第89号
発行日:1991年3月30日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
民衆救済のための大御本尊を破和合僧の道具に使うとは
宗門中枢は僣聖増上慢の本質をさらけ出したと見える
七月一日以降、創価学会員は、末寺から添書を受け取って登山し御開扉を受けることになる。登山の原則に立ちかえっただけなのに、なにが「流罪」だと反論する人もいよう。
だが、創価学会による月例登山会の廃止という宗門の方針決定は、そのようなきれいごとの判断に基づいてなされたものではない。
もし創価学会が拒否すれば、猊下の御指南に従わないものとして、ノドもとに再び刃を突きつける口実にするだろう。さらに、学会員が登山の申請に末寺に行けば、まずまちがいなく踏絵をつきつけられる。多くの末寺の住職は、猊下への「信伏随従」のみが御開扉を受ける者の資格であると、すでに決めていることだろう。
現に、末寺の一部ではその動きが始まった。
「七月一日からは、寺院の添書を持参することにより総本山への登山、御開扉を受けることができます。
しかしながら添書の性格上、寺院が日蓮正宗の信徒として認めた者にかぎり発行するのでありますから、御法主上人を誹謗し、寺院の参詣を拒んでいる現在の創価学会員の信心状態を考えますと七月一日よりの学会員の登山は出来ないということになります。
しかれば七月一日以降、登山・御開扉を受けられたい方々は、寺院に誓約書を提出し信徒名簿に記載し、日蓮正宗の寺院直属信徒とならなければなりませんのでなるべく早く寺院直属信徒の手続きをお取り下さい」
これは、日蓮正宗の末寺が創価学会員に送付しはじめている文書の一部である。
またその後も、創価学会員の折伏による新入信者には御本尊を下附しない、あるいは僧侶が紹介者と入信者を直接、面接して下附するかしないかを最終決定する、などといったことを通告してくることが充分考えられる。
ありとあらゆる場面を利用して、猊下への「信伏随従」を確かめようというわけだ。悪鬼入其身となった“平成の平左衛門尉”たちが、徹底的に大聖人門下をいじめ抜くことは必定である。
日蓮正宗総本山大石寺が大謗法の山と化しているときに、創価学会が出現した。昭和二十年六月十七日、軍部により大書院に神札を祀られたまさに翌日に、大書院、六壺、客殿ともども、時の猊下であった日恭上人は焼死した。国家諫暁をなさず、大謗法を犯しつづけ、大聖人の仏法に違背してきた日蓮正宗に、あまりに厳しい仏罰が下ったと拝察される。
「大悪をこれば大善きたる」の御金言どおり、この後、日蓮正宗は一大発展をとげた。それは戸田会長が焼土に一人立ち、正法弘通の大熱誠をもって大折伏を敢行したことによる。
牧口会長、戸田会長、池田会長と続く創価学会出現の不思議は、法華経に説かれた必然である。日蓮正宗すらもいつの間にやら、法華経に予言された末法の様相そのままとなってしまっていた。この「況滅度後」の世界に、創価学会は日蓮大聖人の仏法を弘めてきたのだ。
この創価学会を摧こうというのだから、日蓮正宗の中枢は魔に魅入られている。したがって、末寺を通して御開扉を受けるということは、一見、日蓮正宗と創価学会の関係の原則に立ちかえるだけのようにみえても、創価学会の解体を目的としたものである以上は、魔の所為と喝破していかなければならない。戸田会長もかつて何度となく強調しているように、創価学会なくして広宣流布などできないのである。
だからこそ創価学会は攻撃されるのだ。
