第467号
発行日:1992年7月29日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
妙法を独占したい日顕は題目を唱える民衆が尊くては困る
そこで南無妙法蓮華経を否定し仏種を断ずる己義を構えた
猊座を穢し続ける日顕が、狂学を振り回し、信徒を誑惑しようとしている。日蓮大聖人の仏法の根本義を否定し、己への服従が衆生の成仏にとって不可欠であるという暴論を述べた。
聞くところによれば、もともと民衆には仏性はなく、自分が独占管理している戒壇の大御本尊様にお目通りすることができなければ成仏しないと日顕は言うのだ。
狂乱の極みに達した日顕は、いよいよ三世十方の諸仏を敵にまわし、仏法を根本から破壊することを試み始めたようだ。南無妙法蓮華経の否定に挑戦してきたのである。
七月二十六日正午から、日蓮正宗法華講連合会第二十七回総会が、総本山大講堂において開かれた。そこで日顕が話した内容は、これでも仏法の正統を認ずる一宗を統率する者の話だろうかと思われる内容だった。
日顕の話の骨子となった部分を抜粋して紹介する。
「南無妙法蓮華経の中にあらゆる教えが備わっている。その妙法の妙という字に三つの内容が存するのである。一つは衆生の一人ひとりの生命の中に妙法が存している。これを衆生本有の妙法という。
一生成仏抄に、
『夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり』
と御指南があります。
南無妙法蓮華経と唱えれば、一人ひとりの生命に妙法が涌現してくるという御教示です。しかし、この御書は建長八年(筆者註 正しくは建長七年)という時期に大聖人様が宗旨建立の二年後にお示しになった御書です。
三沢抄という御書の中で、『又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ』という教えがあります。
南無妙法蓮華経が衆生本有の妙法である。したがって、それを信じてお題目を唱えれば仏になるという教えは、まだ大聖人様が御本尊をお顕しになる前の教えである。
その辺のところを考えないと、御書は何でも根本は同じだと考えて拝すると、とんでもない大きな誤りを犯すことになる。
これがまた、本日の、あの邪教となった創価学会の根本的な大聖人様の仏法に対する大慢、謗法の根源となっている」
日顕は、南無妙法蓮華経が衆生本有の妙法(妙理)であり、それを信じ唱題すれば仏になるというのは、御本仏・日蓮大聖人の佐前(日蓮大聖人が佐渡流罪になる以前)の教えで、「爾前の教」であり、御本尊を顕される前の仮の教えであると強調しているのだ。
ところで佐前、佐後の法門の大きな違いは、人本尊、法本尊が開顕されているかどうかの違いである。佐渡流罪の御本仏・日蓮大聖人が、開目抄において人本尊、観心本尊抄において法本尊を開顕されたことにより、佐前佐後が分け隔てられるのだ。
すなわち、佐前においては人法ともに本尊が示されておらず、日蓮大聖人もまた上行菩薩の再誕としてのお立場であった。佐後は人法の本尊を示され、久遠元初の自受用報身如来のお立場から、末法の御本仏として振る舞われた。
いってみれば、佐前佐後の法門の立て分けは、日蓮大聖人御自身の内証、外用の立て分けと結論できるものなのである。
日顕が強調しているように、衆生本有の妙法について日蓮大聖人は人法の本尊開顕後の佐後において否定されているだろうか。いや、そうではない。
本来、衆生に南無妙法蓮華経が備わっているという法門は、佐前佐後に通ずる法門であり、法華経の観心をなすものである。
日顕は、佐前佐後という立て分けとは関係のない普遍的な法門を、無理に佐前佐後に結びつけて否定しようとしているのだ。日顕のしていることは、まさにペテンにすぎない。
日顕は、衆生本有の妙法の存在を示す法門を、日蓮大聖人の仏法においては“爾前”の教えであるとして否定したいのである。
その目的は、衆生が日顕に屈し、日顕の書写した本尊を拝み、登山して戒壇の大御本尊様にお目通りしなければ成仏しないと言いたいからだ。
結局のところ、日顕は自分に服従しなければ成仏しないという己義を構えているだけである。日顕は、衆生本有の妙法が南無妙法蓮華経であることを佐前の法門として相対化して葬ろうとしているのだ。
