報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十一章 虚言きょげん羅列られつ

地涌オリジナル風ロゴ

第377号

発行日:1992年2月5日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

ニセ曼荼羅である導師本尊を掲げた罪は偏に僧侶にある
御本仏日蓮大聖人の大慈大悲は逝きし衆生を温かく包む
〈導師本尊シリーズ・第5回〉

導師本尊を掲げ、戒名をもらい、僧に引導を渡してもらわなければ成仏しないと日顕宗では言う。海外などで葬儀をおこなう場合、導師本尊もなく僧を呼ばずとも成仏するのは、法主の裁可があるからだとも言う。ことはどうあれ、宗教的に特別な立場にある僧が介在しなければ、民衆は成仏しないと言っているのだ。

しかし、それは決して本来の仏教に根拠を求めることのできるものではなく、己義以外の何物でもない。まして堕落した僧が、御本仏と衆生のあいだに立ちはだかろうとは、もってのほかである。

御本仏日蓮大聖人は、「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとする」(生死一大事血脈抄)と、本願のほどを仰せになっている。

日顕宗の中には、導師本尊がニセ曼荼羅というなら、これまで導師本尊で葬儀を執りおこなった人々は不成仏というのか、と開き直った論を展開している者もいる。

本来、日蓮大聖人の正統正家たるべき日蓮正宗には、「七百年の垢」が積もりに積もっている。これは、ひとえに僧侶の責任である。

日蓮正宗の化儀化法に従わざるを得なかった創価学会員にとって、みずからが認識できないまま、その化儀化法の中に邪宗の夾雑物が入っていたからといって、どうして、その罪の一切を引き受け、不成仏の罰を受けることがあろうか。

ましてや生涯を広宣流布のために捧げ、御本仏日蓮大聖人の教えに殉じた者が、導師本尊を葬儀に掲げたことによって不成仏などということは、仏法の道理に照らしてあり得ない。

成仏は、臨終に至るまでの当人の信心により決している。葬儀のあり方で成仏不成仏が決すると考えること自体が、日顕宗の日顕宗たる所以である。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「但在家の御身は余念もなく日夜朝夕・南無妙法蓮華経と唱え候て最後臨終の時を見させ給へ、妙覚の山に走り登り四方を御覧ぜよ、法界は寂光土にして瑠璃を以て地とし・金繩を以て八の道をさかひ、天より四種の花ふり虚空に音楽聞え、諸仏・菩薩は皆常楽我浄の風にそよめき給へば・我れ等も必ず其の数に列ならん、法華経はかかる・いみじき御経にて・をはしまいらせ候」(松野殿御返事)

【通解】在家の身としてはただ余念なく、日夜朝夕に南無妙法蓮華経と唱えて、最後臨終の時を見なさい。妙覚の山に走り登って、頂上から四方をご覧なさい。法界は寂光土であり、瑠璃をもって大地とし、黄金の縄で涅槃に至る八つの道の境をし、天からは曼荼羅華等の四種類の花がふり、虚空に妙なる音楽が聞こえ、諸仏菩薩はみな常楽我浄の四徳の風にそよめいている。我等も必ずその仏・菩薩の数の内に連なるであろう。法華経はこのようにすぐれた経なのである。

「今生につくりをかせ給ひし小罪はすでにきへ候いぬらん、謗法の大悪は又法華経に帰しぬるゆへに・きへさせ給うべしただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・ごとくうれしく、とくしにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん」(妙心尼御前御返事)

【通解】今生につくりおかれた小さな罪はすでに消えてしまったことであろう。謗法の大悪もまた、法華経に帰依されたことにより消え失せるに違いない。やがて霊山に参られたならば、太陽が出て十方世界を見晴らすようにうれしく、早く死んでよかったと喜ばれることであろう。

また、日蓮大聖人はもったいなくも、次のようにも仰せになっている。

「我より後に来り給はん人人は此の車にめされて霊山へ御出で有るべく候、日蓮も同じ車に乗りて御迎いにまかり向ふべく候、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」(大白牛車御消息)

【通解】日蓮より後に来る人々は、この車に乗られて霊山ヘおいでになられるがよい。そのとき、日蓮も同じ車に乗ってお迎えに向かうであろう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華。

御本仏日蓮大聖人は、みずから弟子を迎えるとまでおっしゃっているのだ。

一度でも題目を唱えた者は、みな仏なのである。まして、仏意仏勅の不思議な団体である創価学会に縁し、広宣流布の陣列に加わった者が成仏しないはずはない。

「問うて云く法華経の意をもしらず只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて一日に一遍一月乃至一年十年一期生の間に只一遍なんど唱えても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかずついに不退の位にいたるべしや、答えて云くしかるべきなり」(法華経題目抄)

【通解】問うていうには、法華経の意味も知らず、ただ南無妙法蓮華経とだけ五字七字の題目のみを、一日に一遍、一月あるいは一年、十年、一生の間にただ一遍だけ唱えたとしても、軽重の悪業に引かれずに、四悪趣にいかないで、ついには不退転の位に到達することができるのか。答えていうには、いかにもそのとおりである。

