報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

三章 法脈ほうみゃく濁乱じょくらん

地涌オリジナル風ロゴ

第126号

発行日:1991年5月6日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日蓮正宗の血脈の史実を離れた幻想による安易な絶対化は
日蓮大聖人の仏法に対し世人の誤解を生じさせはしないか

日蓮正宗の歴代の御法主上人の中で、謗法を犯した者として特記しなければいけないのは第十七世日精上人である。

堀日亨上人は、『富士宗学要集』第九巻において、次のように記されている。

「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり但し本山には其弊を及ぼさざりしは衷心の真情か周囲の制裁か」

京都・要法寺の出身であった日精上人が、要法寺の宗風を本宗に持ち込んでしまったと書かれている。だが本山の大石寺においては造仏などおこなわれなかったことが、この文でわかる(ただし、戒壇の大御本尊様を御影堂に安置し、内拝の形式を廃するなどの過ちをおこなった)。

ここで注意しなければならないのは、大石寺に与えた要法寺の影響が思ったほど少なかったことについて、「衷心の真情か周囲の制裁か」と書かれているところである。

日精上人の著した『随宜論』という一巻がある。日精上人が書かれた当初は無題であったが、後に『随宜論』といわれるようになったとされている。

日精上人はこの『随宜論』において、仏像の造立と法華経のすべてを読誦することの正当性を述べられている。その『随宜論』の巻末は、次のように締めくくられている。

「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す。茲に因つて門徒の真俗疑難を致す故、朦霧を散ぜんが為、廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり」

この巻末の文によると、日精上人が法詔寺建立の翌年に仏像を造立したことによって、「門徒の真俗疑難を致す」と記されていることから、造仏によって宗内が相当に騒然となった様子がわかる。

それまで仏像を造り拝むなどということは謗法とされてきたのに、法主がそれをおこなったのだから大騒ぎになったのも無理のないことだ。『随宜論』巻末の文は、そのことを物語っている。

『富士宗学要集』に収録された資料などを総合すると、造仏をおこなった寺院は確認されるだけで、「法詔寺」「常泉寺」「青柳寺」「妙経寺」「本成寺」「久成寺」「長安寺」「本源寺」「鏡台寺」「常在寺」「実成寺」などに及んでいる。

また京都・要法寺で、釈迦像が安置されて本堂を再興するにあたっては、日精上人みずから助力したことが記録に残されている。

この日精上人が、宗内の造仏に反対する動きを封じるために著したのが、先の『随宜論』だが、いったいそこにはどのようなことが書かれているのだろうか。代表的な箇所を紹介してみたい。

「造仏は即ち一箇の本尊なり、誰か之を作らざる。然るに今に至るまで造仏せざることは聖人の在世に仏像を安置せざるが故なり」

日精上人は、造仏は当然のこととし、これまで仏像を造らなかったのは、日蓮大聖人がなされなかったことのみが理由だとしている。本来造るべきものを、いわば習慣として造らないできただけだというのである。

「権教(経)の意に約せば、造仏は悪趣に堕さざるの因、天上に生ずの縁なり。権経猶此の如し況んや実大乗の法華経は小善悉く成仏す、造像の大善は言論すべからず」

日精上人は、権教においてすら仏像を造ることは善因となるのだから、実大乗の法華経では大善となることは言うまでもないと強調している。恐るべき邪義である。

「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり如何」

文のとおりである。日蓮大聖人が鎌倉、伊豆、佐渡、身延などと諸処を転々とされ居処が定まらなかったことが、仏像を造立・安置されなかった理由であるとしている。

この類いのことをいろいろと御聖訓を引用しつつ論じた後に、日精上人は「古より今に至るまで造仏は堕獄の因と称するは誤りの甚だしきなり」と結論づけている。いやはやとんでもない法主がいたものである。

後に総本山第三十一世の日因上人は、この『随宜論』の巻末に筆を加えられ、「日因云、精師御所存ハ当家実義と大相違也」と、日精上人の考えは、富士大石寺の本当の教義と大きく違うとわざわざ断わり書きをされ、邪義であることを断じておられる。

この日精上人の用いた邪義邪説は、京都・要法寺の広蔵院日辰の影響をまともに受けたものだ。この第十七世日精上人の邪義の影響は、第二十二世日俊上人、第二十三世日啓上人などによって正されるまで続く。

最終的に要法寺の邪義を、その根本より断ち切られたのは、第二十六世日寛上人であった。

日精上人のような狂える法主が出たことに暗澹たる思いを禁じ得ないが、唯一の光明は、この日精上人の邪義に抵抗した僧俗のいたことが、当時の文献からうかがえることである。すなわち、日精上人みずから記しているように「門徒の真俗疑難を致す」といった事実があったことだ。

理境坊(住職・小川只道)の妙観講の機関誌『暁鐘』(一九九一年三月号)の「大御本尊と血脈相承」という一文には、次のような記述がある。

「大聖人御内証の法体が、日興上人より第三祖日目上人へ、日目上人より第四世日道上人へと、あたかも筒の中を水が流れるごとく、歴代御法主上人に血脈相承されてきたことを考えるならば、歴代の御法主上人を日蓮大聖人の御代管と仰いできた本宗七百年の伝統が、鮮明に理解されるのであります」

このような血脈観では、邪義を立てた日精上人の代で日蓮大聖人様の血脈は途絶えたことになってしまう。日精上人以降は、筒の中を毒水が流れていることになる。しかし事実は正しい法主もいれば、邪な法主も出たということである。

法主の権威を尊極無上のものとするために、いたずらに言葉をもてあそぶのは、血脈が途絶えているとする論拠をいともたやすく他宗派に与えてしまうことになる。安易な宣揚は、日蓮大聖人の仏法に対して世人の誤解を生じさせることになりはしまいか。

三章 法脈濁乱 終

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