しかし、その法門自体は、絶対的かつ普遍的なものであり、法華経の観心をなし、日蓮大聖人の仏法の核心をなすものである。人本尊、法本尊が顕されたことによって、無用となるような法門ではない。むしろ、本尊が開顕されたことにより、いっそう具現化され現実性を帯びたといえる。
日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経如来寿量品第十六」について、甚深の御法門を次のように口伝されている。
この「御義口伝」は、ことわるまでもないが佐後である身延においてなされたものである。
「此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、〈中略〉惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云」(御義口伝)
【通解】この南無妙法蓮華経如来寿量品第十六という題号は、日蓮大聖人の御身にあたる大事なものである。これこそ神力品第二十一において、上行菩薩として釈尊より付属を受けた実体なのである。
文句の九の文を文底より読めば、如来とは釈尊のことである。すなわち総じては十方三世のあらゆる仏に通ずるのである。だが別しては、本地無作の三身、すなわち久遠元初の、凡夫即極の本仏である。いま日蓮大聖人およびその門下の意で如来を論ずるならば、総じては、一切衆生はことごとく如来である。だが、これはあくまで理の上で論じたものであり、別して、事の上で論ずるならば、日蓮大聖人およびその弟子檀那のことである。
されば、無作の三身とは、末法の法華経の行者、すなわち末法に全民衆救済のために出現された御本仏・日蓮大聖人の御事である。
この無作の三身、即日蓮大聖人の宝号を、南無妙法蓮華経というのである。これは人法一箇の本尊であり、寿量品の事の三大事、すなわち内証の寿量品に顕された事の一念三千の当体たる本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇の三大秘法とはこのことなのである。〈中略〉
全体を通じていうならば、釈迦仏法のような、歴劫修行により、次第に惑いを伏し、仏果を得ていくというのではなく、南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の根本は、凡夫の当体本有のままで究竟即、即無作三身如来の真実の幸福境涯を会得していくことにある。これが、この品の極理であると心得るべきである。
それではこの無作三身如来の振る舞いはなにかといえば、それは南無妙法蓮華経以外にないのである。
南無妙法蓮華経を唱える衆生がいかに尊い存在であるか、御本仏・日蓮大聖人は繰り返し教えられている。この御文を拝すれば、朝夕に唱題を重ねる創価学会員が、どれほど尊い仏であるかは明らかとなる。
まして創価学会員は、人本尊(日蓮大聖人)、法本尊(南無妙法蓮華経)を至上のものとしている。したがって、創価学会員が佐前の法門を信仰の根本に置いているというのは、日顕の見当違いの言いがかりにすぎない。
日蓮大聖人の仏法の本質からみれば、逆に日顕宗こそ人本尊、法本尊をないがしろにしている邪宗教であることがわかる。
まず、人本尊たる日蓮大聖人とエロ坊主・日顕を同等に扱っている。その裏づけとして、エロ坊主・日顕に日蓮大聖人が憑依しているかのような原始宗教そのままの論を展開している。
法主絶対を振りかざしてはいるが、日顕宗のそれはまるでシャーマニズムである。南無妙法蓮華経が、霊媒である日顕以外には現れないとしているのだ。
この日顕宗の邪義は、人本尊たる御本仏・日蓮大聖人すらも古仏として位置づけようとするものである。日顕宗では、御書も日蓮大聖人の法門のすべてを記すものでなく、相伝の中にこそ重要な法門があるという言い方をする。
これは、相伝を受けたとする日顕の語ることが、御本仏・日蓮大聖人の御書よりも上に位置するという邪義を内包するものだ。このように、人本尊にして末法の御本仏・日蓮大聖人は、日顕よりも下の相対的な位置に貶められることとなる。
日顕らは口では日蓮大聖人を尊しとしているが、腹の中では御本仏より日顕が尊いとしているのである。
よく日顕宗の者たちは、御本仏・日蓮大聖人と日顕が「相伝」の故に等しく尊いとするが、これこそ邪義の根本である。御本仏と買春男とが、どうして等しく尊いといえるのか。
現在の日顕宗は、僧宝に連なる末輩と仏宝とを一体とするものであり、これこそ、三宝破壊をなす論と結論されるのである。