また、仏法の本義からみれば、人間は死して成仏するのではない。日蓮大聖人の教えを信じ、唱題折伏に励む人々はことごとく、すでに成仏の境界にあるのだ。

「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死とも仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、『若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり』」(上野殿後家尼御返事)

【通解】生きておられたときは生の仏、今は死の仏、生死ともに仏である。(法華経の)即身成仏という大事の法門はこのことを説きあらわされたのである。法華経の第四の巻・宝塔品に「若し能く(この経を)持つものは仏身を持つ者である」とある。

どうして、広宣流布に生涯を捧げた人、あるいは一度でも南無妙法蓮華経と唱えた人が、成仏していないといえるのだろうか。

導師本尊を認めたのは、もっとも純粋に日蓮大聖人の教法を実践する立場にあるべき法主である。その者が、誤った伝統教学に染まり、御本尊の相貌に「閻魔法皇」「五道冥官」を書き加えたからといって、健気に御本仏日蓮大聖人を恋慕渇仰している仏子らが罰をこうむることなどありはしない。御本仏日蓮大聖人は、いっそうの憐憫の情をもって仏子らを見守られたことだろう。

導師本尊がニセ曼荼羅であることは、僣聖増上慢に対する仏子らの執拗な破折があったればこそ判明したのである。日蓮大聖人の教えのもと、あるゆる因習を押し払い、同志葬・友人葬を果敢に実践してきた仏子らの戦いがあったればこそ、法脈に忍び込んだ邪義が浮かび上がってきたのである。

日顕一派が、導師本尊、戒名、引導、そして僧の葬儀への出席がなければ死者生者ともに堕地獄だと強弁しなければ、このようなことはわからなかった。

創価ルネサンスの宗教改革を推し進める、仏子らの大河の流れが、何百年にもわたって法脈に忍び込んだ邪義を洗い出したのだ。そのことによって、日顕宗の拘泥する化儀化法の中に、本来の日蓮大聖人の仏法とは無縁のしきたりがあることを知り得たのだ。

創価学会の推進するこの仏教運動が、過去にさかのぼれば釈迦以来の三千年にも及ぶ仏教史の流れの中において、最重要事の意義を持つものであることを知ることができる。また、未来を見すえれば、日蓮大聖人の大慈大悲を世界に具現化する偉大なる結節点となることがわかる。

今回の導師本尊の問題は、悠久なる仏教史から見れば些事にすぎない。末法万年尽未来際に至る地涌の菩薩の大河は、日蓮大聖人の教法を葬式仏教の枠内にとどめようとする悪比丘たちの謀を打ち砕き飲み尽くして滔々と流れゆくことだろう。

導師本尊がニセ曼荼羅なら故人は不成仏かとの悪比丘らの難癖も、日蓮大聖人の大慈大悲によれば風の前の塵に等しい。御本仏日蓮大聖人を純真に慕う人々に対し、御本仏は慈愛をもって次のように仰せになっている。

「設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、暗に月の入るがごとく湯に水を入るるがごとく冰に火を・たくがごとく・日輪にやみをなぐるが如くこそ候はんずれ」(崇峻天皇御書)

【通解】もし、あなたの罪が深くて地獄に堕ちるようなことがあれば、日蓮を仏になれと、どんなに釈迦仏がいざなわれようとも、従うことはないであろう。あなたと一緒に地獄へ入ろう。日蓮とあなたとともに地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も必ずや地獄におられるにちがいない。そうすれば、ちょうど闇の中に月が入って輝くようなものであり、また湯に水を入れ冷ますようなものであり、氷を火をたいて溶かしてしまうようなものであり、また太陽に闇を投げつければ闇が消えてしまうようなもので、地獄即寂光の浄土となるであろう。

「四条金吾が罪深くして地獄に行くのであれば、私も一緒に地獄に行こうではないか」との御本仏日蓮大聖人の大慈大悲と、「導師本尊を掲げなければ地獄に堕ちるぞ」と脅す日顕を対比してみれば、多くの言葉はいるまい。

日蓮大聖人の教えを懸命に実践してきた弟子を、いかに御本仏が思いやられたかを知れば、広宣流布に生き抜いた同志たちが、霊山においていかなる称賛を受けたかを確信することができる。

まして、その後において子々孫々が純真なる信心を貫き、故人を追善することは甚深なる意義がある。

「今日蓮等の類い聖霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ」(御義口伝)

【通解】今、日蓮大聖人およびその門下が、大御本尊に結縁して亡くなった人に法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱えて追善供養する時、題目の光が無間地獄に至って、即身成仏することができる原理である。

南無妙法蓮華経に縁した衆生は無量の功徳を受け、信心する者は生死を超えて成仏の境界にある。さらに仏子らの唱える追善の題目は、とこしえの別離となる死を超えて、無限の彼方を照らすのである。

どのような理由をもって、導師本尊を掲げなければ不成仏というのか。

故人の信心は強盛にして、遺族の信心もまた純真であるのに、法脈に忍び込んだ「閻魔法皇」「五道冥官」障りをなし得ようや。先立った仏子らの成仏は、疑いのないことである。

ただし、導師本尊の過ちを指摘されたのちも、それに執着し、導師本尊を掲げぬ葬儀は不成仏と謗る徒輩は、もはや日蓮大聖人の弟子とはいえない。まさしく謗法の者である。

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