「末法の法華経の行者は人に悪まるる程に持つを実の大乗の僧とす、又経を弘めて人を利益する法師なり、人に吉と思はれ人の心に随いて貴しと思はれん僧をば法華経のかたき世間の悪知識なりと思うべし、此の人を経文には猟師の目を細めにして鹿をねらひ猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして在家の俗男・俗女の檀那をへつらい・いつわり・たぼらかすべしと説き給へり、其の上勧持品には法華経の敵人三類を挙げられたるに、一には在家の俗男・俗女なり此の俗男・俗女は法華経の行者を憎み罵り打ちはり・きり殺し所を追ひ出だし或は上へ讒奏して遠流し・なさけなくあだむ者なり、二には出家の人なり此の人は慢心高くして内心には物も知らざれども智者げにもてなして世間の人に学匠と思はれて法華経の行者を見ては怨み嫉み軽しめ、賤み犬野干よりも・わろきようを人に云いうとめ法華経をば我一人心得たりと思う者なり、三には阿練若の僧なり此の僧は極めて貴き相を形に顕し三衣・一鉢を帯して山林の閑かなる所に籠り居て在世の羅漢の如く諸人に貴まれ仏の如く万人に仰がれて法華経を説の如くに読み持ち奉らん僧を見ては憎み嫉んで云く大愚癡の者・大邪見の者なり総て慈悲なき者・外道の法を説くなんど云わん、上一人より仰いで信を取らせ給はば其の巳下万人も仏の如くに供養をなすべし、法華経を説の如くよみ持たん人は必ず此の三類の敵人に怨まるべきなりと仏説き給へり」(法華初心成仏抄)
【通解】末法の法華経の行者は、人に憎まれるほど受持するのが真実の大乗の僧であり、経を弘めて人を利益する法師であるとしている。人によく思われ、人の心に従って貴しと思われる僧は、法華経の敵であり世間の悪知識であると思いなさい。この人を経文には、猟師が目を細目にして鹿を狙い、猫が爪を隠して鼠を狙うようにして、在家の俗男俗女の檀那に諂い、偽り、たぶらかすであろうと説かれている。
そのうえ法華経勧持品第十三には、法華経の敵人として三種類を挙げられているが、一つには在家の俗男俗女である。この俗男俗女は法華経の行者を憎み、罵り、殴りつけ、切り殺し、追放し、あるいは権力者に讒奏して遠流し、情け容赦なく怨む者である。
二つには出家の人である。この人は慢心が高く、内心は物も知らないけれども智者のように見せかけて世間の人に学匠と思われ、法華経の行者を見ては怨み、妬み、軽んじ、賤しみ、犬や野干よりも劣っていると人に言って嫌うように仕向け、法華経を自分一人が心得ていると思う者である。
三つには阿練若の僧である。この僧は極めて貴い姿を形にあらわし、三衣一鉢を携えて山林の静かな所に籠り住んで、釈尊在世の阿羅漢のように諸人に貴まれ、仏のように万人に仰がれており、法華経を説かれた教えのとおりに読み持ち奉る僧を見ては、憎しみ妬んで『大愚痴の者であり、大邪見の者である。まったく慈悲のない者で、外道の法を説いている』などと言うであろう。上一人から仰いで信じられるから、その以下の万人も仏に対するように供養するであろう。法華経を教説の通りに読み持つ人は、必ずこの三種類の敵人に怨まれるであろう、と仏は説かれている。
「阿練若」とは、「山林、原野等を意味し、人里から近からず遠からず離れた、比丘が修行するのに閑静で好適な場所をいう。一般には、人里離れた山寺や寺院等のこと、またそのような所で法を説く比丘という意味にも使われる」(『仏教哲学大辞典』)。
すなわち僣聖増上慢の者が静かな山寺にこもって、人々に邪法を説く姿をいうのだ。いまの日蓮正宗の僧の仏法破壊を、日蓮大聖人は滅後の弟子檀那のために予言されていたのである。
文永八年十月から文永十一年三月までの二年半の間、日蓮大聖人の弟子たちは、佐渡に流罪中の師を偲びながら折伏を行じた。時の権力者におもねることなく、信心強盛に戦いつづけた。だが、そのような弟子のいた半面、退転する者もあまたいた。また師を批判する者も出た。
末法今時、日蓮大聖人の弟子である創価学会員は、決して権威・権力者に屈することもなければ僣聖増上慢の者に仏種を断たれることもない。詐り親しむこともない。
いかに大御本尊にお会いしたいとはいっても、悪僧におもねることはしない。