さて、本論にもどろう。日顕宗は、人本尊たる日蓮大聖人を日顕と同位あるいはその下に置き、絶対的な存在としないが故に、日蓮大聖人の仏法とはほど遠いものがある。
一方、創価学会員は日蓮大聖人を人本尊と崇め恋慕渇仰している。日顕宗は佐前の範疇にも入らぬ原始宗教、創価学会員の奉ずる仏法は、まさしく日蓮大聖人の佐後の法門なのである。
法本尊とは南無妙法蓮華経である。日顕は己にかしずかない者は、南無妙法蓮華経を唱えても成仏しないと言う。
これまた日顕は、法本尊すらもみずからの斟酌の範疇に入れ、足の下に敷こうとしているのである。日顕は、手のつけられない慢心者だ。
創価学会員は、人本尊(日蓮大聖人)、法本尊(南無妙法蓮華経)に迷わず、日蓮大聖人の教えのままに精進している。日顕が、創価学会の教学は佐前の法門と難クセをつけても、唱題する創価学会員が仏であることは仏法に照らして厳然たる事実なのである。
日顕は、自分が倒錯し狂学に染まっていながら、法華講連合会総会で、次のように話を続けた。
「民衆が民衆即仏法という考え方で、民衆の幸福がすべての基本にあるというような実に誤った考えに囚われているというのが、今日の創価学会です。
御書の『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし』とある。
簡単に衆生本有の妙法が妙法であるのだったら、それは、日蓮大聖人の仏法ではない」
日顕は、日蓮大聖人の仏法を真っ向から否定し、御本仏を衆生から遠ざけ、南無妙法蓮華経を日顕ら祭祀特権階級の独占物にしようとしている。
それでは、相伝書である「御義口伝」に依り、日蓮大聖人の正しい教えを学びたい。「相伝」「相伝」という日顕らの類いが、いかに相伝をないがしろにしているか、相伝書たる「御義口伝」に照らせば明々白々となる。
御本仏・日蓮大聖人より日興上人に秘伝されたところによれば、南無妙法蓮華経と唱える人間が仏なのだ。衆生本有の妙法を、唱題により明らかなものとするのである。
「化とは色法なり城とは心法なり、此の色心の二法を無常と説くは権教の心なり法華経の意は無常を常住と説くなり化城即宝処なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は色心妙法と開くを化城即宝処と云うなり」(御義口伝)
【通解】化城の化とは色法(肉体・物質)であり、城とは心法(精神・非物質)である。かりのものである化城が、じつはそのまま宝処なりと説くのが文底なのである。所詮、いま、日蓮大聖人およびその門下が、御本尊に南無妙法蓮華経と唱えたてまつり、わが色心が、即妙法蓮華経の当体と開き、即身成仏をとげることを化城即宝処というのである。
「法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり、〈中略〉さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり」(御義口伝)
【通解】三大秘法の大御本尊を持ち奉るというのは、わが身がすなわち仏なりと確信することである。〈中略〉さて、我々が仏身を持つということは、わが身即仏であり、それ以外に仏はないと確信することをいうのである。
「身心の二字色心妙法と伝受するなり、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて即身成仏す身心無倦とは一念三千なり云云」(御義口伝)
【通解】身心の二字は色(身)と心、すなわち我々の生命がそのまま妙法の当体であるというのが、仏の伝授なのである。日蓮大聖人およびその門下は、南無妙法蓮華経と唱えて即身成仏するのである。身心無倦というのは、我々が一念三千の当体であることを示しているのである。
「されば地涌の菩薩を本化と云えり本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり、此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり、此の題目は必ず地涌の所持の物にして迹化の菩薩の所持に非ず」(御義口伝)
【通解】それゆえ、地涌の菩薩を本化というのである。本とは教相からいえば五百塵点劫、観心からいえば無始無終の久遠元初からの利益なのである。この地涌の菩薩は根本の法をもっているのである。本法とは南無妙法蓮華経である。この南無妙法蓮華経の題目は地涌の菩薩のたもつところのものであって、迹化の菩薩のたもち得ないものである。
