に入つて」、法華経の行者の集まりである創価学会を「罵詈毀辱」しているのである。日蓮大聖人の仏勅を素直に実行しているものは創価学会である。いま日蓮正宗の中枢は、その創価学会を解体しようとしている。

その手段も、経文どおり「是れ邪見の人・外道の論議を説く」と、創価学会をそしっているのだ。法華経に活写されているのは、いま眼前にある状況であり「悪比丘」のことである。法華経はことごとく実語であることが肌身でわかる。これも法悦の一つだ。

「爾の時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし、是の時に当に諸の悪比丘有つて是の経を抄掠し分ちて多分と作し能く正法の色香美味を滅すべし、是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来の深密の要義を滅除して世間の荘厳の文飾無義の語を安置す前を抄して後に著け後を抄して前に著け前後を中に著け中を前後に著く当に知るべし是くの如きの諸の悪比丘は是れ魔の伴侶なり」(涅槃経)

【通解】その時に、この経が閻浮提の中に広く流布するであろう。この時にもろもろの悪比丘があって、この経を抄掠して多くの部分に分け、よく正法の色香美味を滅するのである。このもろもろの悪人はまた、このような大乗経典を読誦するといいながら、如来の深密の要義(経の真意)を滅除して、世間にありふれた荘厳の美辞麗句や無義の語を並べ、経文の前をとって後ろにつけ、後ろをとって前につけ、前後を中につけ、中を前後につけたりする。このようなもろもろの悪比丘は魔の伴侶であると知るべきである。

この文を読んですぐさま思い出されるのは、戦時中の日蓮正宗の訓諭をはじめとする文である。それはまさしく、この経文で予言されているとおりのやり方だった。日蓮大聖人の御聖訓を切り文にし、国家神道の思想に基づく侵略戦争に宗内僧俗を駆り立てるための道具として使っていたのだ。

いまもまた、創価学会を攻撃するために、日蓮大聖人の御聖訓を、日蓮正宗の僧侶とは思えないデタラメな解釈をして切り文にして使っている。

御書の中には「弟子檀那」とのみあり、「檀那弟子」と言われていないのだから、弟子(僧)のほうが檀那より上であるという主張などは、その代表例である。

あるいは、猊下を僧宝と規定し、日興上人と同等に扱えなどとは増上慢もはなはだしいものがある。日顕上人のどこが身軽法重で聖僧であるというのだろうか。僧形をなしているとはいえ、肉食妻帯しているうえに、瞋恚の心猛々しい短慮の者が、どうして日興上人と同等の僧宝であるというのだ。これにまさる「慢」はない。

「我涅槃の後乃至正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし持律に似像して少かに経を読誦し飲食を貪嗜し其の身を長養す、袈裟を服ると雖も猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現わし内には貪嫉を懐かん唖法を受けたる婆羅門等の如し、実に沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」(涅槃経)

【通解】仏が入滅ののち、正法時代を過ぎて、像法の中において出家の比丘があり、戒律を持つに似て、わずかばかり経文を読誦し、飲食をむさぼり、その身を長養している。袈裟を着ているとはいえ、布施をねらうさまは猟師が獲物を狙って細目に見ながら、静かに近づいていくがごとく、猫が鼠を狙っているようなものである。しかも常に自分は阿羅漢果を得たと言っているだろう。外には賢善の姿をあらわし、内心にはむさぼり、妬みをいだき、法門のことについては、唖法の修行を積んだ婆羅門尊者のごとく黙りこくっている。実際には出家の仏弟子ではないのに、僧侶の姿をして邪見が強盛で正法を誹謗するであろう。

これこそまさしく、現在の日蓮正宗の多くの腐敗した僧の姿そのものである。「賢善」を装いながら、実は一人の大信者に対する瞋恚に身を焦がしている日顕上人が、その末法における「悪比丘」の代表である。

日蓮大聖人の仏勅を奉じた創価学会による大折伏戦が、日蓮正宗の法脈に忍び込んだ邪悪なるものを顕在化させたのだ。戦中以来の創価学会の護法の戦いによって、日蓮正宗は正法としての外見は整えたけれども、本質的には悪鬼がいまだに入り込んでいたようだ。

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