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」(御義口伝)
【通解】総じて南無妙法蓮華経と唱える大聖人の門下もまた寿量品の本主とあらわれるのである。
「無上道とは寿量品の無作の三身なり此の外に成就仏身之れ無し、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は成就仏身疑無きなり云云」(御義口伝)
【通解】無上道とは、内証の寿量品に説く無作三身である。これ以外に成就仏身はないのである。いま、日蓮大聖人こそ無作三身の仏であり、南無妙法蓮華経と唱え奉る大聖人の門下もまた成就仏身は疑いないのである。
「是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり」(御義口伝)
【通解】これすなわち、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、おのおの当体を改めずして、そのままの姿で無作三身と開見していくのである。これこそ一切を摂することであり、量の義である。いま、日蓮大聖人およびその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、すべて無作三身の本主なのである。
御本仏・日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経と唱える人間が仏だと明言されている。日顕は、この根本義を否定しているのだ。
日顕の慢心は、それにとどまらない。恐るべきことに、日顕は日蓮大聖人の大慈大悲をも間違っていると否定する。日顕は「民衆の幸福がすべての基本にあるというような実に誤った考え」と言い、みずから民衆の幸福を考えていないことを吐露している。これが、御本仏の御心にかなっていないことは、もちろんのことである。
相伝書「御義口伝」には、次のように教えられている。
「仏の衆生を護念したもう事は護とは唯我一人能為救護・念とは毎自作是念是なり」(御義口伝)
【通解】仏が衆生を護念するということは、護とは譬喩品の「唯我れ一人のみ、能く救護を為す」とあるごとく、日蓮大聖人が一切衆生を救護されることが護念の護である。また念とは寿量品に「毎に自ら是の念を作さく、何を以ってか衆生をして、無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめん」とあるように、大聖人が一切衆生を救おうという大慈大悲の一念が護念なのである。
「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり豈今者已満足に非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり、妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり」(御義口伝)
【通解】いま、日蓮大聖人がお唱えになる南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生をことごとく成仏せしめるのである。どうして「今者已満足」でないといえようか。「已」とは、日蓮大聖人が建長五年四月二十八日、清澄寺において、はじめて唱え出されたところの題目を指して、「已」と意得るべきである。妙法の大良薬をもって、一切衆生の根本の迷い、不幸の根源を除き去り、幸福境涯に住せしめることは、疑いのないことである。これを思いやるときに、日蓮大聖人は所願満足されたのである。また衆生に約していえば、成仏をもって満足というのである。
「日本国の一切衆生は子の如く日蓮は父の如し」(御義口伝)
日顕は、「民衆の幸福がすべての基本であるというような実に誤った考え」と言っているが、それが誤った考えでないことは、引用した御金言で明白となる。
日顕は、日蓮大聖人と違うことを主張しているのだ。ということは、日顕に、「実に誤った考えに囚われているというのが今日の創価学会です」と言われている創価学会は、日蓮大聖人の教えどおりに実践している正しい団体ということになる。
日顕は、御書を根本に話しているのではない。己の邪まな心を隠し、人を誑かすために日蓮大聖人の名を口にし、御聖訓を引用するだけだ。
日顕が、先の発言の中で引用している御聖訓にしても、元意もなにもわからずに、ただ引用しているだけである。
「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(経王殿御返事)
【通解】この御本尊は、日蓮が魂を墨に染めながして書き認めたものである。信じていきなさい。釈迦仏の本意は法華経である。日蓮の魂は南無妙法蓮華経にすぎたものはない。
民衆の幸福を思いやり、御図顕された御本尊について仰せになっている御聖訓を、日顕は民衆支配の根拠とする。“自分に額ずき、自分の独占している本尊を拝まなければ成仏しないぞ”と信徒支配の依文として掲げるのだ。
天魔・日顕は御本仏・日蓮大聖人の御心に逆行して、御聖訓をことごとく悪用する。そして、とどのつまりは、「簡単に衆生本有の妙法が妙法であるのだったら、それは、日蓮大聖人の仏法ではない」とうそぶく。
日顕は、これでも“法主”なのだろうか。日蓮大聖人の仏法の全否定である。“衆生本有の妙法が妙法である”ことは、日蓮大聖人の仏法の根幹であろうに……。
南無妙法蓮華経は、人間がもともと有するものなのだ。民衆の誰もに備わったものである。満座の僧俗も、法義に反した日顕の言葉を、よく黙って聞いていたものと感心する。
末法の御本仏・日蓮大聖人は、次のように甚秘の法門を口伝されている。
「我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり、此の大事を釈迦如来・四十余年の間隠密したもうなり今経の時説き出したもう此の大事を説かんが為に仏は出世したもう我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云」(御義口伝)
【通解】また、日蓮大聖人の仰せには、我々の頭は妙であり、喉は法であり、胸は蓮であり、胎は華であり、足は経である。すなわち、我々の身体自体が妙法蓮華経の当体なのである。
この大事を釈迦如来は、四十余年のあいだ隠密して説かなかったのである。法華経にきて、初めて説いたのである。また、この大事を説くために仏は世に出現したのである。我々の一身が妙法蓮華経の五字であると開仏知見するとき、即身成仏するのである。
「開仏知見」の「開」とは「信心」の異名である。信心をもって南無妙法蓮華経と唱え奉るならば、そのまま開仏知見するのである。そして信心を開くとき、人間革命した実相を示し、南無妙法蓮華経の功徳を我が身の上に顕現し、他にも示すことが示仏知見なのである。妙法と示したときに、幸福は他の世界のどこかにあるのではない、この現実の我々の世界が即霊山浄土の寂光土と悟り、わが身がこのまま仏である、即身成仏できるのであると確信することが悟仏知見なのである。そう確信したときに、譬喩品に「此の宝乗に乗じて、直ちに道場に至らしむ」とあるように、いかなる難があろうと、もうすでに仏界に照らされたゆうゆうたる人生行路となっているのである。これを入仏知見というのである。
ところでこれらの四仏知見を一貫してつらぬいているものは信の一字であり、またこのように開、示、悟、入と四つに立て分けることはできるけれども、それはぜんぶ別のものではなく、ぜんぶ信心のなかに含まれるのであるから、信心の開仏知見をもって正意とするのである。入仏知見の「入」の字は、迹門の意で読めば、実相の理内、すなわち百界千如、理の一念三千の境涯に入ることである。本門の意でこの「入」の字を読めば、一切衆生の生命に実在する仏界が現実に具現し、理即本覚と入る。すなわち、我が身が即本覚、事の一念三千の当体とあらわれることが入なのである。今、日蓮大聖人およびその門下で、南無妙法蓮華経と唱え奉るほどの者は、宝塔に入るのである。すなわち、大御本尊の体内に入り、己心の大御本尊を涌現し、大宇宙のリズムと合致した活動となるのであると。
「寿量品とは十界の衆生の本命なり、此の品を本門と云う事は本に入る門と云う事なり、凡夫の血肉の色心を本有と談ずるが故に本門とは云うなり、此の重に至らざるを始覚と云い迹門と云うなり、是を悟るを本覚と云い本門と云うなり、所謂南無妙法蓮華経は一切衆生の本有の在処なり爰を以て経に我実成仏已来とは云うなり云云」(御義口伝)
【通解】寿量品すなわち永遠の生命とは、十界の衆生の本質、根本の生命である。この寿量品を本門というのは「本に入る門」という意味である。すなわち、凡夫の血肉からなるこの生命が、色心共に本有すなわち久遠より常住のものなりと論じている。このゆえに本門というのである。生命をここまで本源的に説いていないのを仏に約して始成正覚といい、経に約して迹門というのである。
永遠の生命を悟るのを本覚といい、本門というのである。いわゆる南無妙法蓮華経は、一切の生命の久遠元初の故郷であり、寿量品の門を入った奥にある在所である。このゆえに、経に「我れ実に成仏してより已来」と説かれて、その成仏するにいたった本因の種子は文底に秘沈せられているのである。
日顕は、人本尊を足蹴にし法本尊を独占し、三宝をも毀辱する邪義を振りかざす。それも、戒壇の大御本尊様を私物化し、民衆支配の道具に使おうとの姑息な企みの故である。日顕は邪心にまかせて、次のように話した。
「従って、この本門戒壇の御本尊様を拝して題目を唱え奉る以外に、末法の七百年来の日蓮正宗の正法正義は存在しないのであります。と同時に、また本門戒壇の御本尊を根本においてこそ、妙法の真の即身成仏の功徳を必ず成就することができるのであります」
日顕の言っていることは、一応もっともなように聞こえるが、仏子らの御開扉を禁じ、創価学会を「破門」した者の発言だけに、言葉どおりには受け取れない。
日顕が心底このように考えているならば、問答無用と池田大作名誉会長を総講頭から引きずり降ろし、「C作戦」を断行することなどありえない。まして、創価学会総体を一気に「破門」し、創価学会員から御開扉の権利を奪うことなどするはずがない。
巧言をもって野卑なる心を隠す。僣聖増上慢にふさわしい綺語である。
結局のところ、日顕は邪義を振りかざしていながら、戒壇の大御本尊様を拝しに来ない創価学会員は成仏しないと言うのだ。
成仏、不成仏は、日顕の言うように戒壇の大御本尊様の物理的な所有の形態にかかわるものだろうか。大石寺貫首が邪義を構え、信徒に無条件な服従を強いている現在、その邪義を拒絶し、戒壇の大御本尊様を遥拝するのも信心である。
エロ坊主に額ずき、仏子としての魂を抜かれ、戒壇の大御本尊様にお目通りして、どうして宗祖・日蓮大聖人のお誉めにあずかれようか。それではまるで、禅宗や浄土宗に改宗して鎌倉幕府の覚えをよくし、佐渡流罪中の日蓮大聖人にお目通りしに行くようなものだ。
信仰は、人間生命の最高次元に依拠する営みである。信仰の正邪を戒壇の大御本尊様の物理的所有の形態に帰着させ、それを根拠に、これまた人間生命の根本的帰趨ともいえる成仏、不成仏を結論づけるとは、日顕は本当に低俗である。
邪義を振りかざし、日蓮大聖人の仏法を否定していながら、戒壇の大御本尊様を物理的に所有しているだけで、エロ坊主でも尊いというのだろうか。
最極のものを物理的に所有していれば、極悪の者でも人の成仏、不成仏を決することができるというのだろうか。
日顕の話は、玉を呑んだ犬や金粉を舐めた猫が尊いと言っているような珍妙な論でしかない。
日顕が、自分に従わなければ戒壇の大御本尊様にお目通りさせないとし、いかに仏子らの御開扉を拒もうとも、創価学会員と戒壇の大御本尊様を精神的に切り裂くことなどできはしない。
日顕は創価学会員を「破門」にし、それでいて戒壇の大御本尊様にお目通りに来なければ成仏できないと言う。日顕の発想は、ことごとく即物的なのだ。この“法主”とやらは、宗教を高次の生命活動として認識できていないのである。
やっていることは恐喝犯であり、誘拐犯であり、コソ泥である。発想は犯罪人と変わらない。
要は、“戒壇の大御本尊様を所有している自分に従え、従えば御開扉させる。従わないまま御開扉できなければ成仏しない”と言っているのだ。本質的には“自分に従え”と言っているだけのこと。このようなバカバカしい仏の法があるものか。
その日顕が、衆生本有の妙法たる南無妙法蓮華経の存在を全否定する。それだけではない。全世界の民衆のために御本仏・日蓮大聖人が御図顕された戒壇の大御本尊様を独占所有して支配の道具と使い、民衆の幸福は二の次だとうそぶく。
この天魔は、日蓮大聖人の仏法に真っ向から立ち向かっているのだ。日顕のこの邪義を、心ある日蓮正宗僧俗は、どのように聞いているのだろうか。
天魔・日顕の邪義が、本門大講堂で声高に叫ばれているのを、いつまでもほおっておくことは